『The Piano Legendary Recordings』、ドイツ・グラモフォンの111周年を記念し、
ピアノ音楽だけを40枚セレクトし、ボックスセットにしたもの。その内の1枚が、このアルバム。
ホロヴィッツといえば、1930年代から活躍し、大きな会場を埋めつくした観客を熱狂させたヴィルトゥオーソとして有名。
観客を熱狂させるというのは、両刃の剣で、派手で豪快な高速演奏に傾きがちなことでもあった。
だから彼は公演活動から何度か身をひき、そうした歓声、評価と共に、ピアノから遠ざかる時間を持ったりした。
自分としては、彼がそうした時期を持っている1962年頃にスタジオ録音した、スカルラッティやハイドン、クレメンティ、
スクリャービンの曲を録音したアルバムの清澄さと静謐さが好きで、愛聴している。
この『ラスト・ロマンチック』で聞かれるのは、自分が好きなピアノ音楽を、最も弾きたいように、
聞きたいように解釈し、演奏する、卓越した技術を持ったピアニストのつぶやきのような、詩精神のようなもの。
美意識と神経で弾いているような世界なので、ピアニシズムとしては、どうしても”往年の”という言葉が浮かんできてしまう。
アルバムはバッハから始まるが、これはバッハを弾いたというよりも、
ブゾーニの編曲を弾いたといった方が正しいのではないか。
ホロヴィッツが晩年に、ジュリーニと組んで、モーツァルトのPコンチェルトを1曲だけ正規録音した。
その第1楽章のカデンツァは、ブゾーニのものが選ばれている。
2曲目がモーツァルト。ホロヴィッツのノン・レガートのピアノ演奏の魅力と特徴が際立っている。
音楽史を進みながら、徐々に自分の本丸に近づいていく。
総じて、このアルバムは、CD1枚の世界の中で、「私はこういうピアニストだったのです」と、
キャリアの終局に近づいた達人ピアニストが、自らを振り返り、
音楽愛好家たちへ別れの会釈をしているような印象がある。
NYの自宅で録音されているらしく、とてもリラックスして弾いているし、弾けている。
それがそのまま音になっているのが記録されているのは貴重。
収録曲の中では、全盛期の彼が「リストの生まれ変わりだ」と言われていたように、リストの「慰め(Consolation)」が
最も素直で、響きも演奏も、美しく整っているだろう。短い曲だが、スクリャービンの「Etude」の寂寥感もすばらしい。
最後の音が消え去った後の、灰色の無音の時間は、このピアニストの後ろ姿をじっと見ているようで、
アルバムの中で最も濃密な一瞬かもしれない。
その後の有名なショパンの「英雄ポロネーズ」は、自宅で、大観衆なき場所で、やや諧謔風に弾かれている。
スタッカートで短く区切られた音符とコミカルな弾き方は、グールドがモーツァルトなどで見せたものを思わせる。
ステージの上では決して弾かれない雰囲気が、ここで味わえるのは楽しい。
ラストのモシュコフスキー「練習曲」は、ホロヴィッツのサインのようなもので、さっと一筆で描かれたアンコール・ピース。
自分は、リスト、スクリャービン、シューベルト、バッハ、モーツァルト、ショパンのマズルカといった曲を
プログラムして聴いている。するとアルバムの印象はまったく変わり、ホロヴィッツの心地よい世界にひたることができる。