この作品を初めて観たのは試写会で。監督の訃報を耳にした約1ヶ月後のことだった。
小さな部屋にスクリーンとプロジェクター、並べられたパイプ椅子。そして部屋が静かにブルーで満たされていった、忘れられない光景。
それまでにデレク・ジャーマンが撮った全ての映画と、The SmithsのMVなどの映像作品も観てきていた。
ヴィジュアルセンス、メッセージ性、テーマ、映像と音との融合によって生み出される ”何か” ― 彼の作品は uniquest 、似たものは他に存在しない。
映像作家を含め、あらゆる表現者たちが世に送り出すモノは、その表現者の価値観・世界観・死生観・経験・知識・感情といった個人的な要素を反映している場合が殆どだ。
表現者の内面性とその表現したモノとを切り離して見ると、本質を捉えられないことがある。これはまさしくそうした作品だ。
死に直面し、視力をもほぼ失った中で創りだしたジャーマンの遺作。見えなくてもなお、映像作品という表現形態に拘りつづけて最期の作品を送り出した。
ここには彼の魂と、映像作品という名の芸術にそそぐ、情熱の全てが込められている。
試写会の途中から涙が溢れてとまらなくなった。
この映像作品は青の画面を 「観る」 ものではない。耳をそばだてて音を 「聞く」 ものでもない。 真っ暗な部屋で再生して欲しい。
これは、青で満たされた空間と、死と色彩を巡る思索と、サイモン・フィッシャー・ターナーによる音楽との融合を、全身で 「感じる」 芸術作品だ。
そしてこれは、エイズによる合併症で末期状態にあった監督が、同じ病で命を落としていった全ての友人たちと自らに捧げたレクイエム。
死を目前にしている人間の、死への恐怖や友人たちへの愛といった、ごくごく私的な感情表現や独り語り。
それが視覚情報を伴わずに重ねられるが故に、彼の自意識がむき出しの、映画史上に突出した作品。
観客が監督に感情移入して、その想いを感じとらなければならない我儘な作品ともいえる。
デレク・ジャーマンの生涯やその作品をよく知らない人・好みでない人にとっては、退屈極まりない駄作でしかないだろう。そうした方にはお勧めできない。通常の意味における映画としては失敗作でもあるだろう。
ただ、デレク・ジャーマンの作品を愛する人、彼をこよなく愛し尊敬する人々であれば、この作品を 「感じて」、いつのまにか涙せずにはいられないだろう。
もちろん同情や憐れみの涙ではない。単なる悲しみだけの涙とも違う。
映像作品という形の芸術にその生涯を捧げて、数々の傑作・問題作を遺していった一人の偉大な芸術家がいた。彼の、その芸術へのすさまじいまでの愛と執着に贈る、敬意と賛辞と感謝と哀悼と。痛みの涙。
ブルーで満たされた空間で響き続ける、静謐で悲痛な思索と音のコラージュ。純粋で、そして、ひたすらに美しい作品。