1963年4月、Van Gelder Studio録音 L:Blue Note P:Alfred Lion
ドイツ人らしく、原理主義傾向があるアルフレッド・ライオンは、ブルーノートのハードバップ路線を
決定づけたアート・ブレイキーとの出会いを重要視した。そしてブレイキーが目指す「アフリカ音楽
への遡行と同化」という流れにも共感し、理解者となる。その結果、マーケットとして成熟していない
民族音楽的なアルバムを連作していくことになる。
アート・ブレイキーは、アフリカン・アメリカンとしてジャズを推進する多くのミュージシャンの
中で、唯一、自らアフリカに赴き、そこで生活するということをしている。帰国後、彼のハード・
バップ路線が決定し、瀑布と言われる、独特のドラミングが完成する。彼は、純然たるジャズ
アルバムの制作に参加する一方、自らリーダーを務めるジャズ・メッセンジャーズでも、ソロ名義でも、
アフリカの要素を直接的に持ち込んだアルバム(曲)を録音し、発表する。
『Horace Shilver Trio - Sabu』(1952)、『ドラム組曲』(1957)、『Cu-Bop』(1957)、『オージー・
イン・リズム』(1957)、『ホリデイ・フォー・スキンズ』(1958)、『アフリカン・ビート』(1962)。
こうした実売を眼中に入れてないようなリリース攻勢は、”アルフレッド・ライオンの狂気”と言われた。
この最後の『アフリカン・ビート』で大きくフィーチャーされたのがソロモン・イロリだった。
アフリカ音楽への遡行とは言っても、ブレイキーが制作したアルバムは、かなり考えられたもので、
民族音楽色はそれほど強くはない。それらに比べて、イロリがリーダーとなった本作は、アフリカ
音楽そのものが収録されているように感じる。ブレイキーの場合は有名なジャズ・ミュージシャンで、
「自分が料理するアフリカ音楽」という意識も矜持もあった。しかしイロリの場合は、そうした看板や
力みとは無縁で、ストレートにアフリカ性を打ち出している。
収録曲はすべてイロリのオリジナル。一連のアルフレッド・ライオンがプロデュースしたアフリカ
音楽系アルバムの中で、最も聴いていて心地よく、何度でも楽しめる優れた内容で、後の「Mahalathini
& Mahotella Queens」に通じるポップさも持っている。