指揮者としてと言うより、作曲者としての巨匠バーンスタインとして、これ以上無いくらいに真摯に楽曲に向き合った結果の演奏解釈である、と個人的には思う。
恐らく、バーンスタインが着目したのは、作品の中では極めて異質な存在である、木星のあの有名なAndante Maestosoの主題であろう。
これの存在意義は何なのか、そして、その存在意義を際立たせるための演奏構成とはどういうものなのか、また、オーケストレーション変更の禁止やら抜粋演奏の禁止など、プレイヤーやリスナーにホルスト自身が強いた条件にはどういう思いが込められているのか。
この演奏を、有名なカラヤンの解釈や、それに影響された数多の演奏家たちの解釈と比較して「異端である」とよぶのは簡単ではあるが、個人的にはそういう評価を下す人間からは、上述の観点がごっそり抜け落ちていると考えている。
巨匠バーンスタインは、あのAndante Maestosoの主題を、作曲者ホルスト自身と、この曲を演奏する者、聴く者にとっての「箸やすめ」と解釈したのではないか。
ホルスト自身の他の作品や、彼のバックグラウンドから察するに、自身が欲する欲せざるを抜きに、このような美しい旋律により構成された楽曲が得意であることは明白であるが、この組曲の中ではそういった要素が、この主題以外では火星の反動たる金星以外は皆無である。
ホルストとしては恐らく、この曲はかなりの難産であったはずである。難産であったからこそ、抜粋演奏の禁止やらを強いたのではないか。そして、その難産の中での苦しみや、それを乗り越えて産み出す喜び、聴く者への感謝を、あの主題にぶつけたのではないか。
唐突に始まるあの主題は、この組曲の中のほぼ真ん中の時間に演奏される。マラソンで言えば、ちょうど折り返し点にある。
この重要な点を、それだけ取り出して演奏するのと、火星から始まり海王星のフェードアウトで終わるまでの中の中心点としての演奏では、意味合いや聴く者が受ける印象が大いに異なってくるであろう。
というようなことを考えて、巨匠バーンスタインがこの演奏を構成したと信じている。
これこそが、スコアに込められたホルストの思いに対する、真面目な回答であろう。
異端でも何でもない。小細工も何も無い。直球ど真ん中のストレートである。
思えば、ここ数十年で我々の耳と頭は、この曲の抜粋演奏でバラバラにされてしまった姿に慣れ過ぎているのかも知れない。
だが、組曲惑星は、火星の5/4拍子から始まって、海王星のフェードアウトまでが1つの曲なのだ。
それを思い出させてくれる価値の高い1枚である。