20分程失われた部分が有るとの事だそうですが、全体の九割方はセリフの応酬で成り立つコメディタッチ、そして終盤急にサスペンスが発生し、最後にその落差を明かす独白により幕となる、溝口監督は長回しと言うイメージが有りますが、そこに山田五十鈴がビート刻むようなセリフが、作品全体のスピード感を上げていると感じました。「しょーもなっ」いやこんな言葉が戦前から使用されているとは。
祇園の姉妹、梅村蓉子と山田五十鈴は対照的な性格の様ですが、梅村は子供の頃から芸妓の世界にいて、自らが所属する世界に疑問を持たない、と言うかむしろ疑問を持つ事で生まれる不安を拒否している。山田は女学校を出て芸妓になり、自らが所属する世界を社会化した目で見ている。彼女のパースペクティヴでは彼女が所属する世界は男性の都合で成り立ち、自らの幸福は男性の意志で左右されている。男性の溝口からすれば、耳が痛い事を山田に言わせていると言う構図になります。これは最後に山田の独白の意味を明らかにすると感じます。最後に愛人に裏切られる梅村は沈黙をする、言葉を持たないから。この言葉を持たない事を強いる社会が有ると言う事を、ベッドの上で身動きが取れない山田が明らかにするのです。〈世間様〉とは拘束性を受け入れるためのイメージなのだと。
一方男性はどうでしょう。志賀迺家辨慶は倒産した店を出て、愛人の芸妓宅へ向かう、その姿を長回しで捉え続けます。店を出ると急に明るい昼間になりちょっと驚かされ、その移動を見事な構図と移動撮影で追うのですが、それは男性が移動する存在、社会的な行動範囲に自由度が有ると言う風に見えるのです。彼は作中何度か住む場所を変えますが、出て行く時の躊躇があまり無い様に思えます。残される女性に対する責任感みたいなものが薄いと言う風に。男性は家を出て女性に出迎えられる、そして家に帰る。それは進藤栄太郎にも言えて、彼らの様な中高年の男性が、芸妓の世界では影響力が大きい。ですが彼らは妻から軽蔑される存在で有る事は疑いようがない、進藤夫妻のシーンは完全にコメディであり、志賀迺家は遊び人的態度を崩さない軽さが有る。溝口はそうした存在を全否定も出来ないが、残酷さを隠そうともしていません。
山田五十鈴は男たちを手玉に取り続けます。システム上の秩序を逆手に取り、利益の流れを変化させようとするのです。ですが観客はいつか破綻がやって来るのを予感していて、その上で山田自身が魅力的で有る為最後の顛末に虚を突かれるのです。送迎の運転手が急にヤクザのような口調に変化する。そしてそれが騙した惨めな男の復讐であることを知るが、そこでも女性であることの運命を拒否する。自ら車を飛び降りたのだと。梅村蓉子は初めて自分の意志を示して、家を飛び出し愛人の下へ向かう。ですが妹の事故を知り外出した間に愛人は消えてしまう。この二人の迎える残酷な顛末はシステム上救いがない様に思えます。ですがこれは映画で、それを覗き見る男性の観客はどう感じても、後ろめたさは居座ろうとするのかも。