イタリアとフランスの合作映画で、名匠(と、私は呼びたい)ナンニ・モレッティの脚本・監督作品。いつものようにモレッティは主人公も演じている。
多くのモレッティ作品には独特のユーモアがあって、ウディ・アレンのような知的なコメディと表現するのはあまりに簡単だが、アレンとは全く別のタイプの作家であり、表面的には笑いの中にシリアスかつ残酷な現実を反映させるのがモレッティの手法である。アレンよりも毒があると言えるかもしれない。
そこが好きなんだけどね。
ところが、「息子の部屋」にはコメディ的な要素などかけらもない。実にシリアスで、人の感情の機微を巧みに描写した、見応えのあるドラマだった。あとで知ったのだが、本作はカンヌ映画祭でパルム・ドール賞を受賞している(まぁ、当然の出来映えでしょうね)。
映画は息子を突然の事故で失った父と家族の物語である。だが、その哀しみを描こうとか、親子の愛情を描こうとか、家族の崩壊や絆を描こうとか、そんな目に見えるドラマなどここには皆無と言っていい。
精神医の父ジョバンニ(ナンニ・モレッティ)は仕事も順調で、妻パオラ(ラウラ・モランテ)との間にはイレーネ(ジャスミン・トリンカ)とアンドレア(ジュゼッペ・サンフェリーチェ)という2人の子供がいる。
アンドレアは学校で実験室から化石の標本を盗み出し、ジョバンニは学校から呼び出される。父は息子の無実を信じて、真相を突き止めようとする。物語はそんなどこにでもあるような家族の風景を次々と描写し、そして、アンドレアが友だちと海に行き、溺死してしまう。
ある日突然、愛している息子を失ったとしたら、父は、母は、姉は、そして家族はどうなるのか。哀しみ、後悔、自責の念、その他あらゆる感情が入り交じって、人から見れば、常軌を逸したような行動もしてしまう。
どうあがいた所で息子が帰ってくるわけはない。それを自分の中でどのように納得させるのか。それはまさに人それぞれで、例え家族といえども、思いを共有することなどできるわけがない。
この作品の素晴らしいところ(いや驚愕すべきところと言ってもよい)は、そうした言葉にもドラマにもできない、客観的に他人に理解させることのできない、きわめて私的な感情を映像にしたところだと思う。
モレッティは観客の同情も共感も理解も望んでいないのではないかと思う。なぜなら、息子の死に父親が直面することは、究極の私的出来事だからだ。他人がそこに入っていくことなど不可能だ。
つまり、映画で描写できるのはジョバンニとその家族のその後の行動でしかなく、そこから我々が感じ取ることができるのは、人はこのような体験の中で生きていくという、実に残酷だが、誰にでも起こりえる平凡とも言える現実のみである。
映画とはエンターテイメントが主流ではあるけれど、もう一方では芸術であり、それは絵画も音楽もあらゆる芸術活動と同様に、行き着く所は(結局、行き着けないけれど)自分自身と生涯にわたって対面する生き様でしかない。
本作は驚愕の1本だと思う。ナンニ・モレッティ恐るべし!