先日、
『チェーホフ傑作選』(河出書房新社 2010年)
の「編訳者解説」を読んでいたら、以下の記述が目に留まりました。
「そっちには僕の声とどいてますか
擦れ違う季節に思いをよせている
多分ね きっと変わらない この先もどこにいても
(山崎まさよし「ツバメ」)」 (『チェーホフ傑作選』Kindle 位置No. 3392)
これは『チェーホフ傑作選』の編訳者である浦雅春さんが、その「編訳者解説」の中で「届かない手紙」と題して、チェーホフのいくつかの作品を解説している部分に、エピグラフ風に挿入されていた歌詞でした。なんとも意表を突く形で私は「ツバメ」の歌詞に久しぶりに接しましたが、その時、本アルバム『ステレオ』を繰り返し聞いていた頃が自然と思い出されてきました。そして、『ステレオ』の中では1曲目の「ツバメ」をとりわけ好んで聞いていたことも思い出され、特に「ツバメ」の「コインランドリーは歩いて2分 軽い口笛は少しの余裕」という部分に当時強い共感を覚えていたことが思い出されたのでした。
このアルバムが聞かれていた90年代後半というのは、バブル崩壊後の混乱で大手証券会社が倒産したり大手銀行が経営破綻したりしていた時期でした。年間の自殺者数が3万人を超えたりしていましたが、いわゆる就職氷河期でもありました。その様な世相であったため、20代の人々は思いの外強い社会の風当たりに直面し、孤立感や焦燥感を募らせていた様に感じます。そんな中、私はこの歌詞を、「いろんなものに押し潰されそうになっているけれども、とりあえずは『軽い口笛』でも吹くことで、『少し』ばかりの心の『余裕』を確保している」と、半ば勝手に解釈していました。そして、「コインランドリーは歩いて2分」という、とても生活感のある具体的な言葉によって、あたかも自分がその場の空気に触れているかのように感じながら、共感していたのでした。
それから、20年以上経ったことになりますが、「ツバメ」は今聞いてもやはりいい曲だなぁと感じます。そして、当時の私はその様な解釈をしながら聞いていましたが、もちろん、時代を超えたいい曲であると、改めて感じます。そんな私としては、「ツバメ」をはじめとした曲が収録されている『ステレオ』をお薦め致します。
なお、『チェーホフ傑作選』の「編訳者解説」では、チェーホフの文学が五つの項目によって説明されていましたが、各々の項目でエピグラフ風に挿入されていたのは、以下の様にすべて山崎まさよしさんの曲の歌詞でした。
< この声を届けてほしい - 編訳者解説 >
1 届かない手紙
「そっちには僕の声とどいてますか
擦れ違う季節に思いをよせている
多分ね きっと変わらない この先もどこにいても
(山崎まさよし「ツバメ」)」 (『チェーホフ傑作選』Kindle 位置No. 3392)
2 コミュニケーションへの餓え
「ありったけのこの声を届けて欲しい君のとこへ
悲しみを残したまま僕らは次の場所へもう踏み出している
(山崎まさよし「明日の嵐」)」 (『チェーホフ傑作選』Kindle 位置No. 3445)
3 聞くこと
「どっかで僕の唄 聞けますか
風に乗せるつもりで必死でつむいだけど
(山崎まさよし「ツバメ」)」 (『チェーホフ傑作選』Kindle 位置No. 3491)
4 呼びかけること
「うまく君の名を呼べないよ
せつなくて むなしくて つぶされそうさ
わかるかい 僕はここにいる
(山崎まさよし「僕はここにいる」)」 (『チェーホフ傑作選』Kindle 位置No. 3538)
5 笑うこと
「もともと何処吹く他人だから価値観はイナメナイ
流行が好きだったりそのわり古風なとこあったりするのね
(山崎まさよし「セロリ」)」 (『チェーホフ傑作選』Kindle 位置No. 3592)
おそらく、著者の浦雅春さんは、現代の日本人に、帝政ロシア末期の作家チェーホフの文学を解説するにあたり、山崎まさよしさんの歌詞を引用することが、その理解の助けになると考えて、挿入されたのだと推察します。そして、この「編訳者解説」は、浦雅春さんの前著
『チェーホフ』(岩波新書 2004年)
と内容が若干重なるものの、とても趣深いものです。そのため、本アルバムや山崎まさよしさんの曲に親しんだ方で、チェーホフに少しでも関心をお持ちの方には、この『チェーホフ傑作選』(河出書房新社 2010年)の「編訳者解説」のご一読もお薦めする次第です。