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A [DVD]
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フォーマット | 色, ドルビー |
コントリビュータ | 森達也, 朴保, ドキュメンタリー映画, 安岡卓冶 |
言語 | 日本語 |
稼働時間 | 2 時間 15 分 |
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商品の説明
Amazonより
1994年の松本サリン事件や1995年の地下鉄サリン事件などで日本中を震撼させたオウム真理教(現・アーレフ)。本作は、あくまでも中立的立場を固持しつつ、教団の広報担当者・荒木浩に密着取材し、「なぜ事件が起きたのか?」ではなく「なぜ事件の後も信者で居続けるのか?」という点を追求していくドキュメンタリーであるが、その中からオウムのみならず、彼らを糾弾するマスコミや現代社会全般に対しても鋭いメスを入れていくという、まさに日本の闇を突いた衝撃的問題作でもある。
監督の森達也はTVディレクター時代に、オウムを絶対的悪として描くよう強要するプロデューサーと衝突して契約解除され、以後自主製作として本作を完成させた反骨の人物。観ているうちに、今自分が日本人として日本で生活していることまでも改めて考えさせられてしまう意味でも、必見作といえよう。(的田也寸志)
レビュー
製作・撮影・編集: 安岡卓治 監督・撮影・編集: 森達也 編集助手: 吉田啓 音楽: 朴保
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
登録情報
- アスペクト比 : 1.33:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 日本語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 75 g
- EAN : 4932545983271
- 監督 : 森達也
- メディア形式 : 色, ドルビー
- 時間 : 2 時間 15 分
- 発売日 : 2003/7/25
- 出演 : ドキュメンタリー映画
- 字幕: : 英語
- 言語 : 日本語 (Dolby Digital 2.0 Stereo)
- 販売元 : マクザム
- 生産者 : 安岡卓冶
- ASIN : B00009P68I
- 原産国 : 日本
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 34,115位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 545位ドキュメンタリー (DVD)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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だからといって、すべての信者がその罪を共有するべきか?という問題について考えさせられるドキュメンタリーだ。
森達也は当時のオウムの広報部長である荒木浩に特別に許可を得て、広報部の同行記者として公式ならびに日常の活動のほぼすべてをカメラに収めようとする。これはいままでテレビでは見たことがなく、この作品でしか見れないので非常に貴重だ。こんなふうに、オウム広報部からの視点で警察や一般人の言動を見ると、フェアーな判断をするには常に両者の話を聞かないといけないなぁと感じる。
広報部長の荒木浩は、ハリーポッターそっくりで28歳の若さ。質問に答えてキスの経験もないことを告白する、柔和な表情を見ていると、やさしい中学生、高校生のようでとても凶悪集団の幹部の一人には見えない。まあ、だからこそこのポストに任命されたというのはあるだろうけど。
しかしながら、その優しい人柄の一方、警察やメディアに対しては毅然としていて、しかも感情に流されることもなく常に冷静で、一歩引いて状況を観察し、状況が変だと思ったら尊師の長女がしゃべっていてもニヤっと笑ったりと、大人の対応と精神力および人格を備えていることがわかる。今の時代、28歳でこれだけの人物はめったにいないのではないか。
彼をとりまく広報部の人たちも同じように、社会擦れしてない人たちで、彼らの部屋はちらかっていて(ゴキブリがいたりする)ゴハンもろくなものは食べていないが、四面楚歌の針のむしろのプレッシャーで活動しているにもかかわらず、その表情は明るく、冗談をいいあったり、まるで兄弟姉妹の家庭の部屋を見ているようだ。
おそらく彼らは一連の事件とはまったく関係なかったのだろうと思う。だけど、自分の教団のトップがあれだけおそろしい犯罪を犯しても、浅原彰晃への崇拝はゆらぐことがないのが本当に不思議だ。ハリーポッターの荒木浩も、きわめて現実的で理論的なように見えて、水虫が悪化しても「カルマが開放している」からと治療をしようともしない。
宗教の力というのは本当に強力なんだなとあらためて思い知らされる。
このドキュメンタリーを見ていて感じたのは、女性信者が言っていたが、戦争で人を殺しても罪には問われないということ。一見めちゃくちゃ言っているようだが、そうではない。事件に関係のなかったオウムの信者と、太平洋戦争にかかわりのなかった日本人の立場は似ているものがある。すべてのオウムが悪だ、と主張する一般人と、すべての日本人は悪だと感じている多くの韓国人や中国人。浅原彰晃が逮捕されても彼の教えを否定しないで修行をつづける信者たちと、いまでも天皇を尊敬し続ける日本人。
戦争は、天皇が悪いのではなく、軍部が欧米の激しいプレッシャーのなかで仕方がなく起こしたものだというのが一般的な考え方だが、そういう考え方を韓国、中国の人が受け入れるのか?事件に関係のないオウムの信者の意見を我々は聞いたことがあったか?
事件からすでに15年以上がたってしまったが、いまだにオウムの教団にかかわるすべての人間は悪だと思っている人がほとんどだ。癌が発生したら悪性腫瘍だけでなく転移を考えて正常だと思える部分も多めに切除するのが一般的な治療法だ。でも、相手は人間なわけで、一般大衆の言動を大きく左右するメディアは、今後よりフェアな報道をしてもらいたいと思った。
劇中に監督が浮かんだ疑問を積極的に信者たちに投げかける点や、やや扇情的な歌を流すなどメッセージ性が多少強く、「中立性の強い作品」ではない。
しかし、オウム全体の漠然とした組織体系や個々の信者のインタビュー集ではなく、荒木浩という広報を務める一人の青年にスポットを当てたみせ方は、私のようにオウムが起こした社会問題をリアルタイムで体験したことのない世代であっても様々な発見があるはずだ。
オウム真理教をまだ信仰する内部と、広報活動としてマスコミや近隣住民に説明を行う外部。相反する二つの役割を担うことで起きる荒木の感情のちょっとした変化や迷いは、立場が違っても多くの人間が経験する人生における起伏でもある。
また後の想田監督の「精神」のように、普段はモザイクや音声加工で「異物」のように扱われてしまう彼らの素の表情、肉声を映すことによって、オウム信者に対する固定観念から少し距離を置いて観賞することができるのではないだろうか。
最後に、オウムが社会に与えた影響はあまりにも巨大であり、彼らを批難する近隣住民には近隣住民の葛藤も、公務執行妨害を強行した警察も、社会に復帰しろと言葉を振りかける高齢者も、オウムをセンセーショナルに取り上げるマスコミも、そしてオウム信者もそれぞれの立場があり、それぞれが信じる主観がある。
だから、単純に反権力、マスコミを描いた社会派映画でもないという複雑な作品でもある。
彼がこの作品を発表した1998年は既に世間ではオウム熱が下火となり、「まだオウムで一発当てようとしている奴がいるのか~」という醒めた感じが否めなかった。
とは言いながら面白そうではあったので自分も友達と初上映をわざわざ見に行ったのである。
今思うと本作における森達也氏の立ち位置は、その後の彼とはかなり異なる。
彼自身当時「自分のテーマで撮っても相手にされなかった、金のために仕方なくオウムを撮った」と比較的素直に心情を語っていた。
そんな突き放した彼の立ち位置が、末端信者の信仰に揺れる姿や生活臭溢れる日常、彼らを取り巻く傍若無人なマスコミとの温度差等々を、
カメラの距離的には近いが精神的にはかなり距離のある、ある意味観光客のような目線で描いている。
有名な転び公妨の姿も作品のちょっとしたスパイスとして効いており、後年の彼の言動に横溢する政治臭さは感じ取れない。
爆発力のない淡々とした映画で、それ以上でもそれ以下でもなく、良くも悪くも森達也の才能のこれが限界値、最高到達点なんだろう。
だがこの作品が評価されたことで、彼は「消極的な観察者」の立ち位置を放棄し、「オウム寄りの論客」としてその界隈に本格的に参入する。
元々生活のために撮ったわけだから、オウムは彼にとって手放せない年金、やっと掴んだ細いが尽きない金脈だ。
裁判は打ち切られたら困るし、死刑が執行されたら尚困る。
真相究明会なるものを立ち上げるのも宜なるかな、勝手に終わらせんじゃねえ、こっちは生活が掛かってんだよ!と。
オウムはまだまだコンテンツとして使えるから、生かしてもっとしゃぶろうぜ!
しかしこれは森達也ならずとも多くのマスコミがどこかで思ってることかもしれない。
いまだに逃亡犯が出頭すれば大騒ぎだし、サリン事件何周年だかで特番がいくつも組まれるのだから。
「教祖が喋ってないから真相は闇の中」
「未解決事件(NHK)」
という彼らの主張が、三女を始めとした現アレフの主張と同一なものとなっているのは、恐らく彼らも意図していないだけに滑稽というしかない。
そんな彼らに、僕ははっきり言ってあげよう。
「いつまで夢見てんの? 森もマスコミもアレフ信者も、いい加減麻原に依存するのはヤメロよ、卒業しなよ、もうオウムは終わったんだよ!」
完全に直観でいうが、テロ行為の真実について、荒木青年は本当に知らないのだろう。なぜなら、彼はそういう人間として幹部たちにみなされなかったからだ。これまた直観でいうなら、人を――その命を含めて――動かす人間と、よくわからず動かされるままの人間というのがいるものだ。そして活動家は(組織を動かすのはこの活動家であり、彼らは当然、組織の中心にいる)人を選ぶ。活動家は、使えない人間に近づいたりしない。オウムの犯罪は、案外少人数の活動家同士の企てによって遂行されたのかもしれない。人を人とも思わぬ活動家たち、例えば麻原彰晃の四女が書いた『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』で書かれる父親というのは、うっかりオムレツを載せた皿を割ってしまった幼い娘を前にして、皿の破片ごと卵を食べさせる父親である。
ドキュメントで描かれた信者たちは、使われた、あるいは、使うまでもなくほっておかれた非活動的・非政治的な「人間たち」であり、やや繰り返しになるが、ここにこの作品の長所と短所を見る気がした (2014.2.28)。
森監督のいう「ドキュメンタリー」は、高尚な事実の記録ではなく、写真週刊誌(フライデーやFlash)の動画版みたいなものなのでしょう。A3(DVD)では、Aさんと教祖の奥さんがラブホテルから出てくるシ−ンから始めるなんてどうでしょう。
オウム事件に関しては、実際の修行のやり方や、事件の被害者の現状といった、この『A』に描かれていないことが、教訓として重要だと思います。このDVDの売り上げがアレフに流れていないことを祈ります。