・内容。特記以外すべてベートーヴェン。
DISC1.
交響曲第3番(ロイヤル・コンセルトヘボウ管、1950年5月8日。)
交響曲第7番(同管、同年同月9日。)
DISC2.
交響曲第5番(ロイヤル・コンセルトヘボウ管、1953年9月26日。)
交響曲第6番(同管、同年同月28日。)
DISC3.
交響曲第3番(ウィーンフィル、1953年4月11日。)
フォン・ウェーバーの交響曲第1番ハ長調(ケルン放送響、1956年1月20日。)
DISC4.
交響曲第9番(ウィーンフィル、ギューデン、S.ワーグナー、デルモータ、L.ヴェーバー、ウィーン楽友協会合唱団、1952年6月。)
DISC5.
交響曲第6番(ロンドンフィル、1948年2月。)
モーツァルトの交響曲第40番(同フィル、1949年4月25日。)
DISC6.
モーツァルトの4つのドイツ舞曲と交響曲第39番(ケルン放送響、1956年1月20日。)
シューベルトの交響曲第9番ハ長調(同響、1953年11月23日。)
・「クライバー」なら「カルロス」、という国内の評論に長年すりこまれてきましたが、この集成は聴き込むほどに味わいがあり、今の私には
クライバーといえばまずこの父「エーリッヒ」の方です。
・2種ある「英雄」、この素晴らしさ。第1楽章の大詰め、楽譜の指示を無視してトランペットで主題を朗々と吹奏させる指揮者が多い中、ハッと
楽譜通りトランペットが掻き消える、極端な話この消滅感がなければこの曲はマッチョな吹奏楽に堕してしまうと思うのですが、往年の巨匠と
いわれる人々では私の知る限り、クライバー以外ではモントゥー(2種。奇しくもクライバーの2種とそれぞれ同じオケ)だけが指示通りです。
・第7番第2楽章の終結、弦はピツィカートで。これは自筆譜の独自な調査によるものだと付属の解説書にあり、それはカルロスに受け継がれたほかは
知る限りクレンペラーだけがそうしています。最初はえっと思いましたが、ここはピツィカートでないと名残惜しげな感傷味が出てしまうと思うように
なりました。
・いずれをとっても持って回った感傷を忌避したダンディズムというかハードボイルドさが素晴らしく、曲をして前に出させよ、演奏者はそのために
いる、という単純明晰な原則が徹底的に貫かれている感。その意味で第9番ニ短調は四半世紀いろいろ聴いてきた私の知る限りで最高ランクです。
どうしてもこの前年のフルトヴェングラー/バイロイト盤に納得できないでいた私の渇に清水をくれました。とはいえそれはすぐにではなく、
じわじわと、私の場合まる4年かかりました。一目ぼれならぬ「ひと聴きぼれ」でも長続きするものは確かにありますが、そうではなかったのにだんだん
沁みてきたもの、これを退けることはおそらくもうないです。終生傾聴することになるでしょう。聴くのは数年に1回でもそばにあることが大切です。
このような精神の至宝は。
・ステレオ録音ではないゆえヴァイオリンの両翼配置の醍醐味が聴き取れないのは無念ですがモノラルとしては驚異的な分離感ではないでしょうか。
第9の独唱者の声部の絡みもはっきり聴き取れます。歌劇での軽い声ではなく、抽象的な「人の声」になりきった最高の意味でプロの仕事ぶり。
冷静な熱気というべきオーラが独唱・合唱・オケすべてに感じられ、真摯な緊張感がどの録音からも伝わってきます。
・「レコード芸術」誌2005年8月号で、このセットに関する松沢氏の評は、あまりにも私の見解と異なる部分があり、かくも違った意見を他人はもつ
のだというごくあたりまえな事実の最たる証として、今も切り取って解説書にはさんでいます。「お座なり」や「しらける」といった印象ほどこれらの
録音に縁遠い言葉はないと私は思いますが。浅里公三氏の付属解説書はクライバーの人生と遺産について見事にまとめられたもので必読ものです。
・このセット所収の1956年1月20日付(死の7日前)の演奏はクライバー最期の演奏会実況録音になります。最期まで若々しく潔癖な、しかし小さく
まとまりなどつけない清しい熱気を刻んでいます。