内田光子のBeethovenソナタ第一弾は評価の難しい演奏だ。
ピアノソナタの最高峰に位置する奇跡的な三曲に対して内田は自らの共感を出し惜しみせず存分に注いでいる。
とは言ってもテンポを無責任に崩すといった主情的な演奏ではなく、彼女の共感は磨きぬかれた弱音とフレーズ間の「間」の取り方、
さらに絶妙なペダリングによる「響き」の制御に端的に現れている。
一方、このようなデリカシーが曲全体の流れを妨げていることも事実であり、一小節ごとに内田と感動を共有して聴き進めながら、
聴き終えると全体のフォルムが散漫になっている印象はぬぐえない。
とは言え、第31番のフーガ、第32番のアリエッタはその深遠さにおいて類を見ない演奏であり、内田の芸術性に改めて脱帽させられる。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番&第31番&第32番
¥1,300 ¥1,300 税込
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
曲目リスト
1 | ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109 第1楽章: Vivace,ma non troppo - Adagio espressivo |
2 | ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109 第2楽章: Prestissimo |
3 | ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109 第3楽章: Gesangvoll mit innigster Empfindung |
4 | ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 第1楽章: Moderato cantabile,molto espressivo |
5 | ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 第2楽章: Allegro molto |
6 | ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 第3楽章: Adagio,ma non troppo |
7 | ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 第3楽章: フーガ |
8 | ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111 第1楽章: Maestoso - Allegro con brio ed appassionato |
9 | ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111 第2楽章: Adagio molto semplice e cantabile |
商品の説明
メディア掲載レビューほか
ピアニスト、内田光子によるベートーヴェン最後の3曲のピアノ・ソナタを演奏した2005年録音盤。 (C)RS
登録情報
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 梱包サイズ : 14.09 x 12.63 x 1.37 cm; 80.32 g
- メーカー : ユニバーサル ミュージック クラシック
- EAN : 4988005415868
- 時間 : 1 時間 7 分
- レーベル : ユニバーサル ミュージック クラシック
- ASIN : B000CBNZ5O
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 318,503位ミュージック (ミュージックの売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2006年1月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2006年1月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
内田さんが近年力を入れているベートヴェンの後期ソナタ。内田さんのシューベルトのピアノソナタをイメージしていたので(起伏が激しく、強い性格を感じさせる演奏)、女性らしい演奏に驚いた。いわば、ベートーヴェンに恋をした女性の感じで弾いている。美しいと感じるとともにバックハウスの力強さとの差も感じる。力強くは無いが繊細で緻密、ひとつの形として所有したいCDだ。30番の一楽章は、スタインウェイではなく、ベーゼンドルファーだったらもっときれいに聞こえるのにと思う部分もあるが、ピアノ調律は、アマンさん、明るめでかわいい音にスタインウェイを調律しているので曲にもマッチしている。
2020年3月29日に日本でレビュー済み
Beethovenは、50歳を迎えた1820年から1822年に掛けて作品109、110、そして111の3つのソナタを書いてから、数々の名作を残した、最も多くの作品を書き上げた、この世界に戻ることはなかった。
この3つのソナタは、30番がホ長調(♯4つ)、31番が変イ長調(♭4つ)、そして32番がハ短調(♭3つ)、と言う記号の多い調性で書かれている。Beethovenでは、変イ長調のソナタは他にも第12番「葬送」があり、ハ短調の曲には何と言っても第5交響曲がある。
内田さんならば、もっと違った表現もできたかもしれない。けれども、粒の揃った音で、細やかな気配りがあり、すべての音がよく響く、最後の3つのピアノ・ソナタであった。
この3つのソナタは、30番がホ長調(♯4つ)、31番が変イ長調(♭4つ)、そして32番がハ短調(♭3つ)、と言う記号の多い調性で書かれている。Beethovenでは、変イ長調のソナタは他にも第12番「葬送」があり、ハ短調の曲には何と言っても第5交響曲がある。
内田さんならば、もっと違った表現もできたかもしれない。けれども、粒の揃った音で、細やかな気配りがあり、すべての音がよく響く、最後の3つのピアノ・ソナタであった。
2023年5月27日に日本でレビュー済み
2005年、イギリス「スネイプ・モルティングス・ホール」にて録音
内田光子さんというと、モーツァルトであり、シューベルトといった作曲家たちの演奏だろう。
その彼女がついにベートーヴェンに着手した。彼女自身が、自分は伝統的なベートーヴェン弾きでは
ないことは承知している。しかしこの3曲は、なんとしても弾きたいし、録音しておきたい曲だった。
ベートーヴェンの凄さは、交響曲、弦楽四重奏曲、協奏曲、ソナタなど、クラシック音楽の主要
ジャンルすべてで、もうこの先はないというところまで進み、最高の成果を残し、そこに自分の
刻印を押していること。
ピアノ・ソナタも例外ではなく、32曲で古典派クラシックの完成が成されている。内田さんは、
このアルバムで、「ベートーヴェンの後期」としてまとめられる3曲の構造と連関を分析し、演奏で
それを示している。彼女はそれをライナーノートに書いている。それを読みながら聴くと、「なるほど
この3曲はそういうことなのか」と納得できる。
いつもこれら3曲が、「どことなく似ていて、あまり区別がつかず、それでいて何か重大なことが
表現されている」という曖昧な感想しか持てなかった。
有名ピアニストの演奏を聞いてきたが、それらはベートーヴェンという強烈な作曲家による最後の
作品ということで、入魂の演奏になっているが、それは”表現”というものに偏ってしまっている。
グールドの演奏は、そういうもののひとつだろう。
それに対して内田さんの演奏は、「透明な構造体」のようで、今まで聴いてきた演奏とまったく違う。
ベートーヴェンらしさを意識してはいないが、それでいて「ベートーヴェンという作曲家、その人が、
くっきりと曲の中に立っている」。これら3曲の「関連と構造」を明確にし、その上で彼女らしい
ピアニズム、繊細にきらめく音色といった特徴が生きている。
作品110についての解説:「作品の中心となるリリシズムと厳格な対位法的思考の二元性が
一貫している。第1楽章は芳醇さと美しさで際立っている。第2楽章は他の楽章とまったく
性格が違う。和声配置は常に変化し、ベートーヴェンは『私は放蕩者』という歌を引用している。
終楽章はレチタティーヴォで始まり、”嘆きの歌”が続く。その後にこの上なく透明なフーガとなる」
「32番・作品111」の第2楽章で、突然曲調が変化するところも、”なんでこんな極端なことになる
のだろう”と釈然としなかったが、内田さんの解説を読み、演奏を聴き、了解した。
それによると、その部分は第3変奏で、「今日の耳には、ジャズかブギウギさえも思わせずにいられ
ない」。だけどそれは「冒頭の第一変奏から始まるのリズムの細分化を軸にした一連の変奏で、
諸動機の凝縮的なリズムの細分化」によって生み出されている」。
「次の変奏は、冒頭のアリエッタに戻るが、それは高音域の天上的なアラベスクとなる。続く間奏が
変ホ長調へ向かい、勢いを落として沈んでいくと、暗闇から第五変奏が立ち上ってくる。霊妙な
コーダは、トリルで運ばれ、最後の3小節で、ここまでの闘争の記憶が静寂の中に溶けてゆく」。
そしてこの言葉、「作品111は、ただ2つの楽章しかなく、当時そのことが関心を呼んだというが、
私にはこれこそが考えうる最も完璧で決定的な終わり方と思える」。
このアルバムのすべてを聴き終わり、最後の音が消えていくと、しばらく動けなかった。コンサート
ホールで彼女の3曲連続演奏をライブで聴いたのと同じだった。
内田さんは、「この3曲を一気に続けて弾くと、なにか途方もなく神秘的なものが現れる」と書いて
いる。ベートーヴェンはこれら3曲の8つの楽章と1つのフーガで、彼が経験した人生のすべてと、
感情と思いを表現し尽くしている。「なにか途方もなく神秘的」なのは、その表現が、きわめて
個人的でありながら、あまりに完璧だからだろう。
ジャケット写真は、ポートレイトの巨匠、リチャード・アヴェドンが撮影している。
内田光子さんというと、モーツァルトであり、シューベルトといった作曲家たちの演奏だろう。
その彼女がついにベートーヴェンに着手した。彼女自身が、自分は伝統的なベートーヴェン弾きでは
ないことは承知している。しかしこの3曲は、なんとしても弾きたいし、録音しておきたい曲だった。
ベートーヴェンの凄さは、交響曲、弦楽四重奏曲、協奏曲、ソナタなど、クラシック音楽の主要
ジャンルすべてで、もうこの先はないというところまで進み、最高の成果を残し、そこに自分の
刻印を押していること。
ピアノ・ソナタも例外ではなく、32曲で古典派クラシックの完成が成されている。内田さんは、
このアルバムで、「ベートーヴェンの後期」としてまとめられる3曲の構造と連関を分析し、演奏で
それを示している。彼女はそれをライナーノートに書いている。それを読みながら聴くと、「なるほど
この3曲はそういうことなのか」と納得できる。
いつもこれら3曲が、「どことなく似ていて、あまり区別がつかず、それでいて何か重大なことが
表現されている」という曖昧な感想しか持てなかった。
有名ピアニストの演奏を聞いてきたが、それらはベートーヴェンという強烈な作曲家による最後の
作品ということで、入魂の演奏になっているが、それは”表現”というものに偏ってしまっている。
グールドの演奏は、そういうもののひとつだろう。
それに対して内田さんの演奏は、「透明な構造体」のようで、今まで聴いてきた演奏とまったく違う。
ベートーヴェンらしさを意識してはいないが、それでいて「ベートーヴェンという作曲家、その人が、
くっきりと曲の中に立っている」。これら3曲の「関連と構造」を明確にし、その上で彼女らしい
ピアニズム、繊細にきらめく音色といった特徴が生きている。
作品110についての解説:「作品の中心となるリリシズムと厳格な対位法的思考の二元性が
一貫している。第1楽章は芳醇さと美しさで際立っている。第2楽章は他の楽章とまったく
性格が違う。和声配置は常に変化し、ベートーヴェンは『私は放蕩者』という歌を引用している。
終楽章はレチタティーヴォで始まり、”嘆きの歌”が続く。その後にこの上なく透明なフーガとなる」
「32番・作品111」の第2楽章で、突然曲調が変化するところも、”なんでこんな極端なことになる
のだろう”と釈然としなかったが、内田さんの解説を読み、演奏を聴き、了解した。
それによると、その部分は第3変奏で、「今日の耳には、ジャズかブギウギさえも思わせずにいられ
ない」。だけどそれは「冒頭の第一変奏から始まるのリズムの細分化を軸にした一連の変奏で、
諸動機の凝縮的なリズムの細分化」によって生み出されている」。
「次の変奏は、冒頭のアリエッタに戻るが、それは高音域の天上的なアラベスクとなる。続く間奏が
変ホ長調へ向かい、勢いを落として沈んでいくと、暗闇から第五変奏が立ち上ってくる。霊妙な
コーダは、トリルで運ばれ、最後の3小節で、ここまでの闘争の記憶が静寂の中に溶けてゆく」。
そしてこの言葉、「作品111は、ただ2つの楽章しかなく、当時そのことが関心を呼んだというが、
私にはこれこそが考えうる最も完璧で決定的な終わり方と思える」。
このアルバムのすべてを聴き終わり、最後の音が消えていくと、しばらく動けなかった。コンサート
ホールで彼女の3曲連続演奏をライブで聴いたのと同じだった。
内田さんは、「この3曲を一気に続けて弾くと、なにか途方もなく神秘的なものが現れる」と書いて
いる。ベートーヴェンはこれら3曲の8つの楽章と1つのフーガで、彼が経験した人生のすべてと、
感情と思いを表現し尽くしている。「なにか途方もなく神秘的」なのは、その表現が、きわめて
個人的でありながら、あまりに完璧だからだろう。
ジャケット写真は、ポートレイトの巨匠、リチャード・アヴェドンが撮影している。
2006年12月9日に日本でレビュー済み
今年のベスト・ディスクになる予定だった内田光子のベートーヴェン。しかも、最後の3つのソナタ。期待は大きかったし、名演は間違いないと信じていただけに、内田にしては意外な凡演だったので落胆した。
サントリーホールで同じ演目のコンサートを聴いたが、そこでは別世界が現出していた。おそらく生涯忘れられないライヴだろう。ライヴとディスクを比べるなと言われるかもしれないが、このディスクの演奏はそういう話とは異なるレヴェルのものだ。
本評はあくまで「内田光子」であるゆえの不評であって、他のピアニストならば十分に佳演として済ますことになろう。
まず、音楽が小さい。これらの作品、そして内田の音楽も本来もっと大きいはずだ。
そして、それと相即的に多くのパッセージにおいてテンポが速すぎると感じられた。
以上の2つが今回のディスクへの印象の大きな部分を占める。
たまたま同時期に購入したアファナシエフの同じ作品のディスク(若林工房発売)の方が、遥かに真摯で深い演奏であると思われた。もちろんアファナシエフの通例通り、テンポは異様に遅いと感じられる部分もある。しかし、それが恣意的であるとか、ハッタリだと思われるところはほとんどなかった。32番の最後、遥かなものへの飛翔と深遠へのまなざしが大きな音楽として実現されていた。
多くの人はそのように感じないのかもしれないが、内田光子への期待が余りに大きいゆえに、☆3つとする。バックハウスやシュナーベル以上の演奏を、内田からは求めたいゆえに。
サントリーホールで同じ演目のコンサートを聴いたが、そこでは別世界が現出していた。おそらく生涯忘れられないライヴだろう。ライヴとディスクを比べるなと言われるかもしれないが、このディスクの演奏はそういう話とは異なるレヴェルのものだ。
本評はあくまで「内田光子」であるゆえの不評であって、他のピアニストならば十分に佳演として済ますことになろう。
まず、音楽が小さい。これらの作品、そして内田の音楽も本来もっと大きいはずだ。
そして、それと相即的に多くのパッセージにおいてテンポが速すぎると感じられた。
以上の2つが今回のディスクへの印象の大きな部分を占める。
たまたま同時期に購入したアファナシエフの同じ作品のディスク(若林工房発売)の方が、遥かに真摯で深い演奏であると思われた。もちろんアファナシエフの通例通り、テンポは異様に遅いと感じられる部分もある。しかし、それが恣意的であるとか、ハッタリだと思われるところはほとんどなかった。32番の最後、遥かなものへの飛翔と深遠へのまなざしが大きな音楽として実現されていた。
多くの人はそのように感じないのかもしれないが、内田光子への期待が余りに大きいゆえに、☆3つとする。バックハウスやシュナーベル以上の演奏を、内田からは求めたいゆえに。
2009年6月4日に日本でレビュー済み
優しいとは
時に厳しいということ。
…ウチダさんにおしえてもらえてよかった。
時に厳しいということ。
…ウチダさんにおしえてもらえてよかった。
2006年3月1日に日本でレビュー済み
シューベルトのソナタ全集では息の詰まりそうな厳しい演奏も多かった内田さんですが、ベートーヴェンは少し様相が異なるようです。もちろんベートーヴェンのソナタなので闘争と融和(あるいは生と死)といった二項対立的な要素はきちんと表現されるのですが、全体的にカンタービレな表現が多く不思議な暖かさをかもし出します。
内田さん自身の解説が付いていて、そこにこのような演奏解釈に至ったヒントが書かれています。この3曲はセットで演奏することを前提に作曲され、主題動機の関連性がとても高いのです。この主題動機をどのように演奏するかピアニストによって解釈が分かれるのですが、内田さんはカンタービレに演奏することで動機の関連性を表現しています。
30番、31番の2楽章や32番1楽章の第一主題を、闘争的な衝動に任せて鍵盤を叩くように弾くピアニストが多いので、常々疑問に思っていました。内田さんの演奏はカンタービレといってもだらだら歌うのではありません。闘争的フレーズは決然としていますし、融和的フレーズは聖母のような慈愛を感じさせます。
さらに、楽譜の読みの深さがものすごいレベルです。延々と続く16分音符のアルペジョから次第に重いバスが響き、優しい旋律が浮かび上がり、濃密な音響が構築されていきます。そんな場面がたくさん描かれた、内田光子でなければ表現できない世界が堪能できる名演だと思います。
内田さん自身の解説が付いていて、そこにこのような演奏解釈に至ったヒントが書かれています。この3曲はセットで演奏することを前提に作曲され、主題動機の関連性がとても高いのです。この主題動機をどのように演奏するかピアニストによって解釈が分かれるのですが、内田さんはカンタービレに演奏することで動機の関連性を表現しています。
30番、31番の2楽章や32番1楽章の第一主題を、闘争的な衝動に任せて鍵盤を叩くように弾くピアニストが多いので、常々疑問に思っていました。内田さんの演奏はカンタービレといってもだらだら歌うのではありません。闘争的フレーズは決然としていますし、融和的フレーズは聖母のような慈愛を感じさせます。
さらに、楽譜の読みの深さがものすごいレベルです。延々と続く16分音符のアルペジョから次第に重いバスが響き、優しい旋律が浮かび上がり、濃密な音響が構築されていきます。そんな場面がたくさん描かれた、内田光子でなければ表現できない世界が堪能できる名演だと思います。
2006年1月22日に日本でレビュー済み
まさに完熟の名演だ。細かいパッセージにまで神経が、行き届いている
。それが、上辺だけのニュアンスづけではなく、デリカシーにあふれた上質の調べになっている。作品110のフーガ、111の第2楽章、ため息のつきっぱなしだ。演奏史上に残る名演ではなかろうか。
。それが、上辺だけのニュアンスづけではなく、デリカシーにあふれた上質の調べになっている。作品110のフーガ、111の第2楽章、ため息のつきっぱなしだ。演奏史上に残る名演ではなかろうか。