まぼろし<初回限定パッケージ仕様> [DVD]
フォーマット | 色, ドルビー, ワイドスクリーン |
コントリビュータ | フランソワ・オゾン, ブリュノ・クレメール, シャーロット・ランプリング, アレクサンドラ・スチュワルト |
言語 | 日本語, フランス語 |
稼働時間 | 1 時間 35 分 |
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商品の説明
商品紹介
夫と南仏の海へヴァカンスにやってきたマリー。だが彼女が浜辺で寝てる間に、夫が蒸発してしまう。ひとり残されたマリーは・・・。『愛の嵐』のシャーロット・ランプリングが驚嘆すべき名演とエロティシズムで魅せる感動作がDVD化。
【商品内容】
・初回生産分のみケース入りデジパック仕様!
・ピクチャー・ディスク
【特典映像】
●フランソワ・オゾン監督コメンタリー
●シャーロット・ランプリング&ブリュノ・クレメール インタビュー 映像収録
●予告篇収録
Amazonより
異能の人、フランソワ・オゾンがこれまでのダークな作風から一転、正攻法の語り口で巨匠の道を歩みはじめた転機的作品、それが『まぼろし』である。マリーとジャンは25年間連れ添った夫婦。例年同様に南仏でバカンスを過ごす2人だったが、何の前触れもなく、ジャンは海に忽然と姿を消してしまうのだった…。
愛する人を失い、孤独をさまよう主人公の喪失感にドラマは濃密に寄り添っていく。台詞を廃した余白の積み重ねが、いっそうの寂寥を誘う。そんな悲しみのただ中に凛としてたたずむ主人公を、シャーロット・ランプリングが円熟の名演でみせる。その視線の演技は、すべての心情を言い表しているかのよう。とりわけ、いるはずのない亡霊としての夫との語らいが印象的だ。海原の轟音がいつまでも心に残るのは、抑制された音楽演出の効果にほかならない。
フランソワ・オゾンが苦手という人にも、お薦めできる作品である。なお、前半は35ミリだが、後半は予算の関係上、スーパー16で撮影されているのだが、これがまた絶妙の効果をあげている。(麻生結一)
レビュー
監督・脚本: フランソワ・オゾン 撮影: ジャンヌ・ラボワリー/アントワーヌ・エベルル 出演: シャーロット・ランプリング/ブリュノ・クレメール/アレクサンドラ・スチュワルト/ジャック・ノロ
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
登録情報
- アスペクト比 : 1.78:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 日本語, フランス語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4540088002955
- 監督 : フランソワ・オゾン
- メディア形式 : 色, ドルビー, ワイドスクリーン
- 時間 : 1 時間 35 分
- 発売日 : 2003/3/28
- 出演 : シャーロット・ランプリング, ブリュノ・クレメール, アレクサンドラ・スチュワルト
- 字幕: : 日本語
- 言語 : 日本語 (Dolby Digital 2.0 Stereo), フランス語 (Dolby Digital 5.1)
- 販売元 : 東芝デジタルフロンティア
- ASIN : B00008CH85
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 42,060位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 679位外国のラブロマンス映画
- - 3,728位外国のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
インターネットの力でこの女優に再び出会い、27歳 でこの映画を観ました。
大変心に響きました。
浜辺のラストシーンで、顔を確認したくて思わず身を乗り出してしまいました…
エンディングにかかるピアノとバイオリンの曲も素晴らしいですね。画面が暗転した後ピアノの低温が響いて自然に涙が流れました。
愛する人を失った女性の心情を精巧に描いた作品。苦悩し揺れ動きながらも愛を貫徹する女をシャーロット・ランプリングが見事に演じきっている。彼女の独壇場ともいえる作品。
本作では、ある日突然連れ合いを失った女の心をじわじわと、静かに、そして深く描いている。表面上は取り乱すことがなくとも、心の中では喪失感に押しつぶされそうな主人公。
シャーロット・ランブリングの腹にイチモツありそうな、一筋縄ではいかない女優の魅力も引き出している。
DVDに収められている特典のサイレンスの短編映画もじわーっとくる秀作。
男の側からみた、女の怖さ、狂気を描かせたらピカイチの監督だと思う。
現在公開中の「さざなみ」と同様のテーマを感じますが、こちらは同じ主演女優であるシャーロット・ランプリングの美しさを際立たせたいという撮る側の強い意志がみえるので、つらい内容ながら、何度も見返したくなってしまう作品になっていると思います。年齢を重ねることにマイナスのイメージしか持っていない人には、その思考の転換のきっかけになるかもしれません。
年齢相応の美しさ、というものを堪能できる映画です。
彼はゲイということですが、ゲイの人って普通の人が見ていない人間の真実を
見抜いているときがあるなー、と私がつくづく感じる、一つの例です。
ある、インテリの中年女性がいる。長年連れ添った、愛し合っている夫がいる。
海へ出かける道中も、食べ物のちょっとしたこととか、この奥さんの方が主導権を握っている感じを
ちゃんと、見せています。夫は体が大きくて太めで・・・おっとりした感じの人。
ところが、海で、彼女がうとうとしてる間に、彼が忽然と失踪してしまう。
手を尽くしても見つからず、何日もたつうちに、彼の日ごろの行動を探偵のように
改めて追っていくと、実は自分の知らなかった行動の事実がいろいろ出てくる・・・
彼女は、どちらかというと気が強く、仕切るタイプだったのだと思う。
大学の先生もしているのですから、インテリの女性、という自負もあるでしょう。
そして、自分のいうことに大体従ってくれる夫に、満足していたのです。
こういう人は、気が強い分、自分に従ってくれる人を必要とします。
夫は彼女の前では逆らえなかったのかもしれないけど、
存在そのものを消すことによって、彼女に逆らう状況になり、
やっと、長年の結婚生活の間に、彼女を積極的には愛していなかった生活の部分が、
彼女にも知れることになった、というワケです。
気が強い、ということは、弱い部分がある、ということなんだと思いますが、
本当に夫を愛していたなら、一緒にいられた時間に夫に尽くせた、ということで
自分の行動に満足し、割り切り、自分が知らない夫の側面があったことも、謙虚に受け入れなければ
ならない、と思います。毎日一緒にいる夫でも、自分の知らない部分もある、ということを
いつも思っているのが、相手を尊重していることだと思います。
明日、この人がいなくなっても、今日までできるだけ尽くした、と思える毎日を送れているか、どうか。
この主人公マリーは、自分のために夫を必要としていたので、
夫が理由もわからず目の前からいなくなってしまい、自分の知らなかった夫の生活がわかってくるにつれて、
今までの自分を反省するどころか、精神がぶっ壊れて・・・しまったのです・・・
長年、確信してきた自負が、突然取り払われてしまったので、あわれ・・・とも思いますが・・・
出発点が間違っていたのだ、とは思いますが、そこに見せられるこの女性の弱さは、うつくしいほどあわれ・・・です。
そういう一人の女の心理・精神状態の移ろいを、本当に繊細かつ味わいある、壺、とか、焼き物の芸術品、・・・のごとき
美しさで映画に描いたオゾンは、とてつもないヨーロッパの天才・・・彼のお気に入り女優のランプリングもすごい、すばらしい
女優…芸術家。ヨーロッパ映画って・・・大人だ・・・
さて、私は、この映画のことを、ちょっと別の視点から、人生の参考にしています。
老いてきたとき、人は自分をどうとらえればよいのか。
頑張って生きてきても、ままならないことがいっぱいある・・・ということを、いやというほど知っている・・・ということが、
老いることの一つの意味、でしょう。そこに、若者には出せない、一つ上の味、が出せるのが、中高年であろうかと、
思うわけです。この女性が見せた、喪失感からくる虚無感、を、ある意味身を持って知っている、口には出さないけど、ということが、
若者にはない、老いた人間の一つの魅力なのではないか、と、感じます。
愛する夫が「まぼろし」のように、忽然と姿を消してしまった・・・という意味での「幻」ではなく、彼女が信じて疑わなかった「夫もまた私の事を愛してくれている」という思いが実は「まぼろし」であったという風に私は捉えた。配偶者を亡くした妻の悲しみを美しく描く映画なんて思っていたけれど、後半に行くにしたがって、夫の思い出を探れば探るほど、自分の事を実は愛していなかったんじゃないかと思えてくるあたりが恐かった。
シャーロット・ランプリングの細い目と華奢な鼻梁が、だんだん憎々しく思えてきて、だからあんたは夫に逃げられたんじゃないの?と思わせる。そこが上手い。彼女の演技も、演出も。
最後のシーンは、膨大な量の海水と打ち寄せる波が自己を押し流していきそうで、自分の信じているものが本当は海を前にした彼女のようにちっぽけなものなのじゃないかと、私は恐かった。
本作のS.ランプリング=マリーは成熟した大人の女というよりもむしろ小娘的で、奔放でわがままで、そして自分自身というものをコントロールできずにいるように見えます。だから講義を途中で唐突に辞めてしまったり、セックスの途中で笑い出したり(これは極めて男性に対して失礼な行為ですので女性諸氏は覚えておいて欲しいです)、そして薬剤師に常識のない要求をしたりするのです。夫を失ったショック故の奇行と解釈もできますが果たしてそうでしょうか。そもそもそんなに夫を愛していたなら、別の男性とすぐつきあって性交したり、自慰に耽溺することはないはずです。冒頭部分ですでにマリーは夫の愛に慣れきっていて、それが当然であるかのような振る舞いをしています。この自己中心性こそ彼女の本質であるように思います。それがもっとも露わになるのが義母との口論のシーンです。彼女がいかに夫のことを分かっていなかったか、母の愛の深さとはどの様なものか(マリー自身子どもがいない)…。
そしておぞましい水死体を見て初めて彼女は夫の死と、現実と、そして自らの甘やかされた生き方と対峙し、海岸で改悛の涙を流すのです(『道』のザンパノの涙を思い出しました)。その遠景に見えた人影は? 夫が現れたのか(『ポネット』的展開)、それとも彼女も海へ入っていくのか、それとも…。しかしこれ以上私が私自身の思い入れを持って語るのはあまり良くないですね。各人色々な思い入れを持って見てもらいたいと思います。それが可能であるのは、この映画が良くできた映画であることの何よりの証拠なのです。
「彼女の皺を美しく撮りたい」とオゾンは語ったそうだが、美しく気高い彼女は、きっとオゾンのアイドルでもあったはず。
見れば、彼がどれほどの意気込みでこの映画を撮ったかが伝わってくる。資金不足で後半16ミリ撮影になってまでも作り上げたらしいが、その映画魂に拍手したい。
ストーリーは身につまされる。自分自身の経験や状況と照らし合わせながら考えさせられる。ラストにも安易に私達を解放してくれるような甘さは一切無い。