*【以下結末に触れています】
映画史に残る数々の名作を生み出してきたイタリアのチネチッタ撮影所。カフカの『アメリカ』の映画化を準備中のフェデリコ・フェリーニのもとに、日本のTV取材クルーがインタビューにやって来る。フェリーニは、彼らに自分とチネチッタ撮影所の関係を語り出す…。
チネチッタ撮影所創立50周年を祝って作られたドキュメンタリー的作品。ただし、そこはフェリーニ、通常のドキュメンタリーにすることはせず、過去と現在を織り交ぜて幻想的な語り口を見せてくれる。"Intervista"とはイタリア語で「インタビュー」の意味。1987年のカンヌ国際映画祭特別賞、モスクワ国際映画祭金賞を受賞。
星空の下、焚き火を前に老人と若者が静かに語らう。若者は訊く「老いてつらいことは?」。老人はゆっくりと答える「若い頃を憶えていることだ」。まるで、哲学の問答のような、この侘しくも美しいシーンで老人を演じたのはリチャード・ファーンズワース、作品は、デヴィッド・リンチらしからぬ静かな静かな語り口の佳作『
ストレイト・ストーリー
』(2000)。ファーンズワースがどこか遠く(それは過去を見つめているのか?)を見つめるような目をして静かに語る実に感動的なシーンだ。おそらくファーンズワースの切実でセンチメンタルなセリフは、すべての老人の心からの思いを代弁したものなのだろう。本作のフェリーニもまた(撮影当時67歳)、華やかなチネチッタ撮影所を知っている若い頃の記憶があまりに鮮やかゆえに、現在の寂れぶりを嘆き悲しむ。フェリーニは、現在のチネチッタを空撮で鳥瞰し、「まるで墓場のようだ」とさえ言う。実際、現在のチネチッタ撮影所はほとんど映画撮影に使われることもなく、CM撮影に使われるような「死んだ」撮影所なのだ。チネチッタ撮影所50周年を記念するというのに、もはや老人には若い頃を追憶するしかないのか?それでもフェリーニは、「若い頃を憶えている」つらさを抑え、何とか「現在の」チネチッタの中に夢を見い出そうとする個人的で、内面的な旅に出る。
彼ばかりでない。盟友マルチェロ・マストロヤンニもフェリーニが夢を見るのを手伝おうと魔術師マンドレイクの格好で現れる(2階の窓が開くと、煙とともに彼が登場するフェリーニ的演出が実に楽しい!)。魔術師というのはいかにもフェリーニ的な意匠(=衣裳)であり、現在の寂れたチネチッタに魔法をかけるという意味でも象徴的である。しかし、マストロヤンニの魔法をもってしても、現在のチネチッタをお祝いする気分を醸成することはできず、かえって過去へ過去へとフェリーニを導いてしまう。やはり、老人は過去の思い出の中にこそ美を求めてしまうのだ。その頂点が、アニタ・エクバーグの家を訪れ、『
甘い生活
』(1960)を観る感傷的なシーン。マストロヤンニが煙とともにスクリーンを拡げ、『甘い生活』を映写する。スクリーンには有名なトレビの泉で彫像のように佇む若く美しいエクバーグが映し出される。それを観る年老いたマストロヤンニ、まるで、フェリーニ作品の「大女」そのもののように肥大化してしまったエクバーグ、そして、悲しい目をしたフェリーニ。その3人の現在の姿を観る観客は、時の残酷さを否が応でも知らされるのだが、当人たちは、若き日の思い出に完全に没入している。もはや、そこには現在のチネチッタをお祝しようとする雰囲気は微塵もない。静かでしんみりとした老人たちの回顧(懐古)と追憶があるばかりだ。
とはいえ、かつて、『
8 1/2
』(1962)の中で「人生は祭だ」という有名なセリフとともに、祝祭的イメージを得意としたフェリーニである。終盤に、きちんとフェリーニ的お祭を用意し、チネチッタを称えようとはしゃいでみせることも忘れない。撮影が豪雨で中断し、テントの中で撮影スタッフたちが身を寄せ合いながら雨宿りをする。そこで一夜を過ごし、朝を迎えると、突如、丘の上からインディアンたちが襲撃してくるシーンのイメージの飛躍などは、フェリーニならではの奇想天外な素晴らしさである。スタッフが銃で応戦し、インディアンがバタバタと落馬する、その騒々しくも幻想的な楽しさ。―と、そこにフェリーニの「カット!」の声がかかり、それも実は撮影だったというオチが付く。そして、スタッフたちは、三々五々散っていき、キャメラは撮影を終え、誰もいなくなってガランとした雨にぬかるんだ広場を静かに捉える。祭の後の侘しさ。ここでもフェリーニは、つい暗い方向へと行ってしまうのだ。まるで、自分には若い頃のように夢見る力はもう残っていないのだ、とでも言わんばかりに…。
そして、その侘しさを引きずったまま、ライトが消された薄暗い撮影所がラスト・ショットになる。しかし、それで終わってはチネチッタ50周年を祝うにはあまりに寂しすぎるとフェリーニも感じたのだろう、そこに自分を鼓舞するような、しかし、ほとんど呟くようなフェリーニのナレーションが被さる。
「昔のプロデューサーなら、『これで終わりか?せめて少しぐらい希望の光を見せて終わらせてくれよ』と言うだろう。希望か…。よし、何とかやってみるとするか」
老人にとって、夢を見るということは過去の中にしかないと半ば自覚しながらも、何とか現在の、そして未来の夢、イタリア映画界の復興へと意識を向けるフェリーニの姿勢に、芸術家としての業を感じないわけにはいかない。
本作は、チネチッタ創立50周年記念という趣旨とかけ離れてしまい、老人の過去の追憶に終始してしまったが、しかし、考えてみれば、フェリーニ作品は、初期の作品からすでにして、過去への郷愁が大きなモチーフとしてあり、魅力になっていたわけで、フェリーニは若いくせに、もともと老人のような回顧的な気質を持っていたとも言える。本作は、「本当の」老人になったフェリーニの侘しくも美しい思い出を描いた逸品に仕上がっていると思う。
本DVDは、DVD黎明期に東芝デジタルフロンティア(販売はパイオニアLDC=現ジェネオンユニバーサル)から発売されたもの。4:3のスタンダード画角収録で、あまり色合いに深みがない、全体的に白っぽく明るい画質(オリジナル・ネガやマスター・ポジからではなく、上映プリントからテレシネしたような明るさと言ったらいいか)。おそらく、ヴィデオかLD用のマスターしか調達出来なかったのだろう。音声は問題なし。特典等が一切収録されていないのが残念だ。
本作は、2005年に、米Koch Lorber Filmsから、1.85:1 スクイーズ画角の素晴らしいマスターを使用したDVDが発売されている(R-1)。ドキュメンタリーを始め、特典も満載で、映画ファンには大満足の1枚だ。フェリーニ没後20年の2013年に向けて、この北米盤を基にした日本盤再発売が急務だろう。