1978年公開
「ギリシャ神話」とゲーテの「ファウスト第2部」に出てくる「地上で最も美しい絶世の美女」ヘレネー。そのヘレネーと同じ名を持つ、ヘレーナだけが純真であり、彼女だけが、母親シャロッテを愛することができる(ヘレーナがベッドから転げ落ちる場面が痛々しい)。『ヘレーナはあなたを愛し、求めている! 彼女を愛して上げて! そうすれば、私はあなたを許します。私が幼少期・思春期に、あなたから受けた精神的虐待を許します』:エーヴァは、そのように考えることができる。しかし、シャロッテはヘレーナを「忌み嫌う」。そして、シャロッテはエーヴァに謝罪しない・・・そして、言い訳ばかり。
エーヴァは、シャロッテがエーヴァに精神的虐待を与えた、その当時のシャロッテと同じ年齢になって初めて、その虐待に対して復讐する:『私は、現在、あなたが私を虐待した時のあなたの年齢と同じ年齢になりました。あなたは、年端も行かない子どもだった私を、虐待しました。今度は、その時の(あなたが私を虐待した時の)あなたの年齢になった私が、老いたあなたに復讐するのです。私の苦悩が妄想ではないことを受け入れて下さい。そして、苦しみなさい』と。
娘の母への復讐。残酷な追体験。
ジャニス・ジョプリンのような眼鏡をかけたエーヴァの「幼児性」。
いつも、躁状態で、不眠症、背中の痛みに耐え続け、ピアノを弾き続ける母親シャロッテ。シャロッテの自己中心的・自己正当化。
エーヴァの幼児性と、シャロッテの自己正当化は、お互いを攻撃するが、その際、二人の互いの憎悪は「妄想(被害妄想)」に因るものではない。この物語においては、苦悩は妄想ではない。それは抜けない刺(とげ)であり、ふさがらない傷である。
ショパンの前奏曲が表わす「苦悩」は、シャロッテによってのみ表現され得る。エーヴァは、それを弾けない。しかし、シャロッテの弾く「苦悩」は、むしろ、エーヴァの中にある苦悩である。エーヴァは、シャロッテを許すことができる立場にある。また、エーヴァは、シャロッテを許そうとする(そのためにエーヴァはシャロッテを呼び寄せた)。
しかし、シャロッテは、決して、自己否定しない。
ショパン:前奏曲第2番イ短調:シャロッテ曰く「はじめは抑圧された苦悩・・・そして一瞬の安らぎ・・・しかしまた苦悩の世界に戻る。」
シャロッテもまた両親の愛情を知らずに育ったと語る。しかし、シャロッテの場合、彼女の「苦悩」は音楽の中に「埋もれている」。一方、エーヴァの「苦悩」は「埋もれていない」。つまり、シャロッテは音楽家として「ショパン:前奏曲イ短調」のスコアに記(しる)された「苦悩」を「解釈」することによって、シャロッテ自身の「苦悩」を、ショパンの音楽で「浄化(カタルシス)」できる。だが、エーヴァにはそれができない。エーヴァの「苦悩」は埋没することなく、氷山のように頭を海上に出している。
また、シャロッテは「ベートーヴェン」や「バルトーク」に逃げることができるが、エーヴァにはそれもできない。
本当の愛で、母シャロッテと理解し合い、愛し合いたいと願い続けるエーヴァの「苦悩」は、癒されることなく、消え去ることもない・・・娘エーヴァの母シャロッテへの「片思い」は、理性を狂わせる幻、出口のない迷路、見果てぬ夢・・・。エーヴァは、これからも、シャロッテを呼び寄せることができるだろう・・・が、その度に、互いの憎しみだけを残して、シャロッテはエーヴァのもとを去るだろう(この母娘の関係は、娘から母へという一方通行。その逆はない)。
「非常に独創性を発揮した、絶望的な、神経をいらだたせる曲。不均斉な旋律である(ハネカー)」(
作曲家別名曲解説ライブラリー ショパン:前奏曲第2番イ短調 101ページより
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