1990年代後半の雑誌 CUTでレビューを見て以来、観たいと焦がれていました。
1971年のエスクワイア誌の表紙を飾った映画です。ガール役のローリー・バードの薄いピンクのトップス、インディゴブルーのデニムが印象に残っています。
ベトナム戦争当時の渇いた空気、熱いんだか投げやりなんだか分からん男たち。
ロードムービーとしてはマイナーですが、ちょっと観てみない?くらいの気軽さでお薦めしたいです。
断絶 [DVD]
フォーマット | 色, ワイドスクリーン, ドルビー, 吹き替え, 字幕付き |
コントリビュータ | ローリー・バード, デニス・ウィルソン, ハリー・ディーン・スタントン, ウォーレン・オーツ, モンテ・ヘルマン, ジェイムズ・テイラー |
言語 | 英語, 日本語 |
稼働時間 | 1 時間 42 分 |
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商品の説明
Amazonより
ジェイムズ・テイラーがザ・ドライバーを演じている。車に夢中のレーサーで、髪はボサボサ、会話を排除する集中力をたたえている。彼はアメリカの田舎の裏通りを旅する。相棒はザ・メカニック(ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソン)。やはり車を扱っている時だけ自分になれる男だ。ザ・ドライバー、ザ・メカニックという呼び名だけで、2人に名前はない。放浪する存在であり、その背景となる生活は一切描かれない。改造した55年型シボレーで次々にレースをこなしながら、終わりのないハイウェイを走る。途中でヒッチハイクしていたガール(ローリー・バード)を乗せる。その存在は、男たちのトンネルのように前以外が見えない状況を打ち破る。饒舌な中年の凄腕レーサーGTO(ウォレン・オーツ)に出会い、国を横断するレースで競うことになる。モンテ・ヘルマン監督の『断絶』は現代アメリカをかつてないほど淡々と浮き彫りにした作品で、道端のダイナーや休憩所のぼんやりとした風景を背にした断絶と執着を描いた抽象的な習作だ。テイラーとウィルソンは適切に無表情な演技を見せている。ただ、ザ・ガールが嫉妬心をかき立てる時に感情を顔に出すだけだ。オーツはしゃべりまくる精力的な人物で、シーンごとに新しい一面を見せる。まるで東海岸と西海岸の間で打ち返されるピンポンを演じようとしているようだ。「スピードはどのくらい出る?」ザ・ドライバーはGTOの車に見とれて尋ねる。「思いのままさ」GTOは答える。ザ・ドライバーは鋭く切り返す。「思いのままに走れることはない」。どれだけスピードをあげて逃れようとしても路から逃れられない男たちなのである。(Sean Axmaker, Amazon.com)
登録情報
- アスペクト比 : 2.35:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 英語, 日本語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4988003980924
- 監督 : モンテ・ヘルマン
- メディア形式 : 色, ワイドスクリーン, ドルビー, 吹き替え, 字幕付き
- 時間 : 1 時間 42 分
- 発売日 : 2007/4/11
- 出演 : ジェイムズ・テイラー, ウォーレン・オーツ, ローリー・バード, デニス・ウィルソン, ハリー・ディーン・スタントン
- 字幕: : 日本語
- 言語 : 日本語 (Mono), 英語 (Dolby Digital 2.0 Stereo), 英語 (Dolby Digital 5.1)
- 販売元 : キングレコード
- ASIN : B000JSIBIQ
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 63,938位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2020年3月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
地味な映画です。でもこの雰囲気が好きな人には問題ないでしょう。
虚無感の様な悟りの様な、落ち着き払った主人公の放浪レース映画。
虚無感の様な悟りの様な、落ち着き払った主人公の放浪レース映画。
2022年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大友克洋の『ハイウエイ•スター』の元ネタとなった作品。登場人物が4人しかいなく。人物以上に1955年型シボレーや1970年型ポアンティックGTOの存在感あり。『イージーライダー』より遥かに面白いが『バニシング・ポイント』には劣る
2016年5月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ざらざらして薄っぺらい、ボンネットやトランクを外す、汚れたジーンズやセーターを空気のようにまとう男たちに、そもそも、一言たりとも語る資格などないはずの<女>ローリー・バードはいら立ちを隠さない。
闘争心を露わにしない<ドライバー>ジェイムス・テイラーに、「あんたは、怒らないでそれでも生きてるっていうの?」とでもいう視線を放つ。怒れる純粋な女神は、彼が奥深く巨大なマグマを抱えているのをまっすぐな視線のなかに、すでに見透かしている。
三人の男たちは、抱え込んだ怒りと虚無を、ほら話や、朽ち果てそうなグレイ・ブルーのチューンアップや、ほんとうはどうでもいいレースの勝ち負けに変換してなんとか生きている。酸欠にあえぐ魚のように。
あるはずの結末も、語られるはずの真相もぶった切って、映画は終わる。どこへも持っていきようのない、ざらざらした世界への怒りのはけ口のように。
闘争心を露わにしない<ドライバー>ジェイムス・テイラーに、「あんたは、怒らないでそれでも生きてるっていうの?」とでもいう視線を放つ。怒れる純粋な女神は、彼が奥深く巨大なマグマを抱えているのをまっすぐな視線のなかに、すでに見透かしている。
三人の男たちは、抱え込んだ怒りと虚無を、ほら話や、朽ち果てそうなグレイ・ブルーのチューンアップや、ほんとうはどうでもいいレースの勝ち負けに変換してなんとか生きている。酸欠にあえぐ魚のように。
あるはずの結末も、語られるはずの真相もぶった切って、映画は終わる。どこへも持っていきようのない、ざらざらした世界への怒りのはけ口のように。
2012年11月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今、11月24日になった。昨日まで新宿のとある劇場で、上映権が切れる間近ということで「断絶」がかかっていて、最終日だった。初公開から40年。それで娘2人と3人で観に行った。高校生の頃、ほぼミュージシャンとしてのジェームス・テイラーを知ったのと同じぐらいの時に観に行ったのだが、それを次の世代と観に行く。不思議な感覚だった。見終わった後、「ジェームス・テイラーってかっこ良かったね」と娘が呟いた。ニュープリント版ということで初めて観たときより確かに綺麗で明るい感じになっていた気がした。70年代。ロードムービーというのが流行った。アメリカは荒れていて、疲れていた。「イージー・ライダー」に代表されるように、主人公が明確な目的も持たず、ひたすら旅をする。必ずしもハッピーエンドではない。何か社会や体制に抗って生きるそんな若者の生き方を描いていた。当時僕は若過ぎて、そのことが良く飲み込めなかった。が、次の世代と一緒に改めて観てみると、何か少し解ったような気もした。余計なものは何も足されても引かれてもいない。そんな純粋で率直な映画。そう多くはない。この「断絶」が、そうだ。観終えて、案外今の世界の状況に似ているような気もしてきた。途端にこの映画のある種の普遍性のようなものを感じもした。このコレクターズ・エディションには当時を思い起こさせるいろいろなおまけがついているが、実際昨日劇場にも置かれていたものもあって、タイムスリップしたような不思議な時間を過ごした。それにしてもこの監督は何故ジェームス・テイラーそしてデニス・ウィルソンというミュージシャンを起用したのだろう。僕はミュージシャン、ジェームス・テイラーの大ファンなのでライヴ映像はかなり観た。しかしアクターとしての彼の作品はこれがONE AND ONLYである。映画の中でふと流れて来る音楽にも注目して欲しい。Kris KristoffersonのMe and Bobby McGeeのこんな一節が流れて来る。「Freedom's just another word for nothin' left to lose=自由とは失うものが何もないということなんだ」何かこの映画を象徴するような一節な気がしたのは僕だけだろうか。「ワイルド・バンチ」というペキンパーの映画で初めて知った今は亡きウォーレン・ウォーツもなかなかよい。娘たちはヒロインが何故起用されたか、よく解らないという感想だったが、改めて観てみると、そういう考えもあるかなとふと思った。70年代を代表する映画は数多い。今も愛されている作品もまた、あまたある。そんな中で極めて異色な作品ではある。しかし、実は世代を超えて受け容れられるであろう不思議な力を持った作品でもある。事実、娘たちは二人とも「とてもいい映画だったね」と口を揃えた。夜9時の始まりだったので見終えた時は11時近く。いつになく気持ちのいい夜になった。また近々このDVDを観直して、昨夜の感激を再び味わおうかと思う。今度は独りで。昔を想い出しながら。
2016年11月13日に日本でレビュー済み
状況説明&娯楽的盛り上げを
極限まで抑制したストーリー&演出によって
(主人公一行の名前すら不明!)
1970年代のアメリカが抱える「迷走感」を
写し出す「クールすぎるが味わい深い」
道中劇であります。
(鑑賞者を厳しく突き放す「事故のような結末」が
純文学的な格調高さを感じさせる点も見逃せません。)
極限まで抑制したストーリー&演出によって
(主人公一行の名前すら不明!)
1970年代のアメリカが抱える「迷走感」を
写し出す「クールすぎるが味わい深い」
道中劇であります。
(鑑賞者を厳しく突き放す「事故のような結末」が
純文学的な格調高さを感じさせる点も見逃せません。)
2021年12月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この映画の大ファンなのですが、DVDをグレードアップの為ブルーレイを購入しましたが、画像が悪い!よく見たら片面一層式。HDリマスターの意味ないしDVDと変わらないです。キングレコード、名作に片面一層式はやめてほしい!
2022年4月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1971年というニューシネマ全盛の頃(バニシングポイントやファイブイージーピーセスと同じ年)に、ニューシネマ的な道具立て(マシン、長髪、ヒッチハイク、荒野の一本道)で撮られた作品なのに、徹底的にニューシネマであることを拒否してる映画。
むしろ、この少し後にヴェンダースがやった事を先取りしたような印象だ(玄人好みのショットが多く、カメラの色調が冴えない点、メリハリのあるストーリーを拒否している点)
この映画に対するこういった評価は広く一般的なものだが、実際に観てみて、自分の感想もやはり同じだった。
そもそもニューシネマというのは何か、と言えば定義は明確ではない。
戦後映画における三つの大きなムーヴメントはイタリアンネオリアリズム、フランスヌーヴェルバーグ、アメリカンニューシネマの三つだろうが、実は前の二つは特定の映画理論家や映画批評家のたてた指針に基づいて、実作家が制作したという要素が強い(前者ならキアリーニやアリスタルコ、後者ならAバザンやロメール)。
これに対してニューシネマの場合、明確に指針を決めた映画理論家や批評家は存在しない。
もちろん例えば「俺たちに明日はない」が封切られたとき、当時のアメリカの主導的批評家だったNYタイムズのボスリー・クロウザーが酷評したのに対して、PケイルやRエバートが激賞して論争になったなどのエピソードはあるのだが、彼らは作品を評価しただけであって、映画を作る上での映像やテーマに関する指針を設定をしたわけではない。
ニューシネマを定義するなら、明確な定義らしきものは不可能で、そのいくつかの指標を取り出して映画をレッテル張りをするしかないのが実情である。(曰く60年代終わりから70年代初頭にかけて封切られた、ロケ主義、ドロップアウトした若者、鮮烈な死、反体制などなど)
おそらく「俺たちに明日はない」の頃の初期のニューシネマはテネシー・ウィリアムズの映画化作品とアクターズスタジオの俳優たちの作品群をルーツとしていて、それが「イージーライダー」以後にカウンターカルチャーと結びつき、ヒッピー臭が強くなったように思う。ラストで若者が鮮烈な死を迎えるというお約束も、初期のものから「イージーライダー」が引き継ぎ、以降定番化したものだと思う。
この「断絶」の場合、そうしたニューシネマのお約束を「ラストの鮮烈な死」以外はすべて引き継ぎながら、そういった作品群の「幻想」をことごとく打ち壊そうとしている点で、今観ると非常に確信犯的にみえてしまうのである。
「ニューシネマ幻想」の頂点にあるのはおそらく「バニシングポイント」あたりだろうが、それと比較すると、この作品がいかにこの時期のアメリカの現実をリアルに写し取っているのかがわかろうというものである。
むしろ、この少し後にヴェンダースがやった事を先取りしたような印象だ(玄人好みのショットが多く、カメラの色調が冴えない点、メリハリのあるストーリーを拒否している点)
この映画に対するこういった評価は広く一般的なものだが、実際に観てみて、自分の感想もやはり同じだった。
そもそもニューシネマというのは何か、と言えば定義は明確ではない。
戦後映画における三つの大きなムーヴメントはイタリアンネオリアリズム、フランスヌーヴェルバーグ、アメリカンニューシネマの三つだろうが、実は前の二つは特定の映画理論家や映画批評家のたてた指針に基づいて、実作家が制作したという要素が強い(前者ならキアリーニやアリスタルコ、後者ならAバザンやロメール)。
これに対してニューシネマの場合、明確に指針を決めた映画理論家や批評家は存在しない。
もちろん例えば「俺たちに明日はない」が封切られたとき、当時のアメリカの主導的批評家だったNYタイムズのボスリー・クロウザーが酷評したのに対して、PケイルやRエバートが激賞して論争になったなどのエピソードはあるのだが、彼らは作品を評価しただけであって、映画を作る上での映像やテーマに関する指針を設定をしたわけではない。
ニューシネマを定義するなら、明確な定義らしきものは不可能で、そのいくつかの指標を取り出して映画をレッテル張りをするしかないのが実情である。(曰く60年代終わりから70年代初頭にかけて封切られた、ロケ主義、ドロップアウトした若者、鮮烈な死、反体制などなど)
おそらく「俺たちに明日はない」の頃の初期のニューシネマはテネシー・ウィリアムズの映画化作品とアクターズスタジオの俳優たちの作品群をルーツとしていて、それが「イージーライダー」以後にカウンターカルチャーと結びつき、ヒッピー臭が強くなったように思う。ラストで若者が鮮烈な死を迎えるというお約束も、初期のものから「イージーライダー」が引き継ぎ、以降定番化したものだと思う。
この「断絶」の場合、そうしたニューシネマのお約束を「ラストの鮮烈な死」以外はすべて引き継ぎながら、そういった作品群の「幻想」をことごとく打ち壊そうとしている点で、今観ると非常に確信犯的にみえてしまうのである。
「ニューシネマ幻想」の頂点にあるのはおそらく「バニシングポイント」あたりだろうが、それと比較すると、この作品がいかにこの時期のアメリカの現実をリアルに写し取っているのかがわかろうというものである。