『空の果てまで』『ロンリー・ウーマン』と高橋たか子の初期長編作品を読み進めて、本書『誘惑者』に至った時の衝撃は忘れられない。前二書の主人公たちは、とりあえず「変わり者」と言う付箋を付けて納得出来たのに対して、この本には、登場人物たちを「変人」扱いするだけでは済まない何かがある。所与の条件の中で個人の宿命を描く小説作法の原則に収まりきらないのである。作家は個人を描きながら個人を超える「生」の一般則を描こうとした。。
テーマ自体はそれほど深淵なものではない。要するに「この世の支配者は神であるか、悪魔であるか」と言う二項対立を扱った本だ。命題自体は昔からあった。それを如何に斬新なプロットとして小説に表出させるかだ。本書は、命題と物語の合一に関して、成功作/失敗作の線上に位置する作品ともいえる。
舞台背景は戦後間もない昭和25年の春。登場人物は京都の女專を卒業した20~21歳の三人の女性だ。鳥居哲代は京大文学部心理学科2回生。砂川宮子は女專卒業後、進学も帰郷もせずに下宿に留まっている。織田薫は同志社大学文学部英文学科2回生。三人とも生きる気力を失っている。「皇国乙女」にとって敗戦は「目覚め」の筈だが、彼女らには、目覚めは「開放」を意味するどころか、新たな「閉塞」を生み出しただけだったと読める。それは戦争中も眠りこけていた京都という特殊な風土のためかもしれないし、鳥居哲代が述べるように、三人の女性の「階級的感受性」つまり上層中流階級が敗戦で感じた没落意識、に強く影響されているためかもしれない。作家はそういうことには触れない。それらを強調すれば「社会派小説」になってしまう。本作品はあくまで「思考」小説でなくてならない。
鳥居哲代は両親を早くに失い、家業の呉服商を継いだ伯父夫婦に養われている。親からの遺産が伯父の手によって失われて行くことに全く関心がない。彼女の最大の関心事は「死の構造」の解明である。さらに「自分と言う一個の存在を取り巻いている無辺際」や「自分の中の自分にとっての不可知な命」とは何かという形而上的難問に答えを見いだせないでいる。それが未解決である限り、自分自身を定義できない。理性で計り切れない暗闇は神秘主義に行くのが通例だが(神秘体験が信仰の礎となった例は事欠かない)。哲代の場合は悪魔を呼び出すことになる。
砂川宮子は地方の素封家の一人娘で「死願望」の持ち主だ。理由ははっきりしている。父親の死後、精神衰弱的兆候を募らせている母親から逃げ出したい。母は自分の病気治療のために宮子に医師を娶せようと図っている。だが家父長的な家庭でお嬢様育ちの彼女は縁談を断ることが出来ない。彼女は哲代に向かって漠然とした「死にたい」思いを訴え、黙って話を聞いて貰っているうちに死願望が形を成してゆく。「死の構造」を探求する哲代は宮子を思い止まらせる動機を持たない。
織田薫は五百年の血脈を誇る旧家の出だ。実家は維新以来京都御所の向かいで郵便局を営んでいる。名家にありがちな近親婚の繰り返しは、一族の「血の汚れ」として伝承されている。薫は鋭い感受性と支配欲に富み、男がいる時の幸せの絶頂から男を失った時の絶望の奈落に至る、自己中心的な生き方を繰り返す女性だ。男は彼女の一時的な延命薬にすぎず、過去に二度も睡眠薬自殺を計っている。ショーペンハウエルの命題「この世は眠り、死によって本当の命が開かれる」を信奉し、現世は「空の空の空」に尽きるという。薫の「死の構造」ははっきりしていると思われるが、唯一の恐れは「死への閾」を乗り越えられるかだ。未遂で目覚めた時の空しさには二度と耐えられない。
さて哲代は宮子から自殺行の同伴を請われ、伊豆大島の三原山に行くことになる。宮子は、一旦は決意したものの死を前にして怯える。止めてもらいたい。しかしその役割を担う哲代は「死の構造」の解明に夢中で宮子が発する信号を読めない。引くに引けなくなった宮子は「私ね、あなたのために死ぬのよ」と言い残して火口に身を投げる。「死の構造」は解明されない。
ネタを明かせば、本物語は1933年に実際に起きた事件から題材を得ており、実録はWeb上で読むことが出来る(大島駐在警官の著書「三原山秘話」)。これを聞いて妙に納得する人が出てくるのは困ったものだ。作家の意図は奇譚話の紹介ではなく、あくまでも哲学的解析なのだから。
この経験で哲代は自分の中に存在する「魔性」に気付く。帰り道鎌倉に寄って京大の浅田講師から紹介された悪魔学の権威松澤龍介宅を訪れ、龍介から肝試しとして、上腕の内側にパイプの火を押し付けられる。加虐と嗜虐が合体した苦痛と歓喜の瞬間、疑似的性交の絶頂を味わう。火傷の跡は魔女入門の刻印だ。
ほどなく哲代は宮子の「失踪」に気が付いた薫に追及され、打ち明けさせられ、またもや薫の自殺行に付き合うことになる。マルクスの「二度目は喜劇」だ。
薫は宮子とたどった道程を寸分たがわず辿るように哲代に命じ、一度目に迷った道にまで入り込む。宮子のように確実に死ねるための儀式である。薫は初めて見る、「千年都市」京都とは異次元の、破壊され尽くした首都を見る。この世の「空」と、あの世での「真の目覚め」を確かに予兆したに違いない。
二人は予定された時間に火口に立つ。そこでの会話が小説の核心だ。哲代は言う。この世に「存在するのが悪魔であり、存在しないのが神だ。悪魔が神のアンチテーゼでなくて、神が悪魔のアンチテーゼなのだ。悪魔が存在するからこそ、神の観念と言うものが希求される」と。近代一神教2000年の歴史のなかで、人間は悪魔に翻弄されながら存在しない神を切望し、常に裏切られてきた。夢想するだけの人類は間もなく自滅するだろう、と深くうなずかせるシーン。
崖っぷちで、薫は哲代に背中を押してくれと頼み、「火口のなかはぱあっと明るい」と呪文を唱える。火口まで真直ぐに落ち一瞬で燃え尽きると信じているのだ。哲代は三原山の火口に火などなく、自殺者は途中の棚段に引っかかって、緩慢な死を迎えることになることを知っていながら薫に唱和する。「俗世」への唯一の妥協。
哲代は行動を見ていた大学生によって大島警察署に通知され、自殺幇助で逮捕されるだろう。だが哲代が自殺することはないだろう。死後も悪魔に支配されるのでは、生きているのと変わりないのだから。これが哲代の求め続けた「死の構想」だ。
これまでの多くの小説はストーリーの最後に「かすかな希望」なるものを暗示して、駄作の免罪符にしてきた。高橋たか子はこの作品でそんな欺瞞を完膚なきまでに打ち砕いた。作家の死後9年を経て、小説は確かに変わりつつある。
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誘惑者 (1976年) -
第4回(1976年) 泉鏡花文学賞受賞
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上位レビュー、対象国: 日本
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2012年8月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
観念を喰らう
夫婦ともに、観念を拠り所にせずにはいられなかったのか。
高橋和巳とかず子。
二人がまるで相似形の物体のように感じた作品。
夫の高橋和巳の小説では、小説中の主人公が過剰に饒舌なまま
自己表現する。これは明らかに高橋和巳自身の観念。
高橋和巳の小説の主人公が、うんざりするほど自意識過剰なのは
そのためだろう。
上記と全く同じことが、妻であった高橋たか子のこの小説にも
よく表れている。
登場人物はわずか三人。その三人が揃いも揃って、観念的な話題を
止めどなく話し続ける。
そんな印象の内容。
「自殺」を高尚に考えることはいつの世でもあることだが、
それが生の真実であるかのように語る書が高く評価されるのは
やはり「時代」であろうか。
内容自体はごく簡単なもの。
自死を希求する二人の女性と、その自死を「哲学的」に
読み込むために、あえて二人の自死を手助けする主人公。
さほどの違和感なく読めるが、登場人物の存在感は希薄。
生活感が全く感じられず、観念でのみ生きているのか?と
いささか疑問に思うほど。
戦後間もない時期であるにもかかわらず、「貧困」も「生活苦」も
まるでない。
激しく口論するのでも議論するのでもなく、ひたすらに観念遊戯を
繰り広げる登場人物。
だが不思議なことに、読んでいて空疎な感じをもつことはなかった。
「言葉遊び」とも思えず、かなりの緊張感を漂わせた小説。
読んで「合わない」と感じることはあっても、
「くだらない」と思うことはないであろう。
PS 中頃に「澁澤龍彦」をモデルにした人物が登場する。
「悪魔学」とは陳腐な名称で、この小説にとって不可欠な人物でもない。
ただ、実際に著者と澁澤が親交を結んだのは事実。
澁澤の異常な行動がまるで現実であるかのように(おそらくは事実か)、
表現されていて、著者と澁澤との「親交」の内容がいかなるものであったか、
下世話な関心を持った。
高橋和巳や澁澤龍彦に感心ある方も一読ください。
夫婦ともに、観念を拠り所にせずにはいられなかったのか。
高橋和巳とかず子。
二人がまるで相似形の物体のように感じた作品。
夫の高橋和巳の小説では、小説中の主人公が過剰に饒舌なまま
自己表現する。これは明らかに高橋和巳自身の観念。
高橋和巳の小説の主人公が、うんざりするほど自意識過剰なのは
そのためだろう。
上記と全く同じことが、妻であった高橋たか子のこの小説にも
よく表れている。
登場人物はわずか三人。その三人が揃いも揃って、観念的な話題を
止めどなく話し続ける。
そんな印象の内容。
「自殺」を高尚に考えることはいつの世でもあることだが、
それが生の真実であるかのように語る書が高く評価されるのは
やはり「時代」であろうか。
内容自体はごく簡単なもの。
自死を希求する二人の女性と、その自死を「哲学的」に
読み込むために、あえて二人の自死を手助けする主人公。
さほどの違和感なく読めるが、登場人物の存在感は希薄。
生活感が全く感じられず、観念でのみ生きているのか?と
いささか疑問に思うほど。
戦後間もない時期であるにもかかわらず、「貧困」も「生活苦」も
まるでない。
激しく口論するのでも議論するのでもなく、ひたすらに観念遊戯を
繰り広げる登場人物。
だが不思議なことに、読んでいて空疎な感じをもつことはなかった。
「言葉遊び」とも思えず、かなりの緊張感を漂わせた小説。
読んで「合わない」と感じることはあっても、
「くだらない」と思うことはないであろう。
PS 中頃に「澁澤龍彦」をモデルにした人物が登場する。
「悪魔学」とは陳腐な名称で、この小説にとって不可欠な人物でもない。
ただ、実際に著者と澁澤が親交を結んだのは事実。
澁澤の異常な行動がまるで現実であるかのように(おそらくは事実か)、
表現されていて、著者と澁澤との「親交」の内容がいかなるものであったか、
下世話な関心を持った。
高橋和巳や澁澤龍彦に感心ある方も一読ください。
2013年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
高橋和巳は読んでないが、その夫人である作者が今年81歳で亡くなり、余り騒がれないが注目すべきとの批評があったので読む。女性作家シリーズの中の短編を幾つか読んだが、その中では「白夜、昔の街、人形愛、見知らぬ山」等が良かった。いずれも幻想的というのとは一寸違う気もするが、中々の好短編であった。
この長編は、自殺願望の女子大生2人と順次同行して、大島三原山火口への自殺を幇助する話で、泉鏡花賞を受けている。現実にも同様の事件があり、一時名所となり、実に944人も後を追ったという。実際のは東京からだが、小説では京都から、敗戦間もない混雑の列車で向かう。その道中の描写が面白い。新幹線やリニアではこうはゆくまい。
主人公や自殺者達は、まるで生活感がなく、戦後の周囲から浮いているのだが、違和感はなく探偵小説的?に読ませる。作中鎌倉での松沢龍介夫妻の話は、親しかったらしい澁澤龍彦、矢川澄子夫妻がモデルと思われるが、作者はエッセイでも、主人公は作者そのものと思う読者に、自分の分身であって、作者の生活等は書いてないといっている。私小説を嫌う言らしいが・・・。
ともあれこのような小説を書いている最中、作者はカトリックの洗礼を受けており、そのような心の移り行きに関心を持ったので、引き続き他の作品も読んでみたい。
この長編は、自殺願望の女子大生2人と順次同行して、大島三原山火口への自殺を幇助する話で、泉鏡花賞を受けている。現実にも同様の事件があり、一時名所となり、実に944人も後を追ったという。実際のは東京からだが、小説では京都から、敗戦間もない混雑の列車で向かう。その道中の描写が面白い。新幹線やリニアではこうはゆくまい。
主人公や自殺者達は、まるで生活感がなく、戦後の周囲から浮いているのだが、違和感はなく探偵小説的?に読ませる。作中鎌倉での松沢龍介夫妻の話は、親しかったらしい澁澤龍彦、矢川澄子夫妻がモデルと思われるが、作者はエッセイでも、主人公は作者そのものと思う読者に、自分の分身であって、作者の生活等は書いてないといっている。私小説を嫌う言らしいが・・・。
ともあれこのような小説を書いている最中、作者はカトリックの洗礼を受けており、そのような心の移り行きに関心を持ったので、引き続き他の作品も読んでみたい。
2005年11月3日に日本でレビュー済み
高橋たか子は、夫である和巳の生前から創作活動をはじめていたのだ。てっきり、和巳の死後はじめて作家となったのだと思っていた。というのは、本作には高橋和巳の影響が刻印されているように思えなくもないからだ。たしかに、本作の登場人物には古井由吉「杳子」のように、あきらかな精神を病んでいるひとは登場しないけれども、ふたりの自殺者は<健全な>精神のもちぬしとは決して言えない。そして幇助者である主人公自身が、他者に対して能動的な関心を持ちえない「内向者」であるように見えるのだ。それが、和巳の死後のみずからの精神のありかたを投影してみせたように思えるのは、評者の思い込みに過ぎないのだろうか。
また、本作にはキリスト者としてのマルクス主義への懐疑が顔をのぞかせていることも見逃すべきではないだろう。心理主義といえるかどうかはわからないが、内向する精神を描いた作品として秀逸である。
また、本作にはキリスト者としてのマルクス主義への懐疑が顔をのぞかせていることも見逃すべきではないだろう。心理主義といえるかどうかはわからないが、内向する精神を描いた作品として秀逸である。
2003年9月30日に日本でレビュー済み
高橋たか子で一冊といわれれば、
間違いなく、本書をあげる。
<死>を媒介とした<悪>の問題。モーリアック「テレーズ・デスケレウ」以来の孤独な女性犯罪者の内面に迫った作品といってよいかもしれない。
しかし、この問題を臆することなく、著者は凝視しつづける。
自殺幇助という問題を扱う中、<悪>の問題は、
主人公鳥居哲代を通じて、私たちの中に棘のように
刺さることだろう。
間違いなく、本書をあげる。
<死>を媒介とした<悪>の問題。モーリアック「テレーズ・デスケレウ」以来の孤独な女性犯罪者の内面に迫った作品といってよいかもしれない。
しかし、この問題を臆することなく、著者は凝視しつづける。
自殺幇助という問題を扱う中、<悪>の問題は、
主人公鳥居哲代を通じて、私たちの中に棘のように
刺さることだろう。