いうまでもなく「松江の歌姫」浜田真理子を、世に知らしめたアルバム。
リリースされたのは1998年11月。浜田さんが33歳のときです。
すでに多くのいいレビューが寄せられていますが、彼女の自伝的エッセイ集『胸の小箱』で明らかになった事実を中心に書いてみたいと思います。
リリースされた1998年という年は『胸の小箱』によると、それまで3年間つきあい、やがてアメリカに去っていった恋人、ウディに会いに渡米し、そして最終的に破たんした、その2年後ということになります。
その失恋の傷は深く、浜田さんは「冷や汗が出る。震える。とにかくいつも不安だった」という状態に陥ります。
それから1年ほど経ったある日、彼女は突然に失恋の意味を悟るのですが、心と体の状態はなかなか元には戻りません。
このアルバムの全9曲中、6曲が英語の歌です。
「プログレ」を目指して、「Love Song」や「月の記憶」といった曲は外されたという事情はあるにしても、大半が英語の歌であるということは、当時の彼女にとって愛を語るべき言語は英語だった、ということを示しているのでしょう。
いや、アルバムの最後に収められたピアノ曲「WALTZ FOR WOODY」が、ウディの誕生日のために書かれたことを思えば、9曲中7曲が英語の歌だったということになるのかも知れません。
失恋の意味を「頓悟」して半年ほどたったころ、アルバム作りの話が持ち上がります。
「内心あくまで他人事」で始めたアルバム作りでしたが、その制作の過程で、浜田さんは失恋による「パニック症候群」からしだいに回復していきました。
『胸の小箱』にはこう書かれています。
「わたしも少し作業が楽しくなっていた。別れた彼を思い出して泣くこともなくなっていた。もう泣くのは飽きた」。
要するに浜田さんはしだいにアルバム作りに集中するようになり、前半生最大の危機から抜け出すことができたということのようです。
浜田さんはこのあと11枚のアルバムを出します。
私は同時代的にそのアルバムを聞き、彼女の歌がより深くなり、巧みになり、豊かになっていくさまを目撃してきました。
そして実に久しぶりに、このファーストアルバムを聞いてみました。
そこにはまぎれもない浜田真理子の世界があり、「浜田さんはmarikoの時点ですでに完成していたんだ」とあらためて思いました。
しかし、その手作りの、素朴で可憐な歌世界の中にいるのは、たよりなげな浜田さん。
「松江の歌姫」として全国にファンをもつ現在の浜田さんとのギャップに、あらためて新鮮な驚きを覚えました。
浜田さんのこの20年間、まことにお見事というほかありません。