この作品は、正気の人間が精神病院で起きた殺人事件の犯人を病院に潜入し捜し出し、ピュリツァー賞を受賞しようという野望を持った男の悲劇の話であるが、その中身はアメリカの悲劇でもあった。
正気の人間が自分の妹(実は恋人)に対して愛情を抱いているという異常性から精神病院に入るという設定で、新聞記者である主人公は殺人事件のあった病院に潜り込む。
病院で殺人事件を目撃した3名の患者に近づき真相を究明しようとするが、この時の3名が特殊すぎる。自分が南北戦争時の少将と思い込んでいる男、大学で黒人差別にあったため自分を白人で黒人差別主義者と思い込んでいる男(アメリカでは1960年に黒人の大学入学の是非を争う裁判が行われた事実がある)、原子爆弾を作ることに関わったため幼児化してしまった男の3名だ。彼らはそれぞれアメリカの戦争と差別の歴史の代表者のように現れる。彼らに接触していく主人公が、徐々に精神を蝕まれていくのはアメリカ自体が精神を蝕む歴史を担っているともいえる。この辺が、フラー流の痛烈な社会批判なのかもしれない。
精神病院が単なる狂人の集まりのような描き方になっているところは、60年代の精神病院に対する社会認識の典型であるように思われ、時代としての限界はあるように思う。しかし、精神病院の廊下を遠近法を活かしたセットと背景画の合成で作り上げたところは、ユージン・ルーリーの美術と感服してしまうし、その廊下をうごめく患者たちのリアル感や患者たちが疾走シーンの躍動感は素晴らしい。
主人公がオペラを熱唱する肥満体の男に絡まれるシーンや色情狂の女たちに襲われるシーン(女性患者がみな色情狂という設定は無理があるが)はトラウマになりそうな強烈なインパクトがある。
ゴダールが「野蛮人による映画の傑作」と言わしめたのも納得できる作品だ。現代の映画には完全に欠落した作家精神が堪能できる作品であることは間違いない。