この書物は、1911年フッサールも編集委員を務めた「ロゴス」誌の創刊号に掲載されたものだ。創刊号に相応しく、フッサールの溌剌とした決意が漲っている。
冒頭「訳者のことば」として、翻訳の佐竹氏が、この書物の位置づけについて述べておられる。要点を押さえた優れたものだが、誤解を招くようなところがあるので、補足しておく。この書物の後に「現象学の理念」がある、と読み取られるかもしれないが、時期的には「現象学の理念」の方が先である。即ち、「現象学の理念」講義で公表できる程に、己の研究の方法と目標をはっきりと見定めることができたフッサールがいて、この書物がある。
「論理学研究」から「現象学の理念」迄のフッサールは、迷い、悩み、苦しんだらしい。その苦しみの中で、ハルテンシュタイン編でカントを紐解く日々を過ごしたらしい。私はこの書物を読みながら、その苦しみはどんなものだったのだろうかと考えたのだった。
自然主義哲学(特に心理学的認識論)、歴史主義・世界観哲学が、原理的に抱え込んでいる懐疑主義、相対主義を露にし、その批判を通して、理性主義が持つ意義を明らかにし、理性主義を完成させるために歩むべき道を指し示す、それがこの書物であり、フッサールの語り口は、自信に満ち溢れているが、そこから逆にフッサールの迷いや悩みがどんなものだったのかが、見えてくる。
フッサールを苦悩させたのは、自然主義ではなく、歴史主義・世界観哲学の持つ相対主義ではなかったのかと思う。どんなに優れた頭脳が、どれほどの真摯さを持って取組んでみても、結局は博物館に飾られた標本となってしまい、せいぜいのところ、その時代における妥当性しか持ち得なかった中で、本当に「厳密な学」を、時代を超えて妥当する哲学を、この自分が、譬えそれが、ほんの始まりの部分であるにせよ、打ち立てることができるのか。そのような苦悩だったと思う。それは理性的に生きようとするフッサールにとって、大げさでなく、死活問題だったと思う。「厳密な学」がなければ、その可能性でもなければ、理性を導きとして生きるということは、幻に過ぎないものとなるだろう。
この書物に対する私の評価は、星4つである。僭越至極であることは、充分承知の上で敢えて言うが、翻訳の正確さに首を傾げるところがあるからである。
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厳密な学としての哲学 (1969年) 単行本
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4 星
フッサールの苦悩
この書物は、1911年フッサールも編集委員を務めた「ロゴス」誌の創刊号に掲載されたものだ。創刊号に相応しく、フッサールの溌剌とした決意が漲っている。 冒頭「訳者のことば」として、翻訳の佐竹氏が、この書物の位置づけについて述べておられる。要点を押さえた優れたものだが、誤解を招くようなところがあるので、補足しておく。この書物の後に「現象学の理念」がある、と読み取られるかもしれないが、時期的には「現象学の理念」の方が先である。即ち、「現象学の理念」講義で公表できる程に、己の研究の方法と目標をはっきりと見定めることができたフッサールがいて、この書物がある。 「論理学研究」から「現象学の理念」迄のフッサールは、迷い、悩み、苦しんだらしい。その苦しみの中で、ハルテンシュタイン編でカントを紐解く日々を過ごしたらしい。私はこの書物を読みながら、その苦しみはどんなものだったのだろうかと考えたのだった。 自然主義哲学(特に心理学的認識論)、歴史主義・世界観哲学が、原理的に抱え込んでいる懐疑主義、相対主義を露にし、その批判を通して、理性主義が持つ意義を明らかにし、理性主義を完成させるために歩むべき道を指し示す、それがこの書物であり、フッサールの語り口は、自信に満ち溢れているが、そこから逆にフッサールの迷いや悩みがどんなものだったのかが、見えてくる。 フッサールを苦悩させたのは、自然主義ではなく、歴史主義・世界観哲学の持つ相対主義ではなかったのかと思う。どんなに優れた頭脳が、どれほどの真摯さを持って取組んでみても、結局は博物館に飾られた標本となってしまい、せいぜいのところ、その時代における妥当性しか持ち得なかった中で、本当に「厳密な学」を、時代を超えて妥当する哲学を、この自分が、譬えそれが、ほんの始まりの部分であるにせよ、打ち立てることができるのか。そのような苦悩だったと思う。それは理性的に生きようとするフッサールにとって、大げさでなく、死活問題だったと思う。「厳密な学」がなければ、その可能性でもなければ、理性を導きとして生きるということは、幻に過ぎないものとなるだろう。 この書物に対する私の評価は、星4つである。僭越至極であることは、充分承知の上で敢えて言うが、翻訳の正確さに首を傾げるところがあるからである。
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2009年5月3日に日本でレビュー済み
この書物は、1911年フッサールも編集委員を務めた「ロゴス」誌の創刊号に掲載されたものだ。創刊号に相応しく、フッサールの溌剌とした決意が漲っている。
冒頭「訳者のことば」として、翻訳の佐竹氏が、この書物の位置づけについて述べておられる。要点を押さえた優れたものだが、誤解を招くようなところがあるので、補足しておく。この書物の後に「現象学の理念」がある、と読み取られるかもしれないが、時期的には「現象学の理念」の方が先である。即ち、「現象学の理念」講義で公表できる程に、己の研究の方法と目標をはっきりと見定めることができたフッサールがいて、この書物がある。
「論理学研究」から「現象学の理念」迄のフッサールは、迷い、悩み、苦しんだらしい。その苦しみの中で、ハルテンシュタイン編でカントを紐解く日々を過ごしたらしい。私はこの書物を読みながら、その苦しみはどんなものだったのだろうかと考えたのだった。
自然主義哲学(特に心理学的認識論)、歴史主義・世界観哲学が、原理的に抱え込んでいる懐疑主義、相対主義を露にし、その批判を通して、理性主義が持つ意義を明らかにし、理性主義を完成させるために歩むべき道を指し示す、それがこの書物であり、フッサールの語り口は、自信に満ち溢れているが、そこから逆にフッサールの迷いや悩みがどんなものだったのかが、見えてくる。
フッサールを苦悩させたのは、自然主義ではなく、歴史主義・世界観哲学の持つ相対主義ではなかったのかと思う。どんなに優れた頭脳が、どれほどの真摯さを持って取組んでみても、結局は博物館に飾られた標本となってしまい、せいぜいのところ、その時代における妥当性しか持ち得なかった中で、本当に「厳密な学」を、時代を超えて妥当する哲学を、この自分が、譬えそれが、ほんの始まりの部分であるにせよ、打ち立てることができるのか。そのような苦悩だったと思う。それは理性的に生きようとするフッサールにとって、大げさでなく、死活問題だったと思う。「厳密な学」がなければ、その可能性でもなければ、理性を導きとして生きるということは、幻に過ぎないものとなるだろう。
この書物に対する私の評価は、星4つである。僭越至極であることは、充分承知の上で敢えて言うが、翻訳の正確さに首を傾げるところがあるからである。
冒頭「訳者のことば」として、翻訳の佐竹氏が、この書物の位置づけについて述べておられる。要点を押さえた優れたものだが、誤解を招くようなところがあるので、補足しておく。この書物の後に「現象学の理念」がある、と読み取られるかもしれないが、時期的には「現象学の理念」の方が先である。即ち、「現象学の理念」講義で公表できる程に、己の研究の方法と目標をはっきりと見定めることができたフッサールがいて、この書物がある。
「論理学研究」から「現象学の理念」迄のフッサールは、迷い、悩み、苦しんだらしい。その苦しみの中で、ハルテンシュタイン編でカントを紐解く日々を過ごしたらしい。私はこの書物を読みながら、その苦しみはどんなものだったのだろうかと考えたのだった。
自然主義哲学(特に心理学的認識論)、歴史主義・世界観哲学が、原理的に抱え込んでいる懐疑主義、相対主義を露にし、その批判を通して、理性主義が持つ意義を明らかにし、理性主義を完成させるために歩むべき道を指し示す、それがこの書物であり、フッサールの語り口は、自信に満ち溢れているが、そこから逆にフッサールの迷いや悩みがどんなものだったのかが、見えてくる。
フッサールを苦悩させたのは、自然主義ではなく、歴史主義・世界観哲学の持つ相対主義ではなかったのかと思う。どんなに優れた頭脳が、どれほどの真摯さを持って取組んでみても、結局は博物館に飾られた標本となってしまい、せいぜいのところ、その時代における妥当性しか持ち得なかった中で、本当に「厳密な学」を、時代を超えて妥当する哲学を、この自分が、譬えそれが、ほんの始まりの部分であるにせよ、打ち立てることができるのか。そのような苦悩だったと思う。それは理性的に生きようとするフッサールにとって、大げさでなく、死活問題だったと思う。「厳密な学」がなければ、その可能性でもなければ、理性を導きとして生きるということは、幻に過ぎないものとなるだろう。
この書物に対する私の評価は、星4つである。僭越至極であることは、充分承知の上で敢えて言うが、翻訳の正確さに首を傾げるところがあるからである。
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2008年3月21日に日本でレビュー済み
厳密な学としての哲学という本を知るまで、フッサールのことを誤解していました。
フッサールを引用して書いている人達は、哲学を厳密な学として成立させることに熱心な態度を受け継ぐのではなく、フッサールの書いた結論的なことだけを引用しようとしていたように感じました。
厳密な学であるからには、「先行科学の一見科学的と見える手続きを批判する」ことに注力されています。
その結果、客観性とはどういう意味を持つかの追求が始まる。
この態度が、一番大事だと思いました。
フッサールを引用して書いている人達は、哲学を厳密な学として成立させることに熱心な態度を受け継ぐのではなく、フッサールの書いた結論的なことだけを引用しようとしていたように感じました。
厳密な学であるからには、「先行科学の一見科学的と見える手続きを批判する」ことに注力されています。
その結果、客観性とはどういう意味を持つかの追求が始まる。
この態度が、一番大事だと思いました。