白黒&フィルム撮りの硬質な映像から遅くとも1970年代初めの作かと思いきや、何と1996年製作と云うのにビックリする。オールド・エイジのムードをモノクロで、という手はよくあるけれど、これほどリアルに古色を感じさせた作品は初めて。やっぱり映画撮影はフィルムに限る、と思った次第。加えて、都会のマンションの一室を舞台に倦怠期の夫婦がサヤ当て&仲直りのホーム・コメディとは昔のハリウッド映画で何度観せられたか分からないほどの筋立てで、従ってヤセぎすで眼も口も大きな妻はどうしてもキャサリン・ヘップバーン、身なりも恰幅もいいけれどイマイチぼんやりした夫はジーン・ロックハートあたりが重なってニヤニヤしてしまう。
作曲者の奥さんが書いたという台本は可もなく不可もなし。ところどころでクスリとさせないこともない―「とんだ『ラインの黄金』だ!」―けれど、ここぞという見せ場・ヤマ場まで導いていく作劇の洗練にはやや欠けるようで、全体に淡々と始まって淡々と終わる印象。夫婦の和解の二重唱、続いて子供の無邪気な一言でチョンと幕切れというあたりは『薔薇の騎士』を連想させなくもなく、もしかしてオペラのリブレットなんてどれもこんなもの、全体を支え運ぶのは筋ではなくやっぱり音楽なのかと思ったりする。
肝心のその音楽、十二音技法で喜歌劇をと云う大胆以上に無謀な試み、やはり題材との相性の悪さは如何ともし難く、亭主と女房の痴話ゲンカの背景に鳴るのが『ワルシャワの生き残り』その他のアレなのだから、映像のレトロっぽさと相俟って、知らずに聴いたらロイ・ウェッブかフランツ・ワックスマンのホラー・スコアと錯覚しそう。笑いの小道具に音楽も目いっぱい活用するメル・ブルックスやザッカー兄弟&エイブラハムズの諸作がふと脳裏をよぎりもするが、シニカルな異化効果を狙ったあちらとは違い、こちらは飽くまで大マジメ(『ワルキューレ』の引用はちょっと笑っちゃいましたが)。
「人生をアップで撮れば悲劇に、ロングで撮れば喜劇になる」とはチャップリンの言だが、笑いと云うものが多かれ少なかれ冷淡・酷薄の裏返しなのはベルグソンその他を引くまでもなく、今観て笑っている喜劇の主人公がもし自分自身や家族、親しい友人だったらと想像すればスッと冷めて笑い事ではなくなるはずで、このあたり、『男はつらいよ』で身内の面々が寅さんを「バカだねえ」とさんざん笑いものにする中、妹のふと漏らす「でも、よく考えたらお兄ちゃんもかわいそうよね…」で一同はっとしてシュンとなる、あの呼吸が絶妙に示しているわけだが、本作のように劇伴が調性というフィルターを外して極端に自律的になり、それがまたワーグナー流に劇進行から台詞の端々にまでコメントや意味付け・性格付けを行うとなれば、その余りに生々しい表出性、登場人物に密着し過ぎてその心理の内奥まで隈なく抉り出してしまうような身も蓋もなさが笑いに不可欠な彼我の距離感や客観性―『マイスタージンガー』ではバッハ風のポリフォニー、『薔薇の騎士』ではウィンナ・ワルツがその機能を担う―を消し去って笑うべきところで笑えない、これはもう作曲者のコメディ・センスの致命的な欠如。この種の音楽、食わず嫌いせずに何度か無心に聴いていれば音列の操作や構造・表情など徐々に掴めてくるものだが、悲劇は何度観ても泣けるけれど、喜劇は二度、三度と繰り返して観るとあまり可笑しくなくなると云うこれまた法則のようなものを思うと、やはりそもそもの企画段階から大きなカン違いであったとしか。
加えて上記の幕切れも、二重唱から所謂シュプレッヒゲザング、最後は子役の素の台詞と歌唱表現の手段を一つ一つ放棄していくあたり、この音楽にはハッピー・エンド=無事に安全地帯に着陸したと云う感覚を設けることがムリと悟ったシェーンベルクのヤケクソになった顔がちょっと想像されなくもない。1920年代ドイツはワイマール文化華やかなりし頃のモダニズム風刺―ケストナーに通じる、と言っていいかも―と云う目論見はいいけれど、肝心の自分の新音楽もいつの間にか自分で否定してしまったようなこの結末、ストラヴィンスキーやヒンデミットとは違ってオレの音楽は「モダン」じゃない!歴史の必然なのだ!と言い張って止まない音楽進化論の徒の陥った矛盾と皮肉は、ある意味音楽史の貴重な遺物で映像化の意義は却って大きい。日本で上演されたことはないだろう…と思っていたら、早や1974年、シェーンベルクの生誕100年記念の一環で東京室内歌劇場が行っているそう。和服や畳部屋も登場、最後の台詞は日本語とヒネッた演出(by 栗山昌良)で、つい先日(2019/1/29)亡くなったテノール歌手、丹羽勝海も出演者の中に。
併録の『《映画の一場面のための伴奏音楽》入門』は、そもそもサイレント映画のための作曲だろうにシェーンベルクの手紙やブレヒトの発言の引用朗読が音楽の邪魔。それにヴェトナム空爆の映像などこれ見よがしで左巻き丸出しの演出が煩わしく、この監督夫婦の仕事に特段の興味がなければ楽しめるものではない、と思う。
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シェーンベルク 歌劇《今日から明日へ》(ストローブ=ユイレ コレクション) [DVD]
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フォーマット | ドルビー |
コントリビュータ | リシャード・カルチコフスキー, リチャード・ソルター, ジャン=マリー・ストローブ, クラウディア・バラインスキー, クリスティーン・ウィットルジー, ダニエル・ユイレ, ミヒャエル・ギーレン |
言語 | ドイツ語 |
稼働時間 | 1 時間 18 分 |
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商品の説明
レビュー
〈歌劇 今日から明日へ〉監督・脚本・編集: ダニエル・ユイレ/ジャン=マリー・ストローブ 撮影: ウィリアム・ルプシャンスキ ミヒャエル・ギーレン指揮 フランクフルト放送交響楽団 出演: リチャード・サルター/クリスティーン・ウイットルシー/クラウディア・バランスキ/リシャルト・カルチコフスキ
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
登録情報
- アスペクト比 : 1.33:1
- 言語 : ドイツ語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4523215008679
- 監督 : ジャン=マリー・ストローブ, ダニエル・ユイレ
- メディア形式 : ドルビー
- 時間 : 1 時間 18 分
- 発売日 : 2006/4/22
- 出演 : リチャード・ソルター, クリスティーン・ウィットルジー, クラウディア・バラインスキー, リシャード・カルチコフスキー, ミヒャエル・ギーレン
- 字幕: : 日本語
- 言語 : ドイツ語 (Mono)
- 販売元 : 紀伊國屋書店
- ASIN : B0009OA5J8
- 原産国 : 日本
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 85,176位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 7,904位外国のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
星5つ中4.4つ
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2グローバルレーティング
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イメージ付きのレビュー
4 星
シェーンベルクの『アダム氏とマダム』
白黒&フィルム撮りの硬質な映像から遅くとも1970年代初めの作かと思いきや、何と1996年製作と云うのにビックリする。オールド・エイジのムードをモノクロで、という手はよくあるけれど、これほどリアルに古色を感じさせた作品は初めて。やっぱり映画撮影はフィルムに限る、と思った次第。加えて、都会のマンションの一室を舞台に倦怠期の夫婦がサヤ当て&仲直りのホーム・コメディとは昔のハリウッド映画で何度観せられたか分からないほどの筋立てで、従ってヤセぎすで眼も口も大きな妻はどうしてもキャサリン・ヘップバーン、身なりも恰幅もいいけれどイマイチぼんやりした夫はジーン・ロックハートあたりが重なってニヤニヤしてしまう。 作曲者の奥さんが書いたという台本は可もなく不可もなし。ところどころでクスリとさせないこともない―「とんだ『ラインの黄金』だ!」―けれど、ここぞという見せ場・ヤマ場まで導いていく作劇の洗練にはやや欠けるようで、全体に淡々と始まって淡々と終わる印象。夫婦の和解の二重唱、続いて子供の無邪気な一言でチョンと幕切れというあたりは『薔薇の騎士』を連想させなくもなく、もしかしてオペラのリブレットなんてどれもこんなもの、全体を支え運ぶのは筋ではなくやっぱり音楽なのかと思ったりする。 肝心のその音楽、十二音技法で喜歌劇をと云う大胆以上に無謀な試み、やはり題材との相性の悪さは如何ともし難く、亭主と女房の痴話ゲンカの背景に鳴るのが『ワルシャワの生き残り』その他のアレなのだから、映像のレトロっぽさと相俟って、知らずに聴いたらロイ・ウェッブかフランツ・ワックスマンのホラー・スコアと錯覚しそう。笑いの小道具に音楽も目いっぱい活用するメル・ブルックスやザッカー兄弟&エイブラハムズの諸作がふと脳裏をよぎりもするが、シニカルな異化効果を狙ったあちらとは違い、こちらは飽くまで大マジメ(『ワルキューレ』の引用はちょっと笑っちゃいましたが)。 「人生をアップで撮れば悲劇に、ロングで撮れば喜劇になる」とはチャップリンの言だが、笑いと云うものが多かれ少なかれ冷淡・酷薄の裏返しなのはベルグソンその他を引くまでもなく、今観て笑っている喜劇の主人公がもし自分自身や家族、親しい友人だったらと想像すればスッと冷めて笑い事ではなくなるはずで、このあたり、『男はつらいよ』で身内の面々が寅さんを「バカだねえ」とさんざん笑いものにする中、妹のふと漏らす「でも、よく考えたらお兄ちゃんもかわいそうよね…」で一同はっとしてシュンとなる、あの呼吸が絶妙に示しているわけだが、本作のように劇伴が調性というフィルターを外して極端に自律的になり、それがまたワーグナー流に劇進行から台詞の端々にまでコメントや意味付け・性格付けを行うとなれば、その余りに生々しい表出性、登場人物に密着し過ぎてその心理の内奥まで隈なく抉り出してしまうような身も蓋もなさが笑いに不可欠な彼我の距離感や客観性―『マイスタージンガー』ではバッハ風のポリフォニー、『薔薇の騎士』ではウィンナ・ワルツがその機能を担う―を消し去って笑うべきところで笑えない、これはもう作曲者のコメディ・センスの致命的な欠如。この種の音楽、食わず嫌いせずに何度か無心に聴いていれば音列の操作や構造・表情など徐々に掴めてくるものだが、悲劇は何度観ても泣けるけれど、喜劇は二度、三度と繰り返して観るとあまり可笑しくなくなると云うこれまた法則のようなものを思うと、やはりそもそもの企画段階から大きなカン違いであったとしか。 加えて上記の幕切れも、二重唱から所謂シュプレッヒゲザング、最後は子役の素の台詞と歌唱表現の手段を一つ一つ放棄していくあたり、この音楽にはハッピー・エンド=無事に安全地帯に着陸したと云う感覚を設けることがムリと悟ったシェーンベルクのヤケクソになった顔がちょっと想像されなくもない。1920年代ドイツはワイマール文化華やかなりし頃のモダニズム風刺―ケストナーに通じる、と言っていいかも―と云う目論見はいいけれど、肝心の自分の新音楽もいつの間にか自分で否定してしまったようなこの結末、ストラヴィンスキーやヒンデミットとは違ってオレの音楽は「モダン」じゃない!歴史の必然なのだ!と言い張って止まない音楽進化論の徒の陥った矛盾と皮肉は、ある意味音楽史の貴重な遺物で映像化の意義は却って大きい。日本で上演されたことはないだろう…と思っていたら、早や1974年、シェーンベルクの生誕100年記念の一環で東京室内歌劇場が行っているそう。和服や畳部屋も登場、最後の台詞は日本語とヒネッた演出(by 栗山昌良)で、つい先日(2019/1/29)亡くなったテノール歌手、丹羽勝海も出演者の中に。 併録の『《映画の一場面のための伴奏音楽》入門』は、そもそもサイレント映画のための作曲だろうにシェーンベルクの手紙やブレヒトの発言の引用朗読が音楽の邪魔。それにヴェトナム空爆の映像などこれ見よがしで左巻き丸出しの演出が煩わしく、この監督夫婦の仕事に特段の興味がなければ楽しめるものではない、と思う。
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2019年2月7日に日本でレビュー済み
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白黒&フィルム撮りの硬質な映像から遅くとも1970年代初めの作かと思いきや、何と1996年製作と云うのにビックリする。オールド・エイジのムードをモノクロで、という手はよくあるけれど、これほどリアルに古色を感じさせた作品は初めて。やっぱり映画撮影はフィルムに限る、と思った次第。加えて、都会のマンションの一室を舞台に倦怠期の夫婦がサヤ当て&仲直りのホーム・コメディとは昔のハリウッド映画で何度観せられたか分からないほどの筋立てで、従ってヤセぎすで眼も口も大きな妻はどうしてもキャサリン・ヘップバーン、身なりも恰幅もいいけれどイマイチぼんやりした夫はジーン・ロックハートあたりが重なってニヤニヤしてしまう。
作曲者の奥さんが書いたという台本は可もなく不可もなし。ところどころでクスリとさせないこともない―「とんだ『ラインの黄金』だ!」―けれど、ここぞという見せ場・ヤマ場まで導いていく作劇の洗練にはやや欠けるようで、全体に淡々と始まって淡々と終わる印象。夫婦の和解の二重唱、続いて子供の無邪気な一言でチョンと幕切れというあたりは『薔薇の騎士』を連想させなくもなく、もしかしてオペラのリブレットなんてどれもこんなもの、全体を支え運ぶのは筋ではなくやっぱり音楽なのかと思ったりする。
肝心のその音楽、十二音技法で喜歌劇をと云う大胆以上に無謀な試み、やはり題材との相性の悪さは如何ともし難く、亭主と女房の痴話ゲンカの背景に鳴るのが『ワルシャワの生き残り』その他のアレなのだから、映像のレトロっぽさと相俟って、知らずに聴いたらロイ・ウェッブかフランツ・ワックスマンのホラー・スコアと錯覚しそう。笑いの小道具に音楽も目いっぱい活用するメル・ブルックスやザッカー兄弟&エイブラハムズの諸作がふと脳裏をよぎりもするが、シニカルな異化効果を狙ったあちらとは違い、こちらは飽くまで大マジメ(『ワルキューレ』の引用はちょっと笑っちゃいましたが)。
「人生をアップで撮れば悲劇に、ロングで撮れば喜劇になる」とはチャップリンの言だが、笑いと云うものが多かれ少なかれ冷淡・酷薄の裏返しなのはベルグソンその他を引くまでもなく、今観て笑っている喜劇の主人公がもし自分自身や家族、親しい友人だったらと想像すればスッと冷めて笑い事ではなくなるはずで、このあたり、『男はつらいよ』で身内の面々が寅さんを「バカだねえ」とさんざん笑いものにする中、妹のふと漏らす「でも、よく考えたらお兄ちゃんもかわいそうよね…」で一同はっとしてシュンとなる、あの呼吸が絶妙に示しているわけだが、本作のように劇伴が調性というフィルターを外して極端に自律的になり、それがまたワーグナー流に劇進行から台詞の端々にまでコメントや意味付け・性格付けを行うとなれば、その余りに生々しい表出性、登場人物に密着し過ぎてその心理の内奥まで隈なく抉り出してしまうような身も蓋もなさが笑いに不可欠な彼我の距離感や客観性―『マイスタージンガー』ではバッハ風のポリフォニー、『薔薇の騎士』ではウィンナ・ワルツがその機能を担う―を消し去って笑うべきところで笑えない、これはもう作曲者のコメディ・センスの致命的な欠如。この種の音楽、食わず嫌いせずに何度か無心に聴いていれば音列の操作や構造・表情など徐々に掴めてくるものだが、悲劇は何度観ても泣けるけれど、喜劇は二度、三度と繰り返して観るとあまり可笑しくなくなると云うこれまた法則のようなものを思うと、やはりそもそもの企画段階から大きなカン違いであったとしか。
加えて上記の幕切れも、二重唱から所謂シュプレッヒゲザング、最後は子役の素の台詞と歌唱表現の手段を一つ一つ放棄していくあたり、この音楽にはハッピー・エンド=無事に安全地帯に着陸したと云う感覚を設けることがムリと悟ったシェーンベルクのヤケクソになった顔がちょっと想像されなくもない。1920年代ドイツはワイマール文化華やかなりし頃のモダニズム風刺―ケストナーに通じる、と言っていいかも―と云う目論見はいいけれど、肝心の自分の新音楽もいつの間にか自分で否定してしまったようなこの結末、ストラヴィンスキーやヒンデミットとは違ってオレの音楽は「モダン」じゃない!歴史の必然なのだ!と言い張って止まない音楽進化論の徒の陥った矛盾と皮肉は、ある意味音楽史の貴重な遺物で映像化の意義は却って大きい。日本で上演されたことはないだろう…と思っていたら、早や1974年、シェーンベルクの生誕100年記念の一環で東京室内歌劇場が行っているそう。和服や畳部屋も登場、最後の台詞は日本語とヒネッた演出(by 栗山昌良)で、つい先日(2019/1/29)亡くなったテノール歌手、丹羽勝海も出演者の中に。
併録の『《映画の一場面のための伴奏音楽》入門』は、そもそもサイレント映画のための作曲だろうにシェーンベルクの手紙やブレヒトの発言の引用朗読が音楽の邪魔。それにヴェトナム空爆の映像などこれ見よがしで左巻き丸出しの演出が煩わしく、この監督夫婦の仕事に特段の興味がなければ楽しめるものではない、と思う。
作曲者の奥さんが書いたという台本は可もなく不可もなし。ところどころでクスリとさせないこともない―「とんだ『ラインの黄金』だ!」―けれど、ここぞという見せ場・ヤマ場まで導いていく作劇の洗練にはやや欠けるようで、全体に淡々と始まって淡々と終わる印象。夫婦の和解の二重唱、続いて子供の無邪気な一言でチョンと幕切れというあたりは『薔薇の騎士』を連想させなくもなく、もしかしてオペラのリブレットなんてどれもこんなもの、全体を支え運ぶのは筋ではなくやっぱり音楽なのかと思ったりする。
肝心のその音楽、十二音技法で喜歌劇をと云う大胆以上に無謀な試み、やはり題材との相性の悪さは如何ともし難く、亭主と女房の痴話ゲンカの背景に鳴るのが『ワルシャワの生き残り』その他のアレなのだから、映像のレトロっぽさと相俟って、知らずに聴いたらロイ・ウェッブかフランツ・ワックスマンのホラー・スコアと錯覚しそう。笑いの小道具に音楽も目いっぱい活用するメル・ブルックスやザッカー兄弟&エイブラハムズの諸作がふと脳裏をよぎりもするが、シニカルな異化効果を狙ったあちらとは違い、こちらは飽くまで大マジメ(『ワルキューレ』の引用はちょっと笑っちゃいましたが)。
「人生をアップで撮れば悲劇に、ロングで撮れば喜劇になる」とはチャップリンの言だが、笑いと云うものが多かれ少なかれ冷淡・酷薄の裏返しなのはベルグソンその他を引くまでもなく、今観て笑っている喜劇の主人公がもし自分自身や家族、親しい友人だったらと想像すればスッと冷めて笑い事ではなくなるはずで、このあたり、『男はつらいよ』で身内の面々が寅さんを「バカだねえ」とさんざん笑いものにする中、妹のふと漏らす「でも、よく考えたらお兄ちゃんもかわいそうよね…」で一同はっとしてシュンとなる、あの呼吸が絶妙に示しているわけだが、本作のように劇伴が調性というフィルターを外して極端に自律的になり、それがまたワーグナー流に劇進行から台詞の端々にまでコメントや意味付け・性格付けを行うとなれば、その余りに生々しい表出性、登場人物に密着し過ぎてその心理の内奥まで隈なく抉り出してしまうような身も蓋もなさが笑いに不可欠な彼我の距離感や客観性―『マイスタージンガー』ではバッハ風のポリフォニー、『薔薇の騎士』ではウィンナ・ワルツがその機能を担う―を消し去って笑うべきところで笑えない、これはもう作曲者のコメディ・センスの致命的な欠如。この種の音楽、食わず嫌いせずに何度か無心に聴いていれば音列の操作や構造・表情など徐々に掴めてくるものだが、悲劇は何度観ても泣けるけれど、喜劇は二度、三度と繰り返して観るとあまり可笑しくなくなると云うこれまた法則のようなものを思うと、やはりそもそもの企画段階から大きなカン違いであったとしか。
加えて上記の幕切れも、二重唱から所謂シュプレッヒゲザング、最後は子役の素の台詞と歌唱表現の手段を一つ一つ放棄していくあたり、この音楽にはハッピー・エンド=無事に安全地帯に着陸したと云う感覚を設けることがムリと悟ったシェーンベルクのヤケクソになった顔がちょっと想像されなくもない。1920年代ドイツはワイマール文化華やかなりし頃のモダニズム風刺―ケストナーに通じる、と言っていいかも―と云う目論見はいいけれど、肝心の自分の新音楽もいつの間にか自分で否定してしまったようなこの結末、ストラヴィンスキーやヒンデミットとは違ってオレの音楽は「モダン」じゃない!歴史の必然なのだ!と言い張って止まない音楽進化論の徒の陥った矛盾と皮肉は、ある意味音楽史の貴重な遺物で映像化の意義は却って大きい。日本で上演されたことはないだろう…と思っていたら、早や1974年、シェーンベルクの生誕100年記念の一環で東京室内歌劇場が行っているそう。和服や畳部屋も登場、最後の台詞は日本語とヒネッた演出(by 栗山昌良)で、つい先日(2019/1/29)亡くなったテノール歌手、丹羽勝海も出演者の中に。
併録の『《映画の一場面のための伴奏音楽》入門』は、そもそもサイレント映画のための作曲だろうにシェーンベルクの手紙やブレヒトの発言の引用朗読が音楽の邪魔。それにヴェトナム空爆の映像などこれ見よがしで左巻き丸出しの演出が煩わしく、この監督夫婦の仕事に特段の興味がなければ楽しめるものではない、と思う。
このレビューの画像
2008年1月26日に日本でレビュー済み
ストローブ=ユイレの作品が続々とDVD化されているわけですが、驚きとともに感激もしています。
紀伊國屋という会社はすごいなぁって。
それで、プリントですが、これもまた非常に良い。
この作品はモノクロですが、すごく滑らかな映像で文句のつけようがありません。
ストローブ=ユイレのシリーズは全て満足のいくクォリティのプリントなので、見るたびに感心します。
それに、付属するブックレット、これがまた素晴らしい。
詳細にデータをまとめあげていて、一冊の本ですよ、これは。
一読の価値があります。
やっぱり紀伊國屋はすごい…(私は別に紀伊國屋の社員ではありません)。
シェーンベルクの歌劇を映像化したものだそうで。
この歌劇自体が上演されることは非常に機会が少ないらしく、なおかつストローブ=ユイレの作品もこれまで映像化されていなかったわけで。
当然私はこのDVDで初体験でした。
見てみて驚きました。
強靭な映像で。
とんでもない緊張感で最初から最後まで一気に見せます。
プリントのせいもあるかもしれませんが、すばらしく美しいモノクロ映像。
歌劇を「見詰める」視線が息苦しくもあるくらいです。
まさに全てに狂いがない感じ。
ストローブ=ユイレは、基本的に(役者的に)素人を使い、徹底的にリハーサルをして撮影に臨むそうです。
そこで厳格な画面構成も決まってくるんでしょう。
(そういえば、ブレッソンも素人を使いました。ストローブ=ユイレはブレッソンと小津と溝口を敬愛していたそうです。フレーミングは小津の影響が感じられるでしょうか)。
当然、カメラの位置から光のあてかたまで、完全に把握して撮影しているに違いありません。
そうです、そうなんです、全てがきっちりと計算されていて、妥協を許さない空気が流れています。
見るほうにも何か覚悟を決めることを要求するような空気。
この緊張感あふれる心地よい映像世界、体験してみて欲しいと思います。
ただ、普通の映画をリラックスして見る様にはならないので注意が必要ですけど。
ユイレが06年になくなりました。
もう新作が見ることができないのですね。
残念です。
紀伊國屋という会社はすごいなぁって。
それで、プリントですが、これもまた非常に良い。
この作品はモノクロですが、すごく滑らかな映像で文句のつけようがありません。
ストローブ=ユイレのシリーズは全て満足のいくクォリティのプリントなので、見るたびに感心します。
それに、付属するブックレット、これがまた素晴らしい。
詳細にデータをまとめあげていて、一冊の本ですよ、これは。
一読の価値があります。
やっぱり紀伊國屋はすごい…(私は別に紀伊國屋の社員ではありません)。
シェーンベルクの歌劇を映像化したものだそうで。
この歌劇自体が上演されることは非常に機会が少ないらしく、なおかつストローブ=ユイレの作品もこれまで映像化されていなかったわけで。
当然私はこのDVDで初体験でした。
見てみて驚きました。
強靭な映像で。
とんでもない緊張感で最初から最後まで一気に見せます。
プリントのせいもあるかもしれませんが、すばらしく美しいモノクロ映像。
歌劇を「見詰める」視線が息苦しくもあるくらいです。
まさに全てに狂いがない感じ。
ストローブ=ユイレは、基本的に(役者的に)素人を使い、徹底的にリハーサルをして撮影に臨むそうです。
そこで厳格な画面構成も決まってくるんでしょう。
(そういえば、ブレッソンも素人を使いました。ストローブ=ユイレはブレッソンと小津と溝口を敬愛していたそうです。フレーミングは小津の影響が感じられるでしょうか)。
当然、カメラの位置から光のあてかたまで、完全に把握して撮影しているに違いありません。
そうです、そうなんです、全てがきっちりと計算されていて、妥協を許さない空気が流れています。
見るほうにも何か覚悟を決めることを要求するような空気。
この緊張感あふれる心地よい映像世界、体験してみて欲しいと思います。
ただ、普通の映画をリラックスして見る様にはならないので注意が必要ですけど。
ユイレが06年になくなりました。
もう新作が見ることができないのですね。
残念です。