偶然にも、弁護士役のイアン・ホルムがこの世を去った二日後の昨日に、この映画を観た。
イアン・ホルムはあとでわたしの大好きな1999年の映画「イグジステンズ」のゲームポッドに外科手術を行う面白い名脇役のおっちゃん役の人だったことを想い出した。
だがこの映画は「イグジステンズ」と違って、あまりユーモア的なものは観られない。
終始、漂っているのは、時間を忘れるほどの美しい曇り空と、田舎の白い雪景色、甘美な禁忌と、凍る湖の底に沈んでゆく子どもたちの悲痛な悲鳴、人間の弱さ、それらが”ハーメルンの笛吹き”という不気味で暗黒的な昔話と折り重なり合っている。
”ハーメルンの笛吹き”という話は実話であるが、そのほとんどが謎に包まれており、失踪した子どもたちがその後どうなったかはわたしたちには知り得ない。
日本でも”神隠し”の実例はたくさんあるのだが、もしかしたらその半数以上もの例がただの犯罪的な事件であるのかもしれない。
この「スウィート ヒアアフター」という映画のタイトルは「甘い(甘美な)来世(彼の世)」や「甘い(甘美な)未来(今後)」のような意味がある。
ぼくはこのタイトルが、子どもたちが逝ったあちらの世と、遺された人々のいるこちらの世の、両方に対して当てられていると想う。
それはラストシーンを観ると、強く感じられる。
たった一人生還した一人の子供である少女ニコールが、まるで子どもたちが上げられた甘美な光り輝く世界へ向かうかのようなシーンでこの映画は幕を閉じる。
現実的に考えるならば、ニコールがこの先、どれほどの苦しい罪悪感と向き合い続けて生きてゆかねばならないのか、想像するだけで苦しいものがある。
JR福知山線脱線事故で生き残った青年がその数年後に自分が生き残ったことの罪悪感に堪えられずにみずから命を絶ったという事実はあまり知られていないのではないだろうか。
ニコールはその上、親から”親の愛”では、愛されてはいない子であり、あの嘘を言わなければならなかったのは、彼女が親の愛というものを、最早求めはしないと、親との決別を決心したからであるだろう。
その時の彼女の最も美しい表情を、父親は気づかないのである。
この映画に出てくる親は誰もが、欠陥的な親の愛を持っており、子どもの前で賠償金(Money)の話をし、子どもを深く傷つけることをわかっていながら不倫を続け、子どもがどう想われようが、”悪魔的な絵”を描き続けることに夢中であったり、自分の非は省みずに娘の堕落を嘆き続けたりする。
そして親たちはそんな自分たちの罪から目を背けて子どもたちを愛している。
ニコールとの性的な関係を、我妻から問い質されたとき、父親のサムは脂汗を垂れ流しながらも、赦しを請うようにこう言いそうである。
「彼女が、僕を誘ったんだ…。」
ニコールは自分の父親の弱さを誰よりわかっていた。だから愛さないではいられなかったのだと想う。
彼の望む愛し方で愛して遣らなければ、彼は何の喜びもない、生きていても何の価値もない全くのクズでカスなのだと覚ったのかも知れない。
ニコールは自分の両親の空虚さと虚構の家族愛に絶望しながら生きてきた。
でも彼女は、娘なりに自分の父親を愛そうと必死に、彼の欲求に答え、みずからの欲求にも答えさせようとしてきた。
”ハーメルンの笛吹き”は、実は子どもを身売りする人間であったのではないかと、わたしは推測する。
だから足の不自由な子どもや、盲目や聾唖といった障害を持った子どもは連れてゆかなかった。
連れて行ったところで、奴隷としての”売り物”にはならないからだ。
子どもを売った親が笛吹きから貰った報酬と、裁判に勝って貰える賠償金を、同じようなものとして監督は意図しているのだろう。
レイプ被害者と、バスの事故で一人生き残った少女の抱えるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の苦しみを、比べることなんてできない。
その娘に、その事故の記憶を蘇らさせて証言させようとすることなど、親として狂気である。
どの親たちも、また運転手のドロレスも、子どもの苦しみを想像できてなどいない。
でもこの映画は、そんな人間たちのすべてに救いを齎せようとする、”不思議な楽園”という約束をアイロニー的にではなく、監督の愛によって提示されて終る。
この映画を観て、不気味さを拭えなかった人は是非、何度も、観てもらいたい。
ハーメルンの笛吹きが、そう成らざるを得なかった人間としての底のない悲しみを、少しは感じられるかも知れない。