直前に亡くなった朋友の松田優作に捧げられた作品とする情報も散見され、確かに松田組とも言えるメンバーでスタッフが固められているがそこは桃井である。しっかりと「かおり色」に染められてもいる。
通説の「映画は監督のもの」を覆すそのスタンスは、デビュー直後の共演もあり役者とはどうあるべきか迄にも彼女に影響を与え、原田芳雄の真似をし過ぎと幾度となく松田を批判した萩原健一のものであろうし、奇しくも同じドラマでのそれぞれの殉職シーンの差違で象徴的に見ても取れるが、男の子の羨望や願望を徹底的な非現実的な迄に具現化した松田のよりも、弱さや情けなさ迄をも盛り込んだ萩原のオトコ像の方に、当時のトーク番組での当作品を指しての桃井自身の発言「女のダンディズム?レディズム?」をも併せ、より多く重なる。
手掛りの「長い髪」を切った吾郎を認識出来なかった部下や目撃者(男達)とは違い、繕い物をしていたきぬは一目でそれと確信した瞬間歯で糸を切る。
初登場シーンで透けるナイロンの靴下を覗かせながら貧乏ゆすりをしていた木戸はその理解を越えた感覚に齧っていたリンゴを道路に壁に高架の天井に叩きつける。
古色蒼然ともいえる小道具を用いた対比も興味深い。
作中の「鳥のイメージ」は幾度となく現れる舞い飛ぶ羽根は勿論“絶対に開けられない”部屋の壁に彫り付けられた絵や“オデンじゃない”たまごや吾郎に教える目玉焼きやTシャツや追い駆けながら両手を広げるきぬ迄を含めて、それは吾郎の出生≠事件の根本と通低していて犯行は「母(≠被害者)」と共に自らの否定でもあるが、きぬは他でもない「それ」を以て解決へと導く。
ギャビン・ライアル的にカッコイイ台詞やシーン満載で前後や左右を活かしたカメラワーク等もスタイリッシュな映画という側面だけでも卓越した当作品が一部では、別の例えば「疑惑」や「もう頬づえはつかない」での絶大ともいえる好評価とは裏腹に酷評されてもいるが少なくとも上記二作品と共通する「観る者に深い印象を与えるラストシーン」は用意されている。(敬称略)
レビュータイトルは女房の「刑事(デカ)取るか子供とアタシを取るか」との“突然”の言い出しに「女って」とした木戸に対し「女がじゃないでしょ。アンタん家(ち)の女がでしょ」と返したきぬの台詞後半部分。