内容紹介
よほどマニアックなジャズ・リスナーでないかぎり、「ああ、カサンドラ・ウィルソンのギタリストね」ぐらいの認識が普通だろうとは思う。しかしブランドン・ロスは、『ニュー・ムーン・ドーター』をはじめとするカサンドラの一連の傑作の立役者というひとことで済ませられるミュージシャンではない。ソロ名義のアルバムとしては初となる『コスチューム』を聴いた人は、まず例外なくそう思うはずだ。
75年、まだ18歳の時に、アーチー・シェップの『There's A Trumpet In My Soul』に参加したのがプロとしてのレコーディング初仕事。それ以来、ブッチ・モリスやヘンリー・スレッギル、オリヴァー・レイクなどのバンドで重用される傍ら、ドン・バイロン、リロイ・ジェンキンス、ビル・ラズウェル、キップ・ハンラハン、グレアム・ヘインズ、更にDJ・ロジック、キャロル・エマニュエル、アレスティッド・ディヴェロップメント等々、膨大な数の作品に参加してきたブランドンのキャリアは、シカゴ派の血脈も受け継いだロフト・ジャズ以降のニューヨーク前衛シーンにおけるまさに王道と言っていい。
出身地はニュージャージー。父親のキャンディー・ロスは、ベニー・カーターやカウント・ベイシー楽団などで演奏するジャズ・トロンボーン奏者で、マイルズ・デイヴィスが在籍していた頃のディジー・ガレスピー楽団にもちょっとだけいたことがあった。家ではジャズやモータウンなどのレコードが常に流れ、また兄の影響でジミヘンやジェファースン・エアプレインなどロックもよく聴いたが、それ以上にブランドンに重要な影響を及ぼしたと思われるのが、クラシックや教会音楽である。彼は幼少時からラヴェルとかドビュッシー等のフランス印象派やストラヴィンスキーなど20世紀前衛クラシック音楽が特に好きで、また、ゴスペルを歌う黒人系教会ではなく、アングリカン系の教会の聖歌隊で、ブリテンやパーセルなどを歌っていた。更に、シェイクスピア劇の妖精に憧れ、エミリー・ディッキンソンの詩に曲を付けて歌うなど、ひとり静かに神秘的世界に浸るような子だったという。
やがてバークリー音楽院に入ったものの、「技術ばかりを教え、表現すること、美学的なレヴェルの学習を積むことはできない」と、すぐに見切りをつけて、アムハースト(ニューヨーク州立大学ノース・キャンパス)に移ったブランドンは、アジアやアフリカなどさまざまな民俗音楽も学びつつ、音楽の持つ根源的な魔術性の探求を続けていった。そして、件のシェップとの共演、さらにロフト・ジャズ・シーンとの関わり、オーネット・コールマンやカサンドラ・ウィルソンとの出会い…と続き、今回の初ソロ・アルバム『コスチューム』へと至るわけである。
「ここでは、インプロヴィゼーションにおける特殊な音楽的書法を扱っている。即興的にアプローチする形式で、コードやスケールに基づかない、つまり音程やハーモニーを使って即興するという、とても自然な表現で、民俗音楽に由来するものだ。スキップ・スペンスがやってるようなこと、つまり“身振り(Gesture)”を使ったものなんだ。モダンな楽器を使っているんだけど、古いサウンド、空間を感じさせる響き…つまり、深さ、サイレンス、演奏についてのコンセプト、音楽と響きや音色の関係といったことを念頭に作曲した」ブランドン自身がそう説明する『コスチューム』は、リズムもコードもなく、音響空間がまるで雲のように刻一刻と流動的に形を変えてゆく、色彩感と浮遊感に富んだ実に不思議な作品である。ドビュッシーの音楽的ヴィジョンをジャズ的に展開した音響彫刻、といった印象を受ける一方、アフリカからデルタ・ブルーズ、シカゴ、ニューヨークへと至るグレイト・ブラック・ミュージックの流れが極点に達した即興音楽と言うこともできそうだ。また、過去、オリヴァー・レイクやキップ・ハンラハンの作品で少し試された自身のヴォーカルが初めて本格的に披露されていることも注目に値するだろう。
いずれにしても、黒人ジャズをミルク代わりにしつつも、ヨーロッパ文化に耽溺し、空想の世界で遊びながら成長していったブランドン・ロスにしか作れなかった、摩訶不思議でドリーミーな音楽である。
メディア掲載レビューほか
ギタリスト、ブランドン・ロスのアルバム。コードやスケールに基づかない演奏が魅力の1枚。 (C)RS