ひとりぼっちの青春 [DVD]
フォーマット | ワイドスクリーン, 色, ドルビー |
コントリビュータ | ジェームズ・ポー, ホレイス・マッコイ, マイケル・サラザン, スザンナ・ヨーク, ジェーン・フォンダ, シドニー・ポラック |
言語 | 英語 |
稼働時間 | 2 時間 |
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商品の説明
レビュー
監督: シドニー・ポラック 出演: ジェーン・フォンダ/マイケル・サラザン/スザンナ・ヨーク/ギグ・ヤング
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
登録情報
- アスペクト比 : 1.33:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 英語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4988111280749
- 監督 : シドニー・ポラック
- メディア形式 : ワイドスクリーン, 色, ドルビー
- 時間 : 2 時間
- 発売日 : 2004/8/27
- 出演 : ジェーン・フォンダ, マイケル・サラザン, スザンナ・ヨーク
- 字幕: : 日本語
- 言語 : 英語 (Dolby Digital 2.0 Stereo)
- 販売元 : 角川映画
- ASIN : B0002I86HO
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 178,887位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年3月30日に日本でレビュー済み
アマゾンで親しくさせて頂いているレビュアーの方々と、スザンヌ・ヨークは実は「トラウマ映画女優」だったりする(笑)、という話をしていた時、hide-bon氏からオススメされたのが本作『ひとりぼっちの青春』(‘69)だった。本作の中でのスザンヌ・ヨークの演技がトラウマになるぐらいに怖いと。さてどんな映画だろうか・・・と借りて観て・・・頭をガツーンと殴られたような衝撃を受けた。今まで数かぞえ切れないアメリカン・ニューシネマを観てきて、アンチクライマックス、アンチハッピーエンディングには慣れっこになっていたはずだったのに、本作のラストの衝撃には、しばし呆然となってしまった。
あの、登場人物たちが自らを追いつめてゆく悲壮感と、他に類を見ない異質な緊迫感。なぜそこまで自分達を責め立てるのか・・・?なぜあんな幕切れにしなければいけないのか・・・?
大恐慌時代とは、かくも生きることが困難な時代だったのか?
あまりに重くて、どう受け止めていいか判らなかった。かつて「大恐慌時代を舞台にした映画がけっこう好きだ」と言っていた自分は、とてつもなく軽薄で無責任な事を言っていたのではないだろうかと、罪悪感すら感じる映画体験だった。レビューを書くのは無理だ、と思った。背景にあるものが理解できない限り・・・監督、シドニー・ポラックがどんな思いでこの映画を撮ったのかを知らなければ、うかつなことは書けないと。
それ以来、この映画は自分の心に小さな傷をつけていたのだった。割り切れない思いが濁流のようにゆっくりとのたうちながら、心の底にわだかまりつづけていた。そしてある時、本作には原作がある事を知り、小説を読んでみようと思ったのだ。
それから、本作に対する答えを出すための、小さな旅が始まった。この映画のルーツは、監督ではなく原作者の人生と関わりがあるという事もよく判った。その一方で、ホレス・マッコイという小説家についての情報が、あまりにも少ない事も。
大恐慌時代とは?そして、その時代に繰り広げられた、狂気としか言いようがない「マラソン・ダンス」とは一体何だったのか?
【STORY】
1932年、大恐慌時代。夢を求めてハリウッドに来るも、仕事はなく、貧しい日々を過ごす青年ロバート(マイケル・サラザン)。ある日、海辺のダンスホールをふと覗いたことがきっかけで、マラソン・ダンスに参加する事になってしまう。パートナーは、周囲に悪態をついて回る、どこか人生に投げやりな印象の女グロリア(ジェーン・フォンダ)。マラソン・ダンスとは、1時間50分踊って10分休憩をとり、それを昼夜ぶっ通しで続け、最後に残った者に賞金が与えられるという耐久コンテストだ。参加者は、過酷なゲームに参加する代わりに、食事は食べ放題。一攫千金だけでなく、日々食うのに必死な者たちにとって、藁にもすがるようなイベントなのだ。ロバートのほかにも、売れない女優アリス(スザンナ・ヨーク)、最盛期を過ぎ、くたびれた船乗り(レッド・バトンズ)、身重の女ルビー(ボニー・ベデリア)とその夫ジェイムズ(ブルース・ダーン)らが参加していた。しかし、プロモーターのロッキー(ギグ・ヤング)は、参加者の思いなどつゆ知らず、ショウビジネスとしてどう面白可笑しく売るかという事にのみ腐心していた。かくて、参加者たちには次々と過酷な試練が課せられてゆく・・・。
マラソン・ダンスとは、1920年代から30年代にかけてアメリカ各地で行われ、タブロイド誌を賑わせた、あの時代ならではの産物だ。1923年のNYワールド紙は、「これまで行われた馬鹿げたコンテストの中でも、マラソン・ダンスほど馬鹿げたものはない」と評し、さらにこう続ける「可愛い娘がくたくたになっているのは興ざめだ。よれよれの化粧着をまとい、薄汚れた白いストッキングをすりへったフェルト靴まで巻き下ろし、目をなかば閉じて、腕をだらしなく相手の腕にかけ、痛む足をひきずって、今にも倒れんばかりにステップを踏み続けている」と。
数千ドルという、途方もない賞金が出ることもあってか、参加者たちはパートナーを眠らせまいと足で蹴ったり、手で叩いたり、気つけ薬をかがせたり、挙句の果てにはライバルの飲み物に睡眠薬や下剤を入れたりと、勝つためには手段を選ばない汚いことも平気で行われたという。
1930年には、シカゴで119日間も続いたマラソン・ダンスがあり、参加者のダンサーたちは奇怪な言動を取ったり、妄想に取りつかれたり、パートナーを憎悪したり、精神的にも極限状態を超える者が続出したという。マラソン・ダンスを生き抜いた一人に、ピッツバーグ“ヘラクレス”プロミティスという女性がいて、競技が始まる3週間前から両足を塩水と酢に漬け、踊り続けても痛みを感じないようにしていたという。そんな方法がホントに効くのか、そもそも体に良いのか、はなはだ疑問ではあるが(笑)。
とにかく、マラソン・ダンスというのは、かくもビザールでクレイジーな「大恐慌時代の不気味な現象のひとつ」だったのだ。
そして本作は、その時代の仇花?とも言えるマラソン・ダンスに取り憑かれた者たちの鬼気迫る様子を、全編に亘って俳優たちが迫真の演技で見せる、他に類を見ないトラウマ映画なのだ。
疲労困憊で目は落ち窪み、頬は痩せこけ、顔面は蒼白となり疲弊しきった表情で、パートナーの身体に寄りかかるようにして、最早ダンスなどとは言えない、ただ身体をかろうじて揺すっているだけの若者達の、あの悲愴な様子・・・半ば気絶した状態で抱きかかえられている者、あるいは力尽き、地にくず折れる者、髪を振り乱し、足を引きずり、口をだらしなく開け、苦悶の表情を浮かべ・・・最早ダンスなどと呼べる華やかなものではなく、壮絶なサバイバル・ゲームだ。生気を失った幽鬼の群れが、ホールの床の上で蠢いている・・・そんな風景なのだ。
そしてそれを観てやんやの喝采で熱狂する観客たち。そう、これは単なる持久力を競う大会ではない。いかにもアメリカらしい、見世物主義の興行だということが、主人公とプロモーターの会話で明らかにされる。
ロバート「これはコンテストだろう?」
ロッキー「お前らにとってはな、しかし客にとっては違う。これはショーだ。惨めな姿を、客は求めている」
精神的にも、肉体的にも追いつめられ、心を病み、脱落してゆく参加者たち・・・ある者は虫が全身を這いずり回る幻覚を見て、叫びを上げてのた打ち回る。
何だこれは・・・?ダンスの映画じゃないの!?この息詰まるような緊迫感、まるでホラー映画なんですけど(苦笑)。
主人公を演じたマイケル・サラザンはハマり役で、明日への希望が持てない、無気力で無感動な若者を好演していた。ジェーン・フォンダは、コメディエンヌ的なイメージから脱却するために、シリアスな役柄、社会派的な硬派な映画出演へ舵を切り始めた頃だが、本作のヒロイン・グロリアは原作でもそうだが、非常に気の強い、社会や他者に対して悪態をついて回るようなキャラクターだ。破滅型な性格の一方、むしろ主人公よりも(精神的に)マッチョな印象すら受ける(笑)。一方で、アリスを演じるスザンヌ・ヨークは、刻一刻と疲弊していく演技がすさまじく、目の周りが隈だらけになり、目から少しずつ正気が失われてゆく演技が迫真すぎて怖い。特に、シャワーを浴びるあのシーンの表情・・・一度観たら間違いなくトラウマになります。はっきり言ってホラー映画なんかよりずっと怖いっス。
本作を初めて観た時に、とにかく悩んだのは、なぜここまで追い詰められても彼ら彼女らは踊り続けるのだろうか?という事だった。いくら仕事がなく、食うや食わずやの状態でも、精神に異常を来たしてまで続けることなのだろうか、と。
その手掛かりをつかみたいと、手に取ってみた原作「彼らは廃馬を撃つ」は、極めて簡潔な文体で書かれた小説だった。登場人物の心理に深く入り込むような描写はなく、主人公の一人称で書かれているのに、むしろマラソン・ダンスの様子を客観的に描いているようにすら感じられた。これには、作者のマラソン・ダンスとの関わりが関係していると思われる。
原作者のホレス・マッコイ(1897−1955)は、テネシー州ペグラムで生まれ、12歳で新聞の売り子として働いたのをきっかけに、アメリカ南部を転々としながらセールスマンやタクシーの運転手などを務め、第一次大戦では陸軍の航空部隊に従軍し、除隊後はスポーツ誌の編集者、ダラスの小劇場運動に参加したりしながら、1920年代後半から『ブラック・マスク』誌などのパルプ・マガジンでの犯罪小説の執筆を開始。1931年、俳優・脚本家を目指し、ハリウッドに向かう。しかし、時は大恐慌の真っ只中、マッコイは満足な職を得ることなどできず、映画のエキストラ、プロレスラーの代役、ストライキの監視員、ソーダファウンテンの売り子などで食いつなぐ極貧生活が待っていた。まさに本作の主人公と同じ境遇にあったわけで、そんな中で彼が就いた仕事のひとつに「マラソン・ダンス会場のガードマン」というのがあった。大恐慌時代ならではの産物であるこのいかれたコンテストを、醜いショウビジネスの世界を、マッコイ自身が目の当たりにしたのだ。そして彼はそれを嫌悪したという。
マッコイが最後に就いた仕事は、ハリウッドでのシナリオの仕事で、一説によると映画の脚本は亡くなるまでの20年間で100本以上書いたと言われているが、確認されているのは30本ほど。ヘンリー・ハサウェイ、ラオール・ウォルシュ、ニコラス・レイといった監督と仕事をしていたそうだが、そのほとんどが共作だという。ウィリス・オブライエン版の『キングコング』の脚本に参加したという説もあるが、ノークレジットだ。こうした調査は、クライム・ノヴェルの研究家によって行われており、映画界でマッコイが重用されていたという話は聞かない。おそらく右から左へのやっつけ仕事が大多数を占めていたと思われる。映画評論家によるマッコイの研究などというものは聞いたことがなく、従って脚本家としてのマッコイの名は、アメリカ映画史には刻まれていない。
マッコイはパルプ・マガジンで仕事をしたことがきっかけで、長編小説を6冊上梓している。その第一作にあたるのが『彼らは廃馬を撃つ』(‘35)で、日本でも出版されているのは他には『明日に別れの接吻を』(‘48)ぐらいである。他には、短編のパルプ・ノワール小説が『ブラック・マスクの世界』やミステリ系の雑誌に何本か掲載された程度。何よりも本国アメリカでも不遇の扱いを受けた作家で、当初、彼の小説がまともに出版・評価されたことはなかった。
で、例のごとく、そうした作家に光を当てるのがフランス人なわけで(笑)、第一作『彼らは廃馬を撃つ』と第二作『No Pockets in a Shroud(屍衣にポケットはない)』(‘37)が、あの伝説のセリ・ノワール叢書に入れられ、「実存主義文学」とか「プロレタリア文学」といった評価を受け激讃、ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックと並び論議される「注目のアメリカ人作家」となった(いくら何でもほめすぎだとは思うが・笑)。で、本国もその噂を聞きつけ、ようやく重い腰を上げて続々刊行され、’40年代後半になり、マッコイはようやく名声と成功を得ることになる。それは晩年の、亡くなるまでの数年間のことだった。
日本では、熱意をもって『彼らは廃馬を撃つ』を翻訳した常盤新平氏が、「以前から翻訳したかった小説だった」と後書きに書かれているのを始め、氏によるエッセイ集『ニューヨーク紳士録』の中でも、マッコイについて語っている。そして、あの小鷹信光氏は『パパイラスの舟』の中で「実存的叙情航路」というタイトルでホレス・マッコイ論を書かれ、同氏が編纂した『ブラック・マスクの世界』の第1巻で、マッコイのノワール短編「黒い手帳」を掲載・紹介している。他には、『明日に別れの接吻を』の後書きで、翻訳者の小林宏明氏がマッコイの経歴などについて詳しく、かつ判り易く紹介されている。
原作者話がちょっと長くなってしまったが(笑)、以上の事から、本作『ひとりぼっちの青春』の背景には、原作者であるホレス・マッコイの人生が重なって見え、主人公のロバートには少なからずマッコイ自身の何がしかの思いが投影されている、と考えられる。
20世紀初頭、西海岸では、サンタモニカからベニスビーチにかけていくつもの桟橋が建てられ、海沿いに遊園地やダンスホールといった様々な行楽施設が建てられ、活況を呈していた。マッコイが警備員をしていたのは、そんな桟橋のひとつ、サンタモニカ桟橋のダンスホールだった。
本作冒頭で、海岸を歩いていた主人公が、ふらりと足を踏み入れたダンスホールでマラソン・ダンス大会が開催されようとしている・・・という、「海の風景とマラソン・ダンス」というイメージを作り出したのは、間違いなくマッコイの小説なのだ。筆者得意の脱線をちょとここですると(笑)、「美少女版オーメン」として一部のホラー映画ファンから高く評価された『ポイント・プレザントの悪夢』というテレビドラマで、大恐慌時代のマラソン・ダンスのシーンがあったが、やはり海辺で開催されていたことが非常に強く印象に残っている。そのエピソードでも、あまりのつらさに海に身を投げて自殺してしまう女性がいたと記憶しているが、それほどまでに参加者を追いつめるものだったのだろうか・・・。
なぜ逃げ出そうとしないのか?止めてしまえばいいではないか?しかし、あの時代は、我々には到底理解しがたい苦難の時代だったのだ。職はなく、食べるものもなく、ボロボロになりながらダンスを続けるうちは食べ物にありつける。脱落することは、再び貧困と不安の生活に戻ることを意味する・・・。
原題「They Shoot Horses, Don’t They?」(映画も小説も同じ)は、映画冒頭のプロローグで描かれる、アーカンソーの農園で過ごした主人公の少年時代に関わっている。草原を駆ける一頭の馬・・・非常に美しく印象的な映像で本作は幕を開ける。しかし、それもつかの間、その馬は転倒し、脚を折ってしまう。脚を折るというのは、馬にとっては致命的な怪我・・・主人公が泣きながら見守る中で、その馬は祖父によって射殺される。
原作には、祖父のこんな台詞がある。
「そうしてやるのがいちばん親切なことなのだよ。ネリー(馬)は、もうだめだったのだ。ネリーを不幸から救ってやるたった一つの道だった・・・」
このタイトルは、常盤新平氏によって「彼らは廃馬を撃つ」と端的に、いやむしろ捉えようによっては哲学的な印象すら受けるようなかっこいい邦題に訳されているが、これをより通俗的に直訳すると、「馬だったら撃ち殺すじゃないか(じゃあなぜ人間は駄目なんだ?)」というニュアンスになる。「Don’t They?」というのは、相手に対して同意を求める呼びかけで、「そうだろう?」という意味だ。本作のタイトルに関しては、あえて俗なまま翻訳することで、「馬」も「人間」も一緒くたにしてしてしまっている、ある種衝撃的な意味合いが原題の中に存在していることが判る。使い物にならなくなったものに、引導を渡してあげるのは慈悲じゃないか、と・・・。
かりそめの職を転々とし、人生の大半を不遇の中で生きたホレス・マッコイ。その希望なき凄春の叫び。本作『ひとりぼっちの青春』の悲愴な若者達は、マッコイの人生の・・・大恐慌時代を生き、あるいは生きることが出来なかった人々の残像なのだ。
最後に。アメリカン・ニューシネマの中でも壮絶なまでの異彩を放つ本作、ぜひ再発希望!もちろん廉価版でね(笑)。
あの、登場人物たちが自らを追いつめてゆく悲壮感と、他に類を見ない異質な緊迫感。なぜそこまで自分達を責め立てるのか・・・?なぜあんな幕切れにしなければいけないのか・・・?
大恐慌時代とは、かくも生きることが困難な時代だったのか?
あまりに重くて、どう受け止めていいか判らなかった。かつて「大恐慌時代を舞台にした映画がけっこう好きだ」と言っていた自分は、とてつもなく軽薄で無責任な事を言っていたのではないだろうかと、罪悪感すら感じる映画体験だった。レビューを書くのは無理だ、と思った。背景にあるものが理解できない限り・・・監督、シドニー・ポラックがどんな思いでこの映画を撮ったのかを知らなければ、うかつなことは書けないと。
それ以来、この映画は自分の心に小さな傷をつけていたのだった。割り切れない思いが濁流のようにゆっくりとのたうちながら、心の底にわだかまりつづけていた。そしてある時、本作には原作がある事を知り、小説を読んでみようと思ったのだ。
それから、本作に対する答えを出すための、小さな旅が始まった。この映画のルーツは、監督ではなく原作者の人生と関わりがあるという事もよく判った。その一方で、ホレス・マッコイという小説家についての情報が、あまりにも少ない事も。
大恐慌時代とは?そして、その時代に繰り広げられた、狂気としか言いようがない「マラソン・ダンス」とは一体何だったのか?
【STORY】
1932年、大恐慌時代。夢を求めてハリウッドに来るも、仕事はなく、貧しい日々を過ごす青年ロバート(マイケル・サラザン)。ある日、海辺のダンスホールをふと覗いたことがきっかけで、マラソン・ダンスに参加する事になってしまう。パートナーは、周囲に悪態をついて回る、どこか人生に投げやりな印象の女グロリア(ジェーン・フォンダ)。マラソン・ダンスとは、1時間50分踊って10分休憩をとり、それを昼夜ぶっ通しで続け、最後に残った者に賞金が与えられるという耐久コンテストだ。参加者は、過酷なゲームに参加する代わりに、食事は食べ放題。一攫千金だけでなく、日々食うのに必死な者たちにとって、藁にもすがるようなイベントなのだ。ロバートのほかにも、売れない女優アリス(スザンナ・ヨーク)、最盛期を過ぎ、くたびれた船乗り(レッド・バトンズ)、身重の女ルビー(ボニー・ベデリア)とその夫ジェイムズ(ブルース・ダーン)らが参加していた。しかし、プロモーターのロッキー(ギグ・ヤング)は、参加者の思いなどつゆ知らず、ショウビジネスとしてどう面白可笑しく売るかという事にのみ腐心していた。かくて、参加者たちには次々と過酷な試練が課せられてゆく・・・。
マラソン・ダンスとは、1920年代から30年代にかけてアメリカ各地で行われ、タブロイド誌を賑わせた、あの時代ならではの産物だ。1923年のNYワールド紙は、「これまで行われた馬鹿げたコンテストの中でも、マラソン・ダンスほど馬鹿げたものはない」と評し、さらにこう続ける「可愛い娘がくたくたになっているのは興ざめだ。よれよれの化粧着をまとい、薄汚れた白いストッキングをすりへったフェルト靴まで巻き下ろし、目をなかば閉じて、腕をだらしなく相手の腕にかけ、痛む足をひきずって、今にも倒れんばかりにステップを踏み続けている」と。
数千ドルという、途方もない賞金が出ることもあってか、参加者たちはパートナーを眠らせまいと足で蹴ったり、手で叩いたり、気つけ薬をかがせたり、挙句の果てにはライバルの飲み物に睡眠薬や下剤を入れたりと、勝つためには手段を選ばない汚いことも平気で行われたという。
1930年には、シカゴで119日間も続いたマラソン・ダンスがあり、参加者のダンサーたちは奇怪な言動を取ったり、妄想に取りつかれたり、パートナーを憎悪したり、精神的にも極限状態を超える者が続出したという。マラソン・ダンスを生き抜いた一人に、ピッツバーグ“ヘラクレス”プロミティスという女性がいて、競技が始まる3週間前から両足を塩水と酢に漬け、踊り続けても痛みを感じないようにしていたという。そんな方法がホントに効くのか、そもそも体に良いのか、はなはだ疑問ではあるが(笑)。
とにかく、マラソン・ダンスというのは、かくもビザールでクレイジーな「大恐慌時代の不気味な現象のひとつ」だったのだ。
そして本作は、その時代の仇花?とも言えるマラソン・ダンスに取り憑かれた者たちの鬼気迫る様子を、全編に亘って俳優たちが迫真の演技で見せる、他に類を見ないトラウマ映画なのだ。
疲労困憊で目は落ち窪み、頬は痩せこけ、顔面は蒼白となり疲弊しきった表情で、パートナーの身体に寄りかかるようにして、最早ダンスなどとは言えない、ただ身体をかろうじて揺すっているだけの若者達の、あの悲愴な様子・・・半ば気絶した状態で抱きかかえられている者、あるいは力尽き、地にくず折れる者、髪を振り乱し、足を引きずり、口をだらしなく開け、苦悶の表情を浮かべ・・・最早ダンスなどと呼べる華やかなものではなく、壮絶なサバイバル・ゲームだ。生気を失った幽鬼の群れが、ホールの床の上で蠢いている・・・そんな風景なのだ。
そしてそれを観てやんやの喝采で熱狂する観客たち。そう、これは単なる持久力を競う大会ではない。いかにもアメリカらしい、見世物主義の興行だということが、主人公とプロモーターの会話で明らかにされる。
ロバート「これはコンテストだろう?」
ロッキー「お前らにとってはな、しかし客にとっては違う。これはショーだ。惨めな姿を、客は求めている」
精神的にも、肉体的にも追いつめられ、心を病み、脱落してゆく参加者たち・・・ある者は虫が全身を這いずり回る幻覚を見て、叫びを上げてのた打ち回る。
何だこれは・・・?ダンスの映画じゃないの!?この息詰まるような緊迫感、まるでホラー映画なんですけど(苦笑)。
主人公を演じたマイケル・サラザンはハマり役で、明日への希望が持てない、無気力で無感動な若者を好演していた。ジェーン・フォンダは、コメディエンヌ的なイメージから脱却するために、シリアスな役柄、社会派的な硬派な映画出演へ舵を切り始めた頃だが、本作のヒロイン・グロリアは原作でもそうだが、非常に気の強い、社会や他者に対して悪態をついて回るようなキャラクターだ。破滅型な性格の一方、むしろ主人公よりも(精神的に)マッチョな印象すら受ける(笑)。一方で、アリスを演じるスザンヌ・ヨークは、刻一刻と疲弊していく演技がすさまじく、目の周りが隈だらけになり、目から少しずつ正気が失われてゆく演技が迫真すぎて怖い。特に、シャワーを浴びるあのシーンの表情・・・一度観たら間違いなくトラウマになります。はっきり言ってホラー映画なんかよりずっと怖いっス。
本作を初めて観た時に、とにかく悩んだのは、なぜここまで追い詰められても彼ら彼女らは踊り続けるのだろうか?という事だった。いくら仕事がなく、食うや食わずやの状態でも、精神に異常を来たしてまで続けることなのだろうか、と。
その手掛かりをつかみたいと、手に取ってみた原作「彼らは廃馬を撃つ」は、極めて簡潔な文体で書かれた小説だった。登場人物の心理に深く入り込むような描写はなく、主人公の一人称で書かれているのに、むしろマラソン・ダンスの様子を客観的に描いているようにすら感じられた。これには、作者のマラソン・ダンスとの関わりが関係していると思われる。
原作者のホレス・マッコイ(1897−1955)は、テネシー州ペグラムで生まれ、12歳で新聞の売り子として働いたのをきっかけに、アメリカ南部を転々としながらセールスマンやタクシーの運転手などを務め、第一次大戦では陸軍の航空部隊に従軍し、除隊後はスポーツ誌の編集者、ダラスの小劇場運動に参加したりしながら、1920年代後半から『ブラック・マスク』誌などのパルプ・マガジンでの犯罪小説の執筆を開始。1931年、俳優・脚本家を目指し、ハリウッドに向かう。しかし、時は大恐慌の真っ只中、マッコイは満足な職を得ることなどできず、映画のエキストラ、プロレスラーの代役、ストライキの監視員、ソーダファウンテンの売り子などで食いつなぐ極貧生活が待っていた。まさに本作の主人公と同じ境遇にあったわけで、そんな中で彼が就いた仕事のひとつに「マラソン・ダンス会場のガードマン」というのがあった。大恐慌時代ならではの産物であるこのいかれたコンテストを、醜いショウビジネスの世界を、マッコイ自身が目の当たりにしたのだ。そして彼はそれを嫌悪したという。
マッコイが最後に就いた仕事は、ハリウッドでのシナリオの仕事で、一説によると映画の脚本は亡くなるまでの20年間で100本以上書いたと言われているが、確認されているのは30本ほど。ヘンリー・ハサウェイ、ラオール・ウォルシュ、ニコラス・レイといった監督と仕事をしていたそうだが、そのほとんどが共作だという。ウィリス・オブライエン版の『キングコング』の脚本に参加したという説もあるが、ノークレジットだ。こうした調査は、クライム・ノヴェルの研究家によって行われており、映画界でマッコイが重用されていたという話は聞かない。おそらく右から左へのやっつけ仕事が大多数を占めていたと思われる。映画評論家によるマッコイの研究などというものは聞いたことがなく、従って脚本家としてのマッコイの名は、アメリカ映画史には刻まれていない。
マッコイはパルプ・マガジンで仕事をしたことがきっかけで、長編小説を6冊上梓している。その第一作にあたるのが『彼らは廃馬を撃つ』(‘35)で、日本でも出版されているのは他には『明日に別れの接吻を』(‘48)ぐらいである。他には、短編のパルプ・ノワール小説が『ブラック・マスクの世界』やミステリ系の雑誌に何本か掲載された程度。何よりも本国アメリカでも不遇の扱いを受けた作家で、当初、彼の小説がまともに出版・評価されたことはなかった。
で、例のごとく、そうした作家に光を当てるのがフランス人なわけで(笑)、第一作『彼らは廃馬を撃つ』と第二作『No Pockets in a Shroud(屍衣にポケットはない)』(‘37)が、あの伝説のセリ・ノワール叢書に入れられ、「実存主義文学」とか「プロレタリア文学」といった評価を受け激讃、ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックと並び論議される「注目のアメリカ人作家」となった(いくら何でもほめすぎだとは思うが・笑)。で、本国もその噂を聞きつけ、ようやく重い腰を上げて続々刊行され、’40年代後半になり、マッコイはようやく名声と成功を得ることになる。それは晩年の、亡くなるまでの数年間のことだった。
日本では、熱意をもって『彼らは廃馬を撃つ』を翻訳した常盤新平氏が、「以前から翻訳したかった小説だった」と後書きに書かれているのを始め、氏によるエッセイ集『ニューヨーク紳士録』の中でも、マッコイについて語っている。そして、あの小鷹信光氏は『パパイラスの舟』の中で「実存的叙情航路」というタイトルでホレス・マッコイ論を書かれ、同氏が編纂した『ブラック・マスクの世界』の第1巻で、マッコイのノワール短編「黒い手帳」を掲載・紹介している。他には、『明日に別れの接吻を』の後書きで、翻訳者の小林宏明氏がマッコイの経歴などについて詳しく、かつ判り易く紹介されている。
原作者話がちょっと長くなってしまったが(笑)、以上の事から、本作『ひとりぼっちの青春』の背景には、原作者であるホレス・マッコイの人生が重なって見え、主人公のロバートには少なからずマッコイ自身の何がしかの思いが投影されている、と考えられる。
20世紀初頭、西海岸では、サンタモニカからベニスビーチにかけていくつもの桟橋が建てられ、海沿いに遊園地やダンスホールといった様々な行楽施設が建てられ、活況を呈していた。マッコイが警備員をしていたのは、そんな桟橋のひとつ、サンタモニカ桟橋のダンスホールだった。
本作冒頭で、海岸を歩いていた主人公が、ふらりと足を踏み入れたダンスホールでマラソン・ダンス大会が開催されようとしている・・・という、「海の風景とマラソン・ダンス」というイメージを作り出したのは、間違いなくマッコイの小説なのだ。筆者得意の脱線をちょとここですると(笑)、「美少女版オーメン」として一部のホラー映画ファンから高く評価された『ポイント・プレザントの悪夢』というテレビドラマで、大恐慌時代のマラソン・ダンスのシーンがあったが、やはり海辺で開催されていたことが非常に強く印象に残っている。そのエピソードでも、あまりのつらさに海に身を投げて自殺してしまう女性がいたと記憶しているが、それほどまでに参加者を追いつめるものだったのだろうか・・・。
なぜ逃げ出そうとしないのか?止めてしまえばいいではないか?しかし、あの時代は、我々には到底理解しがたい苦難の時代だったのだ。職はなく、食べるものもなく、ボロボロになりながらダンスを続けるうちは食べ物にありつける。脱落することは、再び貧困と不安の生活に戻ることを意味する・・・。
原題「They Shoot Horses, Don’t They?」(映画も小説も同じ)は、映画冒頭のプロローグで描かれる、アーカンソーの農園で過ごした主人公の少年時代に関わっている。草原を駆ける一頭の馬・・・非常に美しく印象的な映像で本作は幕を開ける。しかし、それもつかの間、その馬は転倒し、脚を折ってしまう。脚を折るというのは、馬にとっては致命的な怪我・・・主人公が泣きながら見守る中で、その馬は祖父によって射殺される。
原作には、祖父のこんな台詞がある。
「そうしてやるのがいちばん親切なことなのだよ。ネリー(馬)は、もうだめだったのだ。ネリーを不幸から救ってやるたった一つの道だった・・・」
このタイトルは、常盤新平氏によって「彼らは廃馬を撃つ」と端的に、いやむしろ捉えようによっては哲学的な印象すら受けるようなかっこいい邦題に訳されているが、これをより通俗的に直訳すると、「馬だったら撃ち殺すじゃないか(じゃあなぜ人間は駄目なんだ?)」というニュアンスになる。「Don’t They?」というのは、相手に対して同意を求める呼びかけで、「そうだろう?」という意味だ。本作のタイトルに関しては、あえて俗なまま翻訳することで、「馬」も「人間」も一緒くたにしてしてしまっている、ある種衝撃的な意味合いが原題の中に存在していることが判る。使い物にならなくなったものに、引導を渡してあげるのは慈悲じゃないか、と・・・。
かりそめの職を転々とし、人生の大半を不遇の中で生きたホレス・マッコイ。その希望なき凄春の叫び。本作『ひとりぼっちの青春』の悲愴な若者達は、マッコイの人生の・・・大恐慌時代を生き、あるいは生きることが出来なかった人々の残像なのだ。
最後に。アメリカン・ニューシネマの中でも壮絶なまでの異彩を放つ本作、ぜひ再発希望!もちろん廉価版でね(笑)。
2019年12月17日に日本でレビュー済み
正に日本そのものな映画
私たちのダンスマラソンはいつ終わるのか、それを見る観客は誰か
運の良い幸せな人には不気味な映画だが、分かる人には深く残るであろう名作
世の中は子供の手作りパーティのような幼稚で未熟なエンターテイメントであり、その「温かみ」や「泥臭さ」に価値を見出せず楽しめない者に居場所はない
況してや苛立ちや疑問、嫌悪感など以ての外なのだ
例え側から見れば無駄でやる意味のない事でも私たちはやらなければならない
それが出来ない者、出来なくなったものは退場するしかないのだ
原題:彼らは廃馬を撃つ
私たちのダンスマラソンはいつ終わるのか、それを見る観客は誰か
運の良い幸せな人には不気味な映画だが、分かる人には深く残るであろう名作
世の中は子供の手作りパーティのような幼稚で未熟なエンターテイメントであり、その「温かみ」や「泥臭さ」に価値を見出せず楽しめない者に居場所はない
況してや苛立ちや疑問、嫌悪感など以ての外なのだ
例え側から見れば無駄でやる意味のない事でも私たちはやらなければならない
それが出来ない者、出来なくなったものは退場するしかないのだ
原題:彼らは廃馬を撃つ
2013年4月2日に日本でレビュー済み
チャンドラー、ハメットと並んでハードボイルドの巨匠と呼ばれるホレス・マッコイ。
そんな彼が書いた「彼らは廃馬を撃つ」の映画化。
当初はハードボイルドの巨匠らしくトレンチコートに拳銃かと思ったらまさかのダンス・マラソン!?
昼夜ぶっ通しで走り回るってお前らはキングの「死のロングウォーク」かっ? と突っ込みたくなるような
設定ですがある意味「死の〜」よりもきつい物が彼らを待ち受けているのです。
努力が徒労になる瞬間、積み上げて来たものが滑稽なほど簡単に水泡に帰す瞬間。
その哀切、悲憤、不条理さはもはや殺されるも同じなのです。
「後で後悔するよりもとことんやって後悔する方がマシ」と言う
先人の知恵を重宝してきた自分が一瞬「どうしよう?」と完璧に自信を見事去勢させられてしまいました。
題名にもなるラストの「どうせ廃馬は撃たれるんでしょう?」という問いかけが今も心から離れません。
出来ることなら終わるなら終わるできっぱり終わらせることが出来たらどれだけ人生は楽なことでしょう。
そう思うと彼女の決断を指差して責めることはできません、人は空っぽになってしまう瞬間があるのです。
しかし喪失をしても続くのが人生、これ見て凹んだ方はヘミングウェイの名著「老人と海」で癒しを得てください。
それか我等が北野武監督の「キッズ・リターン」を薦めます。
「なに、ちょっと運が悪かっただけさ」 byサンチャゴ
「馬鹿やろう、まだ始まってもいねぇよ」by マサル
そんな彼が書いた「彼らは廃馬を撃つ」の映画化。
当初はハードボイルドの巨匠らしくトレンチコートに拳銃かと思ったらまさかのダンス・マラソン!?
昼夜ぶっ通しで走り回るってお前らはキングの「死のロングウォーク」かっ? と突っ込みたくなるような
設定ですがある意味「死の〜」よりもきつい物が彼らを待ち受けているのです。
努力が徒労になる瞬間、積み上げて来たものが滑稽なほど簡単に水泡に帰す瞬間。
その哀切、悲憤、不条理さはもはや殺されるも同じなのです。
「後で後悔するよりもとことんやって後悔する方がマシ」と言う
先人の知恵を重宝してきた自分が一瞬「どうしよう?」と完璧に自信を見事去勢させられてしまいました。
題名にもなるラストの「どうせ廃馬は撃たれるんでしょう?」という問いかけが今も心から離れません。
出来ることなら終わるなら終わるできっぱり終わらせることが出来たらどれだけ人生は楽なことでしょう。
そう思うと彼女の決断を指差して責めることはできません、人は空っぽになってしまう瞬間があるのです。
しかし喪失をしても続くのが人生、これ見て凹んだ方はヘミングウェイの名著「老人と海」で癒しを得てください。
それか我等が北野武監督の「キッズ・リターン」を薦めます。
「なに、ちょっと運が悪かっただけさ」 byサンチャゴ
「馬鹿やろう、まだ始まってもいねぇよ」by マサル
2006年12月24日に日本でレビュー済み
好きでもないですし楽しくもないです。しかし、残酷なまでの傑作あることは間違いないところでしょう。1969年の作品ですけれど、1989年以後のバブル崩壊後の日本に重なってみえます。ジェーン・フォンダにとって転機となった作品。彼女の前作がバーバレラですから様変わりです。この作品のテーマは「絶望」と「「クロノス:時間神」です。ただ、ラストが説得力に欠けるのが最大の問題。「ひとりぼっちの青春」というタイトルに釣られないようにご注意を。中味からしたら「絶望の果てに」です。
2014年4月6日に日本でレビュー済み
1970年公開の、イノセントを失ったアメリカ青春映画のひとつ。
不眠不休の耐久ダンスマラソン大会に参加して、一獲千金をもくろむ登場人物たち。
男と女が目標達成のために奮闘する。
貧しいものが賞金を手にして夢がかなう。
これこそが『アメリカン・ウェイ』であり、今作も夢を与えてくれるようなスタートが切られましたが、ゴールには悪夢しかなく、信じるものを奪われた若者の苦悩が延々と続いていくこととなります。
背景としては、米公開当時のヴェトナム反戦運動の動きが従来のアメリカ信仰を揺るがし、この時期カウンターカルチャーの流れを汲む映画がたくさん作り出されたことが挙げられますが、それにしても全体が暗い。
纏わりつくような惨めさ、やるせなさが溢れています。
ヒッピーだ、ラヴ・アンド・ピースだと自由を標榜したりこれまでの価値観を打ち破るような稀有な生き様を呈示するわけでもない。
信じてきた道を歩んでも報われず、さりとて新しい道を切り開くほど強くない者たちはこの先どうすればいいのか?
押し寄せる困窮の耐えられない苦しさ。
大多数にも少人数にもくみできない、力をもたないものたちを圧迫する競争社会の欺瞞が寒々と語られています。
もう前に進めないよ、っていう行き詰まり感からくる、切なくも壮絶なエンディングを見たい方は、是非。
不眠不休の耐久ダンスマラソン大会に参加して、一獲千金をもくろむ登場人物たち。
男と女が目標達成のために奮闘する。
貧しいものが賞金を手にして夢がかなう。
これこそが『アメリカン・ウェイ』であり、今作も夢を与えてくれるようなスタートが切られましたが、ゴールには悪夢しかなく、信じるものを奪われた若者の苦悩が延々と続いていくこととなります。
背景としては、米公開当時のヴェトナム反戦運動の動きが従来のアメリカ信仰を揺るがし、この時期カウンターカルチャーの流れを汲む映画がたくさん作り出されたことが挙げられますが、それにしても全体が暗い。
纏わりつくような惨めさ、やるせなさが溢れています。
ヒッピーだ、ラヴ・アンド・ピースだと自由を標榜したりこれまでの価値観を打ち破るような稀有な生き様を呈示するわけでもない。
信じてきた道を歩んでも報われず、さりとて新しい道を切り開くほど強くない者たちはこの先どうすればいいのか?
押し寄せる困窮の耐えられない苦しさ。
大多数にも少人数にもくみできない、力をもたないものたちを圧迫する競争社会の欺瞞が寒々と語られています。
もう前に進めないよ、っていう行き詰まり感からくる、切なくも壮絶なエンディングを見たい方は、是非。
2014年8月28日に日本でレビュー済み
貧乏人達が金のために踊り狂う。体力が尽きるまで踊り、残った一組が賞金をもらう。
それをお金持ち達が、微笑み見守る。
休憩時間はわずかしかない。
貧乏人達は、踊り続けて狂っていく。そして驚く事実。
最後のシーンは鳥肌が立ちました。とても華やかで、とても残酷に見えました。
それをお金持ち達が、微笑み見守る。
休憩時間はわずかしかない。
貧乏人達は、踊り続けて狂っていく。そして驚く事実。
最後のシーンは鳥肌が立ちました。とても華やかで、とても残酷に見えました。
2015年12月9日に日本でレビュー済み
大恐慌時代のダンスマラソンを題材にしたポラックの秀作で俳優陣も多彩。
甘い青春映画を連想させる公開題名とは異なり人生とは何かを考えさせます。DVD再発売希望します。
甘い青春映画を連想させる公開題名とは異なり人生とは何かを考えさせます。DVD再発売希望します。