宮崎市定氏の史記を語るは他の著作同様手固いものです。著者の語り口はこの本でも判りやすく、これは作者が作品を十分消化出来ている証拠です。
何を言っているか判らない様な左翼作家が時々現れるが、唯物史観に全てあてはめて解釈されるので、明快だが、単純で、意味不明の時が多い。
科挙や隋の煬帝でも文章が練れているから、我々素人にも良く判るのである。
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史記を語る (1979年) (岩波新書) 新書 – 1979/5/21
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年10月22日に日本でレビュー済み
空前絶後の碩学宮崎市定博士は都市国家時代の古代中国の人々はポリス時代のギリシャの市民と同じく自由市民だったと言います。春秋戦国時代を通じて都市国家は領域国家の中に吸収されていったが、都市市民の自由の精神は失われることなく存続した。そうした反権力的志向の自由市民たちが古代的な資本主義を発展させていった。中華統一の原動力はまさに資本の蓄積、商取引の拡大にあった。秦の強大化の背景には商人の財力があり(それゆえ商人出身者が宰相にまでなった呂布韋のような人物が現れました)、それゆえ秦の崩壊もまた利得欲しさだけで従う勢力の忠誠心の脆さのゆえだった。遊侠集団を率いた劉邦もまた妻の一族呂氏の築いた財を恃みとしていた。戦国末期にも自由市民の活力が社会を動かしていた。(ただ、非常に重要な主張なのでもっとしっかり論拠を示していただきたかった。星ひとつ減。)
しかし、戦国末期から次第に姿を現し始め、秦・漢による統一が確立した集権的な官僚制国家は自由市民の活力を圧殺して古代資本主義の発展を停滞させてしまった。統一の原動力だった商人は統一後はうって代わって国家から蔑視されて絹を着ることも車に乗ることも禁止され、官僚になることも禁止された。商人が稼いだ財貨は収奪された。それゆえ商人は貨幣を隠匿、市場から引き揚げたことで市場経済が活気を失った。中小の商人は弾圧される一方で、おそらくは官僚と結び付いた大商人は何ら制約を受けず市場を独占して市場経済の発展を阻害した。そうした大商人ですら武帝時代の外征政策に起因する国家財政の逼迫にともない利権を奪われる。(ただ、本書の説明だけでは統一帝国がなぜ商業を抑圧したのか理由が分からず、星ひとつ減。)
財を成したいと願う野心家たちは商人になるより収奪する側に回るほうが儲かるがゆえに競って官僚になろうとした。官僚層はその特権で得た財を土地の集積に投資し、その土地を小作人に貸して利得を得るようになった。その小作人たちが隷属化を強めていったことで中世荘園が成立したという見通しを宮崎博士は述べておられます。官僚層の跋扈、市場の停滞、貨幣の退蔵、土地集積への志向という因果連鎖の果てに古代中国の活力の源泉であった都市国家の性格は失われ、中国社会は停滞した封建的中世へと変化していってしまった。荘園の自給自足経済に基盤を得た各地の豪族の自律性が強まったことが三国時代到来の背景となった。
古代都市市民の自由の精神が圧殺されて抑圧的な集権国家へと従属していく歴史として古代中世転換を描く宮崎博士の独特な?史観の源泉はひとつにはマルクス主義とは違った意味ではあるが世界史的な普遍性というものへの信念だと解説者は述べてますが、本書中で宮崎博士自身が述べておられる『史記』に記された人々についての感想が信念の拠り所になっているように思われる。宮崎博士には『史記』に描かれた人々の自由で個性的な様相が後世の史書に描かれた人々には感じられないのだというのです。その由来こそ漢代になって失われた古代中国の都市国家的性格なのだと宮崎博士の天才は直観したわけでしょう。中国全時代の史料に通じている宮崎博士の見立てである。非常に重要な見解だと思う。
しかし、戦国末期から次第に姿を現し始め、秦・漢による統一が確立した集権的な官僚制国家は自由市民の活力を圧殺して古代資本主義の発展を停滞させてしまった。統一の原動力だった商人は統一後はうって代わって国家から蔑視されて絹を着ることも車に乗ることも禁止され、官僚になることも禁止された。商人が稼いだ財貨は収奪された。それゆえ商人は貨幣を隠匿、市場から引き揚げたことで市場経済が活気を失った。中小の商人は弾圧される一方で、おそらくは官僚と結び付いた大商人は何ら制約を受けず市場を独占して市場経済の発展を阻害した。そうした大商人ですら武帝時代の外征政策に起因する国家財政の逼迫にともない利権を奪われる。(ただ、本書の説明だけでは統一帝国がなぜ商業を抑圧したのか理由が分からず、星ひとつ減。)
財を成したいと願う野心家たちは商人になるより収奪する側に回るほうが儲かるがゆえに競って官僚になろうとした。官僚層はその特権で得た財を土地の集積に投資し、その土地を小作人に貸して利得を得るようになった。その小作人たちが隷属化を強めていったことで中世荘園が成立したという見通しを宮崎博士は述べておられます。官僚層の跋扈、市場の停滞、貨幣の退蔵、土地集積への志向という因果連鎖の果てに古代中国の活力の源泉であった都市国家の性格は失われ、中国社会は停滞した封建的中世へと変化していってしまった。荘園の自給自足経済に基盤を得た各地の豪族の自律性が強まったことが三国時代到来の背景となった。
古代都市市民の自由の精神が圧殺されて抑圧的な集権国家へと従属していく歴史として古代中世転換を描く宮崎博士の独特な?史観の源泉はひとつにはマルクス主義とは違った意味ではあるが世界史的な普遍性というものへの信念だと解説者は述べてますが、本書中で宮崎博士自身が述べておられる『史記』に記された人々についての感想が信念の拠り所になっているように思われる。宮崎博士には『史記』に描かれた人々の自由で個性的な様相が後世の史書に描かれた人々には感じられないのだというのです。その由来こそ漢代になって失われた古代中国の都市国家的性格なのだと宮崎博士の天才は直観したわけでしょう。中国全時代の史料に通じている宮崎博士の見立てである。非常に重要な見解だと思う。
2021年8月1日に日本でレビュー済み
日本の東洋史研究で最も有名な研究者である、宮崎市定先生の『史記』研究書です。
かなり大胆な見解も多いですが、特に学会の研究でも強く否定されたことはありません。
この書籍の『史記』に関する意見については、賛同するかどうかは別にして、一つの見解として頭にいれておけば、『史記』について考えるための参考になるでしょう。
ネットの書き込みでも引用されることがあり、現在でも強く支持する東洋史ファンは多いです。
かなり大胆な見解も多いですが、特に学会の研究でも強く否定されたことはありません。
この書籍の『史記』に関する意見については、賛同するかどうかは別にして、一つの見解として頭にいれておけば、『史記』について考えるための参考になるでしょう。
ネットの書き込みでも引用されることがあり、現在でも強く支持する東洋史ファンは多いです。
2014年1月6日に日本でレビュー済み
さすが碩学最晩年の著作だけあって、いぶし銀のような深みのある作品です。「春秋の筆法」と言いますが、それをまねるなら「史記の筆法」とでも言うべき、宮崎氏のとらえる起承転結を踏まえた司馬遷独特歴史の弁証法に基づき、『史記』の宇宙論的ともいうべき構造と力学が明快に解き明かされています。この「史記の筆法」こそが、以後数千年にわたる他の正史の読解にあたっても基本となるものであることは言うまでもありません。
しかし本書の魅力はそれだけではありません。こうした基本構造と力学のを背景に、古代中国社会が泰西のギリシア・ローマ文明圏にも勝るとも劣らぬ、自由な個性の横溢する活力あふれる社会であったことを解き明かしています(もっとも氏の知識不足による、マルクス主義階級史観に対する若干的外れな「批判」については???と疑問符をつけたいところもありますが)。司馬遼太郎がその『項羽と劉邦』に描き出した、古代中国社会のイメージのネタ本が宮崎古代中国学にあることを実感じました。
特に司馬遷が、その「自由」を最大限に発揮した人々に焦点を当てて叙述していることに対する、宮崎氏の「こだわり」ある強調には感動すら覚えます。ここに西洋からの借り物ではない、東洋独自の「自由」の躍動を実感することができるでしょう。面白かったのはこうした生き生きとした叙述の成立に、「二世皇帝と馬鹿の話」のような娼優による笑劇の筋書きが活用されているという指摘です。言われてはったと膝を打ちました。
ともあれ一応中国古代について、一般読書人としてそれなりの知識を持っていると、妙な自信を持っていた評者でしたが、この小著を読了した後にこれまでとは全く違う、そして自身の生きる糧(少し大げさかな)の一部となる、新たな中国古代像が生まれていることに驚いた次第です。学問の滋味をたっぷり味あわせてくれる、楽しくためになる本でした。
しかし本書の魅力はそれだけではありません。こうした基本構造と力学のを背景に、古代中国社会が泰西のギリシア・ローマ文明圏にも勝るとも劣らぬ、自由な個性の横溢する活力あふれる社会であったことを解き明かしています(もっとも氏の知識不足による、マルクス主義階級史観に対する若干的外れな「批判」については???と疑問符をつけたいところもありますが)。司馬遼太郎がその『項羽と劉邦』に描き出した、古代中国社会のイメージのネタ本が宮崎古代中国学にあることを実感じました。
特に司馬遷が、その「自由」を最大限に発揮した人々に焦点を当てて叙述していることに対する、宮崎氏の「こだわり」ある強調には感動すら覚えます。ここに西洋からの借り物ではない、東洋独自の「自由」の躍動を実感することができるでしょう。面白かったのはこうした生き生きとした叙述の成立に、「二世皇帝と馬鹿の話」のような娼優による笑劇の筋書きが活用されているという指摘です。言われてはったと膝を打ちました。
ともあれ一応中国古代について、一般読書人としてそれなりの知識を持っていると、妙な自信を持っていた評者でしたが、この小著を読了した後にこれまでとは全く違う、そして自身の生きる糧(少し大げさかな)の一部となる、新たな中国古代像が生まれていることに驚いた次第です。学問の滋味をたっぷり味あわせてくれる、楽しくためになる本でした。
2008年1月23日に日本でレビュー済み
史記は、言うまでもなく、中国古代史の根本史料であるが、これを額面どおり史実
と認めてよいかというといささか問題がある。司馬遷は、史記の記述に当たり、史
料の不足から、各地を巡回して口碑伝承の類を収集したが、宮崎によると、司馬遷
は書いたものを見せられれば、騙されやすい史家だった。(この点では、ヘロドト
スと似たり寄ったりだ。)
司馬遷は、史記を本紀、世家、列伝等に分けて記述した。これはそれぞれ帝王、諸
侯、個人の記録であるが、項羽を本紀に、孔子を世家に、韓信を列伝に入れるなど、
その分け方は司馬遷の価値判断を反映している。宮崎は、本紀、世家、年表、列伝
のさわりを批判的に検討しながら、軽妙な語り口で背後の史実関係と司馬遷の歴史
観、自由人としての誇りを淡々と説き明かす。
宮崎の本の魅力のひとつに、ワサビの利いた寸評がある。先生は、「司馬遷は優れ
た歴史家ではあるが、国家については政治よりも戦争を、人物については事業より
も佚話を好む癖があった」と評したが、この癖のおかげで、史記は物語として抜群
に面白いのである。
と認めてよいかというといささか問題がある。司馬遷は、史記の記述に当たり、史
料の不足から、各地を巡回して口碑伝承の類を収集したが、宮崎によると、司馬遷
は書いたものを見せられれば、騙されやすい史家だった。(この点では、ヘロドト
スと似たり寄ったりだ。)
司馬遷は、史記を本紀、世家、列伝等に分けて記述した。これはそれぞれ帝王、諸
侯、個人の記録であるが、項羽を本紀に、孔子を世家に、韓信を列伝に入れるなど、
その分け方は司馬遷の価値判断を反映している。宮崎は、本紀、世家、年表、列伝
のさわりを批判的に検討しながら、軽妙な語り口で背後の史実関係と司馬遷の歴史
観、自由人としての誇りを淡々と説き明かす。
宮崎の本の魅力のひとつに、ワサビの利いた寸評がある。先生は、「司馬遷は優れ
た歴史家ではあるが、国家については政治よりも戦争を、人物については事業より
も佚話を好む癖があった」と評したが、この癖のおかげで、史記は物語として抜群
に面白いのである。
2004年7月3日に日本でレビュー済み
西にヘロドトスの『歴史』があれば、東に司馬遷の『史記』がある。歴史を重んずる中国人が『漢書』『後漢書』『三国志』から『明史』に到る数々の正史(各王朝によって編まれた正式の歴史書)の元祖がこの『史記』である。日本を代表する中国学の泰斗、宮崎市定博士は、この歴史書の成立と構造の全容の解明を試みた。しかし博士独特の読みやすく、人を引き付ける文体で、格好の『史記』入門になっている。司馬遷は「紀伝体」という新しい編纂方式を創始した。各王・皇帝ごとにまとめられた「本紀」、各諸侯や孔子のような諸侯に等しい価値を認めれらた人物を記述する「世家」、歴史のなかで注目すべき人物について述べられた「列伝」。このような構造で整理された歴史記述を「紀伝体」と呼ぶ。『史記』以降の中国の正史はほぼこの「紀伝体」を模範として編纂されるのである。宮崎博士は司馬遷がどのような経緯でこのような編纂意図を持ったかを本書において肉迫している。
2004年9月20日に日本でレビュー済み
『史記』への格好の入門と紹介では釘打ってありますが、私はむしろ、本書は『史記』をある程度読んだ事のある人や、東洋史についての基礎的な知識のある人にとってより楽しめる一冊だと思います。『史記』全体の概説・要約本はあまたありますが、本書ほどにその背景にある、司馬遷の歴史観・価値観などに踏み込んだ説明を施している本はほとんどないといってもよいでしょう。宮崎氏は該博な知識を武器に独創的な推論を立てていますが、その中でも特に興味深いのが古代中国の都市市民文化論です。春秋戦国時代というと封建制という印象が強すぎるが、都市市民の間には、古典ギリシャ・ローマにも引けを取らない自由を尊ぶ文化が栄えていたという氏の指摘には納得させられました。