雁の寺 [DVD]
フォーマット | ドルビー, ワイドスクリーン, ブラック&ホワイト |
コントリビュータ | 川島雄三, 若尾文子, 木村功, 山茶花究, 三島雅夫, 水上勉 |
言語 | 日本語 |
稼働時間 | 1 時間 38 分 |
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商品の説明
Amazonより
直木賞を受賞した水上勉の同名小説を、川島雄三監督と若尾文子のコンビで映画化した、ミステリー風の愛欲ドラマ。京都の禅寺の僧堂・慈海は愛人・里子(若尾文子)と愛欲の日々を送っていた。慈海のもとには少年僧がおり、彼は厳しい修行を強いられている。次第に里子に思いを募らせる少年僧は、慈海に強い嫉妬を抱き、それがある事件を巻き起こす。
二度目の川島作品出演となる若尾文子が、いかにも生臭坊主といった風情の慈海との愛欲シーンを大胆に魅せており、そのしっとりとした佇まいは、古都を舞台にしたエロス文学と絶妙すぎるほどのマッチングを見せている。特筆すべきは村井博の、トリッキーと表現しても良いほどの撮影だ。冒頭のくみ取り便所から肥を運ぶ少年僧を便壺内から捉えたショットの衝撃。さらに岡本健一の手による照明の効果が、この人間関係の異常さを、確信犯的に強調しており出色。川島作品といえば横に移動するカメラ、個性豊かな登場人物たちが口角泡を立てんばかりのセリフの応酬が見物だが、本作では限られた空間を独自のアングルで捉え、キャラクターの内面を見つめている。その描写はまさに職人芸。(斉藤守彦)
レビュー
監督: 川島雄三 原作: 水上勉 出演: 若尾文子/木村功/高見国一/中村雁治郎
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
登録情報
- アスペクト比 : 2.35:1
- 言語 : 日本語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4988111281722
- 監督 : 川島雄三
- メディア形式 : ドルビー, ワイドスクリーン, ブラック&ホワイト
- 時間 : 1 時間 38 分
- 発売日 : 2005/9/23
- 出演 : 若尾文子, 木村功, 三島雅夫, 山茶花究
- 言語 : 日本語 (Mono)
- 販売元 : 角川映画
- ASIN : B000ALIZ5Q
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 160,712位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 7,308位日本のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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終始画面に目が釘付けになる作品です。
昭和初期、京の洛北 孤峯庵。里子(さとこ、若尾文子)を庇護していた絵師(二代目中村雁治郎)の死後、彼女は、彼の遺言でこの禅寺の「おっさん」(和尚さん)の慈海(三島雅夫)の庇護を受けることになった。実質は妾である。この禅寺には修行中の坊主がいて、名を慈念(高見國一)という。陰気な少年である。彼はことあるごとに慈海に修行の名の元、かなりこき使われる。彼にはある事情があり、ここより他生きる術も場所もない。肥え汲み、掃除、飯の支度、洗濯、風呂焚き・・。
いくつかの側面を持つ映画である。若尾サンは素晴らしい・・が個人的に一番に迫るのは、慈海との愛欲でもなく、己の出自と流転、仏の道のみならず人の道まではずしてしまう業と罪と暗澹たるどこまでも昏い慈念の情念である。生みの母への思いである。寄る辺ない、報われない人世への絶望である。雁の寺(がんのてら)と呼ばれるこの寺の襖絵が彼を苦しめ、そして欲したルーツを体現する。三島の「金閣寺」にも通じる重いテーマである。
若尾さんの慈念へのいささか筋の違う情けが、彼の行動のきっかけとなったのはいささか判然としない。つまり慈念の意図は、彼女も寺も乗っ取って・・などという生臭いものではなかった。おっさんへの憎悪・復讐だけでもない。昏い諦観と自暴自棄と「仏に使えるのもこんな人間だ」というような、世間への自嘲混じりの?優越感がないまぜになったものなのか・・。出自と温もりを求める気持ちと、「家も村も捨てた人間」として活きなければという気持ちのせめぎ合いに分裂しかけているようにも見える。
トンビが空を舞うシーンや鳴き声が幾度も出てくる。トンビの棲む樹には穴が、暗い壺がありますねん。そこには拾うてきた蛇や鼠や魚がグジョグジョ、グジョグジョしてますねん、というセリフに慈念の、やはり暗い穴のような闇を見る。慈念はトンビなのか、トンビに運ばれる鳥獣の骸なのか、樹なのか。彼は若狭(原作者水上の故郷でもある)の雪深い貧しい者だけが暮らす谷底の阿弥陀堂に遺棄されていた捨て子(ママ)なのである。貧しい夫婦(しかもその父は出奔)になんとか飢えない程度に育てられるが、育ての母に「口減らし」として京の寺で修行することになった。名を捨吉といった。捨て子だから捨吉なのである。実の父も母もわからない・・。慈念は里子にいくら優しく質されても頑として答えず、出自を知っているある和尚にも「絶対に私の過去を言わないでくれ」と、くどく頼む。ある雨の夜に和尚がいなくなった。慈念は「おっさんは雲水(修行)に出たようだ」と言うが・・。このあとの一連のシークエンスはヒッチコックのように、あるいはクルーゾーのようにサスペンスフルだ(特に「悪魔のような女」)。
若尾さんは小僧にシンパシーを持つだけの心根はある。あるが意識しない妖しく罪な女の性(さが)を持つ(「うちのもんみんな慈念はんにあげる」)。うなじ、腿、悪意なく慈念を結果として苦しめるのである。慈念は年頃一般の性への希求はあったが、彼はいわば里子の被害者(個人的には棚ボタですが・・)であり、好き嫌いはともかく唯一残されていた仏道に生きる自分の道すら汚れたと感じたのではないか。あるいは初めて優しくされた女性に母を見たのか。欲望を覚えたことの戸惑いか。とにかく交わりが慈念に最後の一押しをしたことは想像に難くない。
思えば、里子も父がいず、なんら資産も後ろ盾も技能もなく、女性であることを武器にして生きるしかなかったのであり、慈念と(程度は大きく異なるが)似通ったものを持つ、吹けば飛ぶよな2人であった。この時期の一部の女性の社会的地位の片りんも窺える。ただ本作は「おしん」とはしなかった(他意なしです)。不遇な境遇に「悲惨だね、可哀そう」という安易な感情移入を挟む余地はない。
息を飲む恐ろしき後半30分の後、慈念と里子の描写は「ブツッ」と音を立てて途切れるが、これが鮮烈で、現代(1960年頃)へのジャンプと相まって観客の想像を増幅する。「幕末太陽傳」ラストでは、主人公が江戸時代のセットから外に出て、撮影所内を超えて、さらに現在の町中に走り出すというのが原案だった(らしい)ことを思い出す。
襖絵の母子雁。母雁の部分が破り取られていたことの意味・・。冒頭とラスト(ここはカラー)の雁の襖絵。やはり本作は母を知らない子雁(少年)が母を求めたが与えられず、人世への絶望を描いていたものと感じる。
日本軽佻派を名乗り(wiki)、独自の喜劇・風俗映画、都会映画が比較的多かったことを思えば、本作は一見異色作に思える。川島監督は母を5歳のときに亡くし、その後は義母に育てられた。運動はまったく駄目だったが、成績優秀(wiki)。本作の慈念と重なる。監督はかなりの熱意を持ち、本作に取り組んだことが推察できる。俳優もホンも画も秀でている。
原作の水上は実際幼少期に口減らしとして、京都の瑞春院に送られ、小僧として働いていた。幼い水上は寺の仕事のほかに、子どもの洗濯など子守りをさせられていた。水上は二人に憎悪をつのらせていき、13歳のときに脱走したらしい(原作は未読だが他のエッセイで似た状況が書かれている)。襖の顛末といい、水上から仏教界への積年のしっぺ返しだったのかも知れない。仏教界からの反発が強く公開が難航した。
--------------------------------------------------------------------
主題ではないが、当時の京の仏教界の空気や風景も面白い。助演の山茶花究(うまい)、木村功、西村晃、菅井きん、小沢昭一(賛否あるが)も良い。陰鬱で説明を控えめにしている本作だが、村井博のカメラが凄い。モノクロの諧調。そして普通は置かない位置にカメラを置くアイデア(穴や押入れ・仏壇の中から外を映すアングル、仰角(時に真下から)・俯角の多用、アップとロング。抜群に素晴らしく賞賛しすぎということはない。
情にはまることなく画面に工夫を凝らして正攻法(ただしラストの時代いっき飛びは捻りがある)にどす黒い情念を正面から見据える川島監督の計算と胆力に降参するばかりである。
雁の寺、1962、日本, 大映東京 / 大映 ,劇場アスペクト比 2.35:1(大映スコープ)、97分, モノクロ(一部カラー)、モノラル, 35mm
-------------------------------------------------------------------------
傷、パラがときおり見受けられるが気にならならいレベル。滲み、甘味もほぼない。諧調もだいぶ出ている。満足できる画質。カラー部分がやや濃いが。音声はやや引っ込み気味でセリフが聞き取りにくい部分も。
リージョン2, NTSC
映像仕様は16:9(スコープ)、画面アスペクト比は2.35:1, 片面 ?層、97min. モノクロ
(一部カラー)音声:日本語、Mono、字幕:―
映像特典:スタッフ、キャスト(文字資料)
フォトライブラリー(16枚、撮影オフショット(モノクロ))
劇場予告編(2.35:1、本編とほぼ変わらぬ画質)
メインメニューあり、チャプターメニューあり
発売:大映ビデオ、販売:角川エンタテインメント、2007
関連キーワード:昭和、京都洛北、禅寺、小僧、妾、雁、トンビ、雪、若狭、雨、棺、土葬、襖絵、捨て子、年上の女性
関連作:
五番町夕霧楼 (水上勉原作、田坂 具隆監督、佐久間良子主演、1963)、同名原作(1962)
金閣炎上(水上勉ノンフクション、1979)
炎上(三島由紀夫原作、市川崑監督、市川雷蔵主演、1958)、原作(金閣寺、1956)
金閣寺(高林陽一監督、篠田三郎主演、1976)
連想作: 瘋癲老人日記、鍵
画質は下の画像より良いです。
昭和初期、京の洛北 孤峯庵。里子(さとこ、若尾文子)を庇護していた絵師(二代目中村雁治郎)の死後、彼女は、彼の遺言でこの禅寺の「おっさん」(和尚さん)の慈海(三島雅夫)の庇護を受けることになった。実質は妾である。この禅寺には修行中の坊主がいて、名を慈念(高見國一)という。陰気な少年である。彼はことあるごとに慈海に修行の名の元、かなりこき使われる。彼にはある事情があり、ここより他生きる術も場所もない。肥え汲み、掃除、飯の支度、洗濯、風呂焚き・・。
いくつかの側面を持つ映画である。若尾サンは素晴らしい・・が個人的に一番に迫るのは、慈海との愛欲でもなく、己の出自と流転、仏の道のみならず人の道まではずしてしまう業と罪と暗澹たるどこまでも昏い慈念の情念である。生みの母への思いである。寄る辺ない、報われない人世への絶望である。雁の寺(がんのてら)と呼ばれるこの寺の襖絵が彼を苦しめ、そして欲したルーツを体現する。三島の「金閣寺」にも通じる重いテーマである。
若尾さんの慈念へのいささか筋の違う情けが、彼の行動のきっかけとなったのはいささか判然としない。つまり慈念の意図は、彼女も寺も乗っ取って・・などという生臭いものではなかった。おっさんへの憎悪・復讐だけでもない。昏い諦観と自暴自棄と「仏に使えるのもこんな人間だ」というような、世間への自嘲混じりの?優越感がないまぜになったものなのか・・。出自と温もりを求める気持ちと、「家も村も捨てた人間」として活きなければという気持ちのせめぎ合いに分裂しかけているようにも見える。
トンビが空を舞うシーンや鳴き声が幾度も出てくる。トンビの棲む樹には穴が、暗い壺がありますねん。そこには拾うてきた蛇や鼠や魚がグジョグジョ、グジョグジョしてますねん、というセリフに慈念の、やはり暗い穴のような闇を見る。慈念はトンビなのか、トンビに運ばれる鳥獣の骸なのか、樹なのか。彼は若狭(原作者水上の故郷でもある)の雪深い貧しい者だけが暮らす谷底の阿弥陀堂に遺棄されていた捨て子(ママ)なのである。貧しい夫婦(しかもその父は出奔)になんとか飢えない程度に育てられるが、育ての母に「口減らし」として京の寺で修行することになった。名を捨吉といった。捨て子だから捨吉なのである。実の父も母もわからない・・。慈念は里子にいくら優しく質されても頑として答えず、出自を知っているある和尚にも「絶対に私の過去を言わないでくれ」と、くどく頼む。ある雨の夜に和尚がいなくなった。慈念は「おっさんは雲水(修行)に出たようだ」と言うが・・。このあとの一連のシークエンスはヒッチコックのように、あるいはクルーゾーのようにサスペンスフルだ(特に「悪魔のような女」)。
若尾さんは小僧にシンパシーを持つだけの心根はある。あるが意識しない妖しく罪な女の性(さが)を持つ(「うちのもんみんな慈念はんにあげる」)。うなじ、腿、悪意なく慈念を結果として苦しめるのである。慈念は年頃一般の性への希求はあったが、彼はいわば里子の被害者(個人的には棚ボタですが・・)であり、好き嫌いはともかく唯一残されていた仏道に生きる自分の道すら汚れたと感じたのではないか。あるいは初めて優しくされた女性に母を見たのか。欲望を覚えたことの戸惑いか。とにかく交わりが慈念に最後の一押しをしたことは想像に難くない。
思えば、里子も父がいず、なんら資産も後ろ盾も技能もなく、女性であることを武器にして生きるしかなかったのであり、慈念と(程度は大きく異なるが)似通ったものを持つ、吹けば飛ぶよな2人であった。この時期の一部の女性の社会的地位の片りんも窺える。ただ本作は「おしん」とはしなかった(他意なしです)。不遇な境遇に「悲惨だね、可哀そう」という安易な感情移入を挟む余地はない。
息を飲む恐ろしき後半30分の後、慈念と里子の描写は「ブツッ」と音を立てて途切れるが、これが鮮烈で、現代(1960年頃)へのジャンプと相まって観客の想像を増幅する。「幕末太陽傳」ラストでは、主人公が江戸時代のセットから外に出て、撮影所内を超えて、さらに現在の町中に走り出すというのが原案だった(らしい)ことを思い出す。
襖絵の母子雁。母雁の部分が破り取られていたことの意味・・。冒頭とラスト(ここはカラー)の雁の襖絵。やはり本作は母を知らない子雁(少年)が母を求めたが与えられず、人世への絶望を描いていたものと感じる。
日本軽佻派を名乗り(wiki)、独自の喜劇・風俗映画、都会映画が比較的多かったことを思えば、本作は一見異色作に思える。川島監督は母を5歳のときに亡くし、その後は義母に育てられた。運動はまったく駄目だったが、成績優秀(wiki)。本作の慈念と重なる。監督はかなりの熱意を持ち、本作に取り組んだことが推察できる。俳優もホンも画も秀でている。
原作の水上は実際幼少期に口減らしとして、京都の瑞春院に送られ、小僧として働いていた。幼い水上は寺の仕事のほかに、子どもの洗濯など子守りをさせられていた。水上は二人に憎悪をつのらせていき、13歳のときに脱走したらしい(原作は未読だが他のエッセイで似た状況が書かれている)。襖の顛末といい、水上から仏教界への積年のしっぺ返しだったのかも知れない。仏教界からの反発が強く公開が難航した。
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主題ではないが、当時の京の仏教界の空気や風景も面白い。助演の山茶花究(うまい)、木村功、西村晃、菅井きん、小沢昭一(賛否あるが)も良い。陰鬱で説明を控えめにしている本作だが、村井博のカメラが凄い。モノクロの諧調。そして普通は置かない位置にカメラを置くアイデア(穴や押入れ・仏壇の中から外を映すアングル、仰角(時に真下から)・俯角の多用、アップとロング。抜群に素晴らしく賞賛しすぎということはない。
情にはまることなく画面に工夫を凝らして正攻法(ただしラストの時代いっき飛びは捻りがある)にどす黒い情念を正面から見据える川島監督の計算と胆力に降参するばかりである。
雁の寺、1962、日本, 大映東京 / 大映 ,劇場アスペクト比 2.35:1(大映スコープ)、97分, モノクロ(一部カラー)、モノラル, 35mm
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傷、パラがときおり見受けられるが気にならならいレベル。滲み、甘味もほぼない。諧調もだいぶ出ている。満足できる画質。カラー部分がやや濃いが。音声はやや引っ込み気味でセリフが聞き取りにくい部分も。
リージョン2, NTSC
映像仕様は16:9(スコープ)、画面アスペクト比は2.35:1, 片面 ?層、97min. モノクロ
(一部カラー)音声:日本語、Mono、字幕:―
映像特典:スタッフ、キャスト(文字資料)
フォトライブラリー(16枚、撮影オフショット(モノクロ))
劇場予告編(2.35:1、本編とほぼ変わらぬ画質)
メインメニューあり、チャプターメニューあり
発売:大映ビデオ、販売:角川エンタテインメント、2007
関連キーワード:昭和、京都洛北、禅寺、小僧、妾、雁、トンビ、雪、若狭、雨、棺、土葬、襖絵、捨て子、年上の女性
関連作:
五番町夕霧楼 (水上勉原作、田坂 具隆監督、佐久間良子主演、1963)、同名原作(1962)
金閣炎上(水上勉ノンフクション、1979)
炎上(三島由紀夫原作、市川崑監督、市川雷蔵主演、1958)、原作(金閣寺、1956)
金閣寺(高林陽一監督、篠田三郎主演、1976)
連想作: 瘋癲老人日記、鍵
画質は下の画像より良いです。
非常にドキドキしながら鑑賞しました。
映画の作りに関しては、他のレビューにある通り非常によくできています。
若尾文子も、彼女にしかできない難しい役をよく演じています。
しかし、彼女のもう一つの特徴である「生命力」、「突き抜けた言動」というのが弱く(まあ原作ありきなので仕方がないですが)、
単なる「環境の一部」としてしか描かれていないのがもったいないと思いました。
「エロ」の定義は人様々なので、この映画の若尾文子がエロいという見方は否定しません。
しかし私は、エロというのは「生命力」や「気力」にリンクしているものだと思うので、
それがよく表現されている「清作の妻」や「赤い天使」の若尾文子の方がエロく感じます。
物語は岸本南嶽(中村雁治郎)が北見慈海(三島雅夫)が住職を務める弧峯庵で、雁の襖絵を描いているシーンから始まります(冒頭のこの部分はカラー)。慈海のもとでは若狭の貧しい寺大工の倅として育った慈念(高見国一)が見習い僧として厳しい生活を送っています。場面は一転して、南嶽の臨終の場面に移ります。南嶽には妾の里子(若尾文子)がいましたが、その世話を慈海にたくしなくなっていきます。そして、初七日の日に弧峯庵に現れた里子は、慈海に身を任せ、そのまま愛人として寺に住みつきます。寺では、慈海は慈念に対して、少しの粗相でも烈しい折檻をしますが、慈念はそんな仕打ちに対してもじっと耐えています。里子は、慈念の出生の秘密を知り、慈念に対し同情を覚え、体を与えてしまいます。しかし、愛欲に充ちた慈海の生活、そして、どうにもならない自身の境遇を嘆いた慈念は遂に・・・
川島監督の映画にしては非常に暗い、シリアスな問題を取り扱った映画です(おそらく一番暗いのではないかな?)。慈念が慈海の横暴に対し反抗できないのは、慈念の出生(乞食谷に捨てられた子供)にあって、帰るべき故郷がないからです。いやないというよりも触れられたくない故郷というべきでしょう!それ反し、里子には貧しいながら故郷があり、母親もいます。そんな暗い情念が、このような悲劇的結末を生み出すわけです。
本作は冒頭と終末部分のみがカラーのパートカラー作品です(大蔵映画のそれとは意味合いが違います)。また、和式便所の下から見上げるようなショット、墓穴の中から見上げるようなショット、のような印象的なショットもかなり含まれています。そして、音楽の使い方も上手い、当然、小沢昭一、山茶花究、等の川島組も持ち味を発揮し、好演しています。暗い映画ですが、川島らしいシニカルなユーモアも随所に出てきます。母の雁が切り取られたシーン、そして、それが修復されて俗物たちの観光スポットになっているラスト・シーンの対比の鮮やかさ!川島監督の神髄を見せつけられるようです!