夭折の天才画家、ジョン・レノンの親友、そして5人目のビートルズ。
スチュアート・サトクリフの生涯を辿るドキュメンタリー。
1994年製作の映画『バック・ビート』の主人公として広くその名を知られるようになったスチュアート・サトクリフ。初期ビートルズのベーシストでありジョン・レノンのよきライバルであった彼は、ビートルズとしての栄光を捨て、天性の芸術的才能を伸ばすことを決意。明るい未来に向かって進み始めたはずだったのだが…。
また、スチュアートの恋人であり、初期ビートルズの姿をカメラに収めたドイツ人写真家アストリッド・キルヒャー。世界中に広まりブームとなったマッシュルームカットや襟なしジャケットというビートルズ・スタイルは彼女が生み出し、スチュアートを通してビートルズに取り入れられたものだった。
ビートルズの成功の陰に存在した、スチュアートとアストリッド。ビートルズのデビューを目前にして、わずか21歳でこの世を去った彼の姿を、そしてハンブルグ時代の初期ビートルズの姿を、恋人アストリッドを含む関係者のインタビューや写真、スチュアートが残した貴重な絵や日記を元に辿るドキュメンタリー。
【出演】 アストリッド・キルヒャー(恋人/写真家)、ポーリーン・サトクリフ(スチュアートの妹)、クラウス・フォアマン(アストリッドの恋人/デザイナー/ミュージシャン)、トニー・シェリダン(ミュージシャン)、アラン・ウィリアムズ(初期ビートルズのマネージャー)、ロッド・マレー(スチュアートのルームメイト)、ドナルド・カスピット(美術批評家)
[プロフィール]
●スチュアート・サトクリフ
1940年6月23日、スコットランド生まれ。通称スチュ。美術教師の母を持ち、持って生まれた絵の才能により周囲から将来を期待されていた。1956年にリヴァプール・カレッジ・オブ・アートへ入学、翌年入学してきたジョン・レノンと親友になる。1959年、展覧会に出展し絵が売れたお金でベースを買い、ビートルズとしての活動が始まる。1960年からスタートしたハンブルクへの巡業中、写真家アストリッド・キルヒャーと運命的に出会い、すぐさま恋に落ちた。出会いからわずか2カ月ほどで婚約。アストリッドや彼女を取り巻く環境のすべてに惹かれていったスチュアートは音楽活動をやめ、アートの道へと進むことを決意。しかしハンブルク・ステート・カレッジ・オブ・アート在学中の1961年末頃より原因不明の激しい頭痛に悩まされるようになり、一時的に記憶を失うまでに急速に悪化していった。1962年4月10日、アストリッドの腕の中で21歳の短い生涯を閉じる。ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」には彼への追悼の意を込めてハーモニカが取り入れられ、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットにはスチュアートの写真が残された。ビートルズでの彼の演奏は現在わずか1曲のみ残されている。『バック・ビート』公開時には全世界から再評価を受け、日本でも回顧展が開催された。
●アストリッド・キルヒャー
1938年5月20日、ハンブルク生まれ。美術学校で写真を学び、エディット・ピアフを聴きランボーやヴェルレーヌの詩を愛するインテリ学生としてハンブルクではスターのような存在だった。1960年、当時の恋人クラウス・フォアマンに連れられていったビートルズのライブでスチュアートに出会い、一目で恋に落ちる。メンバーと交流を深めて撮り始めたビートルズの写真は、初期のビートルズを写した貴重な資料となっている。スチュアートの悲劇的な死の後もメンバーとの交流は続き、デビュー後のビートルズも撮影している。彼女がビートルズ、とりわけジョン・レノンに与えた影響は大きく、ジョンの最初の妻シンシアが嫉妬するほどであったという。ビートルズのセカンドアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』に使用されたハーフ・シャドー(顔半分に光を当て、もう半分は陰にする)という手法はアストリッドが生み出したもの。また、クラウス・フォアマンは『リボルバー』のジャケットを手掛け、ジョンのプラスティック・オノ・バンドに参加したことで知られている。