神功皇后摂政52年に百済が献じたと伝えられる七支刀は、実物が石上神宮に現存
している。刀身には表と裏に合計61文字の金象嵌が施されているが、剥落のため
読めない文字が多い。
泰□四年□月十□日丙午正陽造百練鋼七支刀□辟百兵宜供供侯王■■■■[作]
先世以来未有此刀 百済王世子奇生聖□ 故為倭王旨造 伝示後世
製作年について宮崎は通説化した晋の大(=泰)和四年(369年)説を斥け、南朝宋明帝
の泰始四年(468年)であるとする。泰始四年はわが国の雄略天皇12年にあたり、 倭
が宋に対して三韓に対する支配権を執拗に主張していた時代である。百済は 蓋鹵王
14年にあたるが、この年の直前蓋鹵王は王世子(後の文周王)を上佐平に任じて軍事
国政を一任した。七支刀の贈呈はその就任挨拶だったとすれば、本来ならば国王対
国王であるべき外交関係において王世子が倭国王に七支刀を献上した理由の説明が
つく。
表面最後の■■■■[作]であるが、ここに突如として裏面の王世子をさしおいて工
作人の名前が入るのは何とも不自然である。ここは吉祥句でなければ納まりが悪い。
最後の半欠けの字は作ではなく祥のはず。「永年大吉[祥]」とすれば当たらずとも
遠からず。
最後に「故為倭王旨造」であるが「旨」は倭王の実名ではありえない。なぜなら当
時の東亜における外交儀礼によれば、外交的文書においては対等の国家間では自ら
の実名も相手国君主の実名も決して名指しで名乗ることがなかった。百済王世子が
実名を名乗れば相手国を宗主国と認めたことになり、相手国王の実名を呼び捨てに
すれば相手国を朝貢国と認めたことになる。したがって旨は別の意味に解さなけれ
ばならない。
なお、七支刀の銘文は南朝宋が下賜用に造った元嘉刀に酷似している。元嘉三年
(426年) に造られた元嘉刀が百済王室に下賜された可能性はきわめて高い。
元嘉三年五月 丙午日 造 此 供官吏刀長四尺二寸服者宜侯王大吉羊
泰始四年五月十六日丙午正陽造百練鋼七支刀㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
宮崎は文献学的方法によってすべての欠字を埋め、誰が読んでも意味のわかる解を
示した。
泰始四年夏の中月なる五月、夏のうち最も夏なる日の十六日、火徳の旺んなる丙
午の日の正午の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器
の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福
祥あらんことを。
先代以来未だ此のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生まれながらにし
て聖徳があった。そこで倭王のためにはじめて造った。後世に伝示せんかな。
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謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本 (1983年) (中公新書) 新書
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