米長氏には、どんな消化試合でもそれが相手にとって重要な対局ならば、
全力をもって相手を打ち負かすという『行為の哲学』がある。
この気持ちがすでに80年代から、柳瀬尚紀氏との対話本で出版されている。
じつは、当時ではなにがよいのかよくわからなかった。
ただ、サブタイトルにある『<カン>が<読み>を超える』だけが
理由はよくわからないがなにやらずっとわからないけれど不思議な事を云うもんだなと。
将棋の棋士とは相手より先を読むのが商売でそれができてなんぼのはず。
それが<カン>を優位におくとは不思議なことを云うと。
最近になって同氏著(コンピュータ棋戦のすべてを語る)『われ敗れたり』を読んだ。
時代も過ぎたので同氏が女好きであり、金に強いことも知った。前立腺癌をわずらったこともきいた。
それでむかしのことを思い出した。
そしてまた、勝負に勝つためには、決定的なちがいが必要であるともきかされた。
30年前米長氏はとうぜん後年になってコンピュータと勝負することなど想像もしていない。
まして、電子回路に負けるとも。
一局の将棋が、一手一手の意味が一日一日の行動が、ものに対する行動が棋士の世界で繰り広げられ、
それが日常に投影される。 事業を始める。人と付き合う。 全てに反映される。
でも、読みではなくて<カン>なのだ。
そういった包括的な毎日を送るようになって、正しいことだけではすまされないような、
たとえば愛人を囲う(いきおいと集中力をもつ)ことが勝負を極めると正妻から告げられることが
当時から想像できようか。 目新しさはぜんぜんない。 普遍さもあまりない。
しかし中身がある。
当時の朝日出版社から発行されたLECTURE BOOKSのシリーズのなかでいまでも読む価値ある好著。
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