1970年代初頭、岡林信康と頭脳警察は単なるミュージシャン、バンドに留まらず、社会現象だったと言っても過言ではない。
当時の大手各新聞社の支持政党調査を鑑みれば、1968年の新宿争乱あたりから、1972年2月あさま山荘事件で犠牲者が出る直前まで、国民の半数以上が心情左派。
それが決定的に逆転する契機が、山岳ベース事件の発覚であり、翌月の1972年3月リリース予定の1stアルバム『頭脳警察1』が煽りを喰ってお蔵入り。
三億円強奪事件犯人モンタージュ写真を配した1stのジャケットを差し替え、短期間に新曲を六曲創り、大幅にリニューアルした2nd発売が2ヵ月後の1973年5月。
しかし、満を持した2ndも、山岳ベース事件の全容解明が進むに連れ、ビクター音産内に危機感が湧き溢れ、店頭に一時並んだものの回収の憂き目に遭う。
学校帰りに自転車で立ち寄ったレコード店で本作のオリジナルを偶然発見、汗だくでペダルを扱(こ)ぎ家へ急ぎ、母親の財布から千円札二枚を倦(くすね)て戻った時は後の祭り。
その後、中古盤屋で10万円、20万円という値札を見る度に、「レコード購入に、次は無い」と肝に銘じたっけ。
しかし、「棄てる神あれば拾う神あり」、吉田拓郎がTBSラジオ『パックインミュージック』で頭脳警察の二人を呼び、アルバムの曲を流したのだ。
拓郎「頭脳警察の連中って嫌な奴等だと思っていたけど、そうでもないのね」
一同 笑い
PANTA「でも、(2ndも回収されて)これで終わったかと思うと哀しいな」
拓郎「そんなことないよ、これからだよ」
拓郎の予言は当たり、1974年までに4枚のアルバムをリリース。
後にその件の状況をPANTAさんに直接訊いたら、「ビクターはピンクレディーで儲かったから、俺達の売れないレコードも莫大な宣伝予算を付けて、次々製作してくれた(笑)」と。
この2ndは当時の日本の政治や社会への違和感を真摯に、あるいは尊敬するフランク・ザッパ風に茶化し、サウンド面もフォーク、ロック、ポップス等、多角的な試みが為されている。
後の3rd、4th、5thは内容的にやや落ちるが、安定した作品リリースが自信となり、引っ張り凧だった全国の学祭で創った楽曲が鍛えられる機会に恵まれたと見た。
1973年~1974年の石井まさお(b)、勝呂和夫(g)を従えたライヴはまさに絶頂期、遅れてステージに現れるや否、観客の九割方を占める男達ほぼ全員がステージ前に押し寄せる始末。
本作収録の名曲「それでも私は」の凄まじいヴォルテージの高さは、レッド・ツェッペリンの「移民の歌」、キング・クリムゾンの1stを初めて聴いた衝撃を上廻ったよなあ。
まあ、ライヴだから当たり前なのだけど、やはり「音楽は生演奏」、「再生装置の歴史は原音への限りなき接近」というテーゼに行き当たる。
あの頃のライヴの「それでも私は」、6th『悪たれ小僧』収録の表題曲、「戦慄の~」、「落葉の~」、「スホーイの~」、「あばよ~」等の凄味を収めた音源は未だ出ていない。
ライヴの名盤多々あれど、SFCから出た『頭脳警察LIVE!』は勿論、今や入手し難くなった『頭脳警察LIVE BOX・SET』(『Live Document 1972-1975』)でさえ、足許にも及ばない。
三田祭や東大五月祭の他、当時頻繁に行われていた地方の学祭等を検証すれば、誰かが絶対に音源を持っているはずと思われ、それらの録音が公開されることを切望する今日この頃。