この本の冒頭50ページのミッシェル・フーコーと吉本隆明の対談「世界認識の方法」は、スレ違っているとか噛み合っていないという評価が多いものです。しかし、フーコーの以下の言葉ひとつでも、対談の内容は把握できるのではないでしょうか? 互いに相手に可能性を見出そうとするスタンスと、それとともに自らの立ち位置も振り返ってみるという思索の醍醐味にもあふれた対談だともいえそうです。
基本的な点で、
私は吉本さんのお考えに賛成です。
お考えに賛成というより、
とりわけてその留保の部分に賛成したいと思います。(P36)
(注:「留保」の部分というのは吉本隆明がフーコーに同意できないと伝えた部分のこと)
対談の基本的な構図は、たとえば共産党をめぐる評価に端的に現れています。
“ヨーロッパでキリスト教会以来の特別な存在である共産党”というフーコーの指摘と論考は鋭く、個人の意志が党の意志に収斂あるいは拘束されていく過程が、フーコーならではの手つきと認識で把握されていきます。そこでフーコーはマルクスやマルクス主義を否定しているのではなく、党や官僚という権力機構との結びつきを問題にします。そして“マルクスの言葉と結びついた権力の発現形態をシステマティックに検討する必要がある…”というのが吉本の問いに対するフーコーの解答であり主張になっています。しかし考えてみれば、この権力の発現形態への分析こそ吉本における共同幻想論であり、その全体を貫く思想であることは吉本の読者なら知るところでしょう。吉本がマルクスとマルクス主義を峻別したように、フーコーはマルクスとその政治的権力との結合を分けています。吉本は理念において、フーコーは現実においてという相異はありますが、両者ともマルクスそのものを否定しているのではなく、むしろ逆に何らかの可能性を見出そうとしてることが確認できます。
対談中フーコーは自らの代表作である『言葉と物』への吉本による読解の深さに感謝すると同時に、吉本の指摘に応じてこの著書への「ある種の後悔」を表明し、いまは「具体的な問題から出発」し「新たなる政治的イマジネーションを生じさせる」ことを目指したいと語っています。これはそのまま吉本の仕事(思索と著作)が目指しているものそのものと同じでもあるでしょう。
フーコーは吉本にとってのエグザンプルを語っており、吉本はフーコーの問題意識そのものを思索した…ともいえるスリリングが関係が対談に結実しているという見方さえできます。
フーコーのパラグラフでは確かに読みにくいおもむきがありますが、これは編集に負うところが多いものでは?とも思われます。対談の流れに実直であることは必要かもしれませんが、読者の理解を得るための工夫はもっとできたのではないでしょうか。いずれにせよ、吉本への理解度が、この対談そのものへの理解に比例するのは間違いなさそうで、そういった意味では読者そのものが試される本であり対談であるのかもしれません。そしてまた、この対談で提出された問題は、いまも糸口すら見つかっていないようなものである気がします。
吉本が共同幻想についての最後の思索をした、ハイイメージ論の資本論を援用した消費論では、現代社会の不安について「過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない」ことが根源にあるとしています。これはフーコーが欧州では教会以来の特別な存在である共産党が問われていない…と指摘したこととパラレルな面がありそうです。
フーコーのスタンスをニーチェ風にいうと…神は死んだが、新しい言葉がない…というのがニーチェから授かりさらに思索したフーコーの認識ではないでしょうか。ディスクールの死、新しいイマジネーションの貧困…フーコーは根源的な問題を吉本と共有できているという確信のもとに対談に臨んでいるように思えます。
異なるのは理念的か現実的か、日本か欧州か…という問題であり、そこには方法の問題がクローズアップされている…ということではないでしょうか? いずれにせよ世界認識という俯瞰からしか理解できない問題であるとしても、それこそ2名の思想の巨人の対談として、もっともマッチしたパフォーマンスだったと思いました。
はじめに書きましたが、この対談を「スレ違い、成り立っていない」という指摘があり、なかには「吉本隆明はフーコーに相手にされていない」というものもあります。これらの指摘が何かの参考になるとすれば、そういう指摘をする人自身が実は本書を読んでいなかったり、単に理解力・認識力が無い場合が少なくない…ということのようです。学問や思想の世界では、いまだに西欧コンプレックスがあるのかもしれませんが、本書を否定するようなタイプの人の言説では参考になるものもなく、単語の逐次変換と文法だけで文意が解ると考えているような人ばかりなので、そういった人を振り分けるリトマス試験紙として本書を巡る評価を観察するのも面白いかもしれません。
対談での通訳(蓮實重彦)による幻想の間違った翻訳(幻想をfantasmeと誤訳。文脈からillusionが適正)を批判した中田平氏は、その後共同幻想論を仏語に訳しパリまで届けました。また竹田青嗣氏のように、この対談の他フランス現代思想を代表するガタリやリオタール、ボードリヤールらとの討論などをみても、現代思想をはるかに凌駕する吉本隆明の可能性を指摘した人もいます。何よりもフーコー自身が吉本の指摘をすべて受け入れており、「言葉と物」のラジカルな再考を表明していて、フーコー研究の最大のポイントとなる対談でもあるハズです。
*吉本の共同幻想はマルクスの公的幻想(上部構造の別称)に由来することを勁草書房の吉本隆明全集での吉本自身の説明からいちばんはじめにネットに紹介したのは羊通信の2003/5/15版です。
↓
「K,Marxの「public-illusion」つータームが共同幻想と意訳されたらとたんに混乱してるワケ?」
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登録情報
- ASIN : B000J87T0M
- 出版社 : 中央公論社 (1980/6/1)
- 発売日 : 1980/6/1
- - : 193ページ
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
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2014年9月5日に日本でレビュー済み
2020年5月21日に日本でレビュー済み
すれ違っていないという意見があるが、すれ違ってはいると思う。
マルクス主義の誤用に問題を見出したい吉本と、マルクス主義よりも言葉の使い方から、権力の構造そのものに関心をもつフーコーではかみ合わなかったということだと思う。
日本人特有の「階級」や「意思」の理解はフーコーにも新鮮に映ったようなので、優劣の問題ではないと思う。
一方で、吉本の幻想の思想は伝わっていない感じもあり、異なる言語間での対話の難しさを感じさせる。
マルクス主義の誤用に問題を見出したい吉本と、マルクス主義よりも言葉の使い方から、権力の構造そのものに関心をもつフーコーではかみ合わなかったということだと思う。
日本人特有の「階級」や「意思」の理解はフーコーにも新鮮に映ったようなので、優劣の問題ではないと思う。
一方で、吉本の幻想の思想は伝わっていない感じもあり、異なる言語間での対話の難しさを感じさせる。
2012年9月21日に日本でレビュー済み
冒頭で、フーコーと吉本の対談が行われ、
その後は、その対談に関連する、3つの吉本に対するインタビューで構成されている。
その意味では、対談集、と言っていいだろう。
あとのインタビューでも本人が語っているが、フーコーとの対談は、論点が噛み合ず、
まるで、アントニオ猪木とモハメッド・アリの対戦のようだった。
果敢に、相手の喧嘩をふっかける吉本に対して、フーコーは、意外にも丁寧な大人の対応で、
慎重に、距離を取りながら、相手のパンチが届かない範囲で、自分の思想を語る、といった感じ。
後半のインタビュー記事を読むと、
吉本は、世界認識の方法については、そのほとんどを、ヘーゲルとマルクスから得ていることがわかり、興味深かった。
その後は、その対談に関連する、3つの吉本に対するインタビューで構成されている。
その意味では、対談集、と言っていいだろう。
あとのインタビューでも本人が語っているが、フーコーとの対談は、論点が噛み合ず、
まるで、アントニオ猪木とモハメッド・アリの対戦のようだった。
果敢に、相手の喧嘩をふっかける吉本に対して、フーコーは、意外にも丁寧な大人の対応で、
慎重に、距離を取りながら、相手のパンチが届かない範囲で、自分の思想を語る、といった感じ。
後半のインタビュー記事を読むと、
吉本は、世界認識の方法については、そのほとんどを、ヘーゲルとマルクスから得ていることがわかり、興味深かった。
2003年7月29日に日本でレビュー済み
フーコーは歴史の領域を「書かれたもの」に置く。書かれたものの分散した傾向のみが歴史であり、書かれたものの解釈は誤読の集積としてのみ意味を持つ。
書かれたもの以外に歴史は存在せず、それがその時点でのみ機能する図式を生み出す。
それは書かれたものとしての言語を操作する主体が欠けている。書かれたものとしての物質性、記録性から逃れたものは見えなくなる。
ただ書記の物質性の狭間に人間は存在し、身体は書かれた医学的まなざしや生物的、統計的書記として意味がある。
そして意識の場所は無い。フーコーの考古学とは、書記の変遷史なのだ。
こうして追放されたものは何なのか。フーコーによれば吉本が言語を帰着させようとする身体もすべてが吉本が引用する他に起源を'!''つインデックスとしての名(マルクス、三木、その他)の組み合わせに還元あるいは分析されるだろう。
さて、こうしてしまうと書記の物質性以外に実在は無くなる。個々人が自らを解釈する言語も何処か書かれたものに源泉を持つのだ。
吉本は意志論が介在せねばフーコーの図式は成り立たないとくいさがる。つまりヘーゲル・マルクス的な必然史が主体抜きの外在的な過程であるとして、偶然史を対置してもやはり主体抜きの外在史なのだ。「歴史という概念は、その時代のその瞬間ごとのすべての人(ヒト)の精神と身体の行動の総和としてはじめて成立する」(アフリカ的段階66頁)という視点からは、当然そうなる。吉本的にいえば、フーコーの言説史は指示表出的な面としての人文社会科学しか扱ってないこと'!''なる。
フーコーは世辞的にショーペンハウアー等を例に出しながら西欧で意志論の図式が機能しなかった貧しさを東洋の非凡さと比較する。
知識人の目標について、政治的イマジネーションをマルクス主義が貧困化させていることをフーコーは批判し、声なき声を代弁することを言い立てる。
フーコーは一元化された求心的な言説に対して分散を対置し、吉本は共同幻想に対する対幻想を対置する。
書かれたもの以外に歴史は存在せず、それがその時点でのみ機能する図式を生み出す。
それは書かれたものとしての言語を操作する主体が欠けている。書かれたものとしての物質性、記録性から逃れたものは見えなくなる。
ただ書記の物質性の狭間に人間は存在し、身体は書かれた医学的まなざしや生物的、統計的書記として意味がある。
そして意識の場所は無い。フーコーの考古学とは、書記の変遷史なのだ。
こうして追放されたものは何なのか。フーコーによれば吉本が言語を帰着させようとする身体もすべてが吉本が引用する他に起源を'!''つインデックスとしての名(マルクス、三木、その他)の組み合わせに還元あるいは分析されるだろう。
さて、こうしてしまうと書記の物質性以外に実在は無くなる。個々人が自らを解釈する言語も何処か書かれたものに源泉を持つのだ。
吉本は意志論が介在せねばフーコーの図式は成り立たないとくいさがる。つまりヘーゲル・マルクス的な必然史が主体抜きの外在的な過程であるとして、偶然史を対置してもやはり主体抜きの外在史なのだ。「歴史という概念は、その時代のその瞬間ごとのすべての人(ヒト)の精神と身体の行動の総和としてはじめて成立する」(アフリカ的段階66頁)という視点からは、当然そうなる。吉本的にいえば、フーコーの言説史は指示表出的な面としての人文社会科学しか扱ってないこと'!''なる。
フーコーは世辞的にショーペンハウアー等を例に出しながら西欧で意志論の図式が機能しなかった貧しさを東洋の非凡さと比較する。
知識人の目標について、政治的イマジネーションをマルクス主義が貧困化させていることをフーコーは批判し、声なき声を代弁することを言い立てる。
フーコーは一元化された求心的な言説に対して分散を対置し、吉本は共同幻想に対する対幻想を対置する。