それまでのアイドル路線として「売れる曲」を(本人がよく云う)「歌わされてきた」ことから、椎名へきる自身の音楽志向性をスタッフに打ち出せるように、ようやくなった本当の過渡期の転機の曲です。
このアルバムの収録は、声優として初の武道館公演を行なった時期に重なります。
この成功は、「椎名へきる」にとっては、それまでの押しつけられてきたプロデュース・スタイルから、事務所やレーベルなどの「大人たち」に「自分の好きな音楽を歌いたい」ということが云えるようになったことを意味したはずです。
ですから、このアルバムを引っさげた97年届けたい想いツアーのときには既に、アイドル路線の音作りがメインな初代ヘキバンズの解散が内々には決定されていたことは有名で、このアルバムの録音の時期こそが脱皮と葛藤の時期そのものだったはずであり、その両方の揺れ動きがダイレクトに現れているのが、このアルバムです。
この頃から、作曲としてクレジットされていない全ての曲に関して、椎名の意向が強く反映するようになり、いわゆる多くの声優が出来上がった曲にボーカルをのせるだけだったり、作詞をしてても似たような範囲に留まるのを、気に入った楽曲プロデューサーを迎え(この流れで、B''zのサポートの明石さんやTMRの木根さんらが入るようになるわけですね)、楽曲の制作段階からトラックダウンまで、スタジオに自分が入って、監修をしていくという、バンドに似た形態の制作へと変化を遂げました。このことは、当時だけでなく、いまの声優界でも珍しく、椎名へきるが椎名へきるを模索しはじめた時期といえます。(そして、Face toFaceへの流れのなかでの、「脱声優アイドル宣言」などがあるわけです)
Infinityでは、「意味がわからん」と周りのスタッフに云われたことを無理に押しのけて「自分の言葉をそのままファンに伝える」ということにこだわり、ライブ限定曲だったGraduatarをツイン・ギターのように聞こえるテク(これが現在では当然になった椎名バンドのツイン・ギターの流れの原点となるわけですが)SIAM SHADEのDAITAさん編曲にアレンジし直したことなども重要ですが、やはり、最重要なのは、98年のアルバム同名ツアーが完全なバンド入れ替え(同世代のバンドマンになり、ツイン・ギター化した)になり、完全にアイドル楽曲からポップス・ロック路線とライブ最重視(衣装チェンジや派手なセットが無くなり、大ホールなのにスクリーンなしなど、「アイドル的パフォーマンス」から「音を聴く」場所というライブの模索(かなり行き過ぎっぽかったくらいに)が、種々に行なわれるなど)が決定的に打ち出され、そのベースには、武道館と98年Baby Blue eyesツアーをブリッジしたツアーの名が、収録曲『届けたい想い』であったことに尽きるといえるかも知れません。
本来であれば、『届けたい〜』はシングル『MOONLIGHT』のc/wで、そちらの名称になるものと思われていましたが、ここで『届けたい想い』にしたことには、重要な意味があり、『届けたい想い』が、ギター大好き、洋楽大好きの、椎名へきるがギターを重視した楽曲制作を明確に打ち出した最初になりました。
このことは、シングル版『届けたい想い』とアルバムre-mixバージョンの違いとしても現れています。
アルバム版は再レコではありませんが、トラックダウン時に、シングル・バージョンよりも、意図的に椎名のリクエストでギター・サウンドが全面に出るようミキシングされています。
確かに、この頃の椎名は歌唱力は現在ほどではありませんでした。(believeのときに発声方法を変更していますので、音域も違います)
それは、まだ発声方法をはじめ、制作環境などもアイドル声優時代の形態のままで模索されたアルバムであるからであり、動き続けなければならなかった大きな側面がありますが、同時に、孤軍奮闘に近い状態で、自分の信念のある音楽性へと動き出していかざるを得なかった当時の超売れっ子声優としての事情もあったのだと、いまからは考えられます。
ですが、間違いなく、声優アイドル時代から、ロック・ミュージシャンへと自ら道を切り開いた椎名へきると、それを応援し続けてきた私たちファンにとって、大きな記念碑的な作品と云えるのではないでしょうか。
ある意味では、ここが、現在の原点なのではないかと、ぼくは思っています。