断絶 コレクターズ・エディション [DVD]
フォーマット | 色, ドルビー, 限定版, ワイドスクリーン, 吹き替え, 字幕付き |
コントリビュータ | ローリー・バード, デニス・ウィルソン, ハリー・ディーン・スタントン, ウォーレン・オーツ, モンテ・ヘルマン, ジェイムズ・テイラー |
言語 | 日本語, 英語 |
稼働時間 | 1 時間 42 分 |
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商品の説明
商品紹介
黒いアスファルトに轟く爆音エンジンの咆哮!!
70年代アメリカン・ニューシネマ屈指の傑作が、初公開から35年の時を経てついに初ソフト化!!
明日は見捨てた!「イージー★ライダー」「バニシング・ポイント」の道に新たな閃光が走る! 1960年代後半~1970年代にかけて、ハリウッドメジャーの大作映画に対抗し、ハリウッドの反逆児たちが低予算で作り上げた自由で過激な反体制アメリカ映画=アメリカン・ニューシネマ。「俺たちに明日はない」「イージー★ライダー」「明日に向って撃て!」「ゴッドファーザー」など数々のエポックメイキングな作品が存在する中、ひときわ異彩を放つのがモンテ・ヘルマン監督作「断絶」である。1969年の「イージー★ライダー」の大ヒット以降、従来の大作映画の不振により苦境に立たされていたメジャースタジオは若者向けの企画に触手を伸ばすようになる。その状況下、ユニバーサル映画内で斬新な企画を手掛けていたプロデューサー、ネッド・タネンが仕掛けたのがピーター・フォンダの「さすらいのカウボーイ」であり、デニス・ホッパーの「ラストムービー」であり、そしてモンテ・ヘルマンの「断絶」である。人気ロックミュージシャンを起用し、若者が大陸横断レースを繰り広げるという内容、エスクァイア誌大絶賛のもと表紙を飾るなど、それらユニバーサル作品の中でも最も売れる要素を持つ作品として大きな期待を背負い、若者市場へ参入する切り札としてその年のどのユニバーサル作品よりも多くの劇場ブッキングが予定されていた。しかし当時のユニバーサルの重役であったルー・ワッサーマンは、これらの新しい勢力の台頭を極端に嫌っており、すべての企画を抹殺しようとしていた。そして完成試写を観たワッサーマンは凄まじい嫌悪感を示し、結果的にスタジオ側の協力を得られなくなってしまった。実際完成した作品は、もともと持ち合わせていた商業的要素をあえて無視するかのようにエンタテインメント性を完璧に拒否した、脱力感あふれる淡々としたものだった。そして案の定、興行的に大惨敗を喫し、以後呪われた映画としての烙印を押されてしまうのである。ある者は言った『「イージー★ライダー」で勝ち得た自由は、「断絶」によって失われた。「断絶」は70年代の始まりであり、終わりでもある。』。
【STAFF】
監督・編集:モンテ・ヘルマン「銃撃」「コックファイター」
製作:マイケル・S・ローリン
共同プロデューサー:ゲイリー・カーツ「アメリカン・グラフィティ」「スター・ウォーズ」 脚本:ウィル・コリー、ルドルフ・ワーリッツァー「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」
撮影:ジャック・ディアソン
音楽:ビリー・ジェイムズ
Amazonより
ジェイムズ・テイラーがザ・ドライバーを演じている。車に夢中のレーサーで、髪はボサボサ、会話を排除する集中力をたたえている。彼はアメリカの田舎の裏通りを旅する。相棒はザ・メカニック(ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソン)。やはり車を扱っている時だけ自分になれる男だ。ザ・ドライバー、ザ・メカニックという呼び名だけで、2人に名前はない。放浪する存在であり、その背景となる生活は一切描かれない。改造した55年型シボレーで次々にレースをこなしながら、終わりのないハイウェイを走る。途中でヒッチハイクしていたガール(ローリー・バード)を乗せる。その存在は、男たちのトンネルのように前以外が見えない状況を打ち破る。饒舌な中年の凄腕レーサーGTO(ウォレン・オーツ)に出会い、国を横断するレースで競うことになる。モンテ・ヘルマン監督の『断絶』は現代アメリカをかつてないほど淡々と浮き彫りにした作品で、道端のダイナーや休憩所のぼんやりとした風景を背にした断絶と執着を描いた抽象的な習作だ。テイラーとウィルソンは適切に無表情な演技を見せている。ただ、ザ・ガールが嫉妬心をかき立てる時に感情を顔に出すだけだ。オーツはしゃべりまくる精力的な人物で、シーンごとに新しい一面を見せる。まるで東海岸と西海岸の間で打ち返されるピンポンを演じようとしているようだ。「スピードはどのくらい出る?」ザ・ドライバーはGTOの車に見とれて尋ねる。「思いのままさ」GTOは答える。ザ・ドライバーは鋭く切り返す。「思いのままに走れることはない」。どれだけスピードをあげて逃れようとしても路から逃れられない男たちなのである。(Sean Axmaker, Amazon.com)
登録情報
- アスペクト比 : 2.35:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 日本語, 英語
- 梱包サイズ : 19.4 x 13.8 x 2.4 cm; 358.34 g
- EAN : 4988003980931
- 監督 : モンテ・ヘルマン
- メディア形式 : 色, ドルビー, 限定版, ワイドスクリーン, 吹き替え, 字幕付き
- 時間 : 1 時間 42 分
- 発売日 : 2007/2/7
- 出演 : ジェイムズ・テイラー, ウォーレン・オーツ, ローリー・バード, デニス・ウィルソン, ハリー・ディーン・スタントン
- 字幕: : 日本語
- 言語 : 日本語 (Mono), 英語 (Dolby Digital 5.1), 英語 (Dolby Digital 2.0 Stereo)
- 販売元 : キングレコード
- ASIN : B000JSIBJ0
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 199,180位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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1971年のエスクワイア誌の表紙を飾った映画です。ガール役のローリー・バードの薄いピンクのトップス、インディゴブルーのデニムが印象に残っています。
ベトナム戦争当時の渇いた空気、熱いんだか投げやりなんだか分からん男たち。
ロードムービーとしてはマイナーですが、ちょっと観てみない?くらいの気軽さでお薦めしたいです。
虚無感の様な悟りの様な、落ち着き払った主人公の放浪レース映画。
闘争心を露わにしない<ドライバー>ジェイムス・テイラーに、「あんたは、怒らないでそれでも生きてるっていうの?」とでもいう視線を放つ。怒れる純粋な女神は、彼が奥深く巨大なマグマを抱えているのをまっすぐな視線のなかに、すでに見透かしている。
三人の男たちは、抱え込んだ怒りと虚無を、ほら話や、朽ち果てそうなグレイ・ブルーのチューンアップや、ほんとうはどうでもいいレースの勝ち負けに変換してなんとか生きている。酸欠にあえぐ魚のように。
あるはずの結末も、語られるはずの真相もぶった切って、映画は終わる。どこへも持っていきようのない、ざらざらした世界への怒りのはけ口のように。
極限まで抑制したストーリー&演出によって
(主人公一行の名前すら不明!)
1970年代のアメリカが抱える「迷走感」を
写し出す「クールすぎるが味わい深い」
道中劇であります。
(鑑賞者を厳しく突き放す「事故のような結末」が
純文学的な格調高さを感じさせる点も見逃せません。)
むしろ、この少し後にヴェンダースがやった事を先取りしたような印象だ(玄人好みのショットが多く、カメラの色調が冴えない点、メリハリのあるストーリーを拒否している点)
この映画に対するこういった評価は広く一般的なものだが、実際に観てみて、自分の感想もやはり同じだった。
そもそもニューシネマというのは何か、と言えば定義は明確ではない。
戦後映画における三つの大きなムーヴメントはイタリアンネオリアリズム、フランスヌーヴェルバーグ、アメリカンニューシネマの三つだろうが、実は前の二つは特定の映画理論家や映画批評家のたてた指針に基づいて、実作家が制作したという要素が強い(前者ならキアリーニやアリスタルコ、後者ならAバザンやロメール)。
これに対してニューシネマの場合、明確に指針を決めた映画理論家や批評家は存在しない。
もちろん例えば「俺たちに明日はない」が封切られたとき、当時のアメリカの主導的批評家だったNYタイムズのボスリー・クロウザーが酷評したのに対して、PケイルやRエバートが激賞して論争になったなどのエピソードはあるのだが、彼らは作品を評価しただけであって、映画を作る上での映像やテーマに関する指針を設定をしたわけではない。
ニューシネマを定義するなら、明確な定義らしきものは不可能で、そのいくつかの指標を取り出して映画をレッテル張りをするしかないのが実情である。(曰く60年代終わりから70年代初頭にかけて封切られた、ロケ主義、ドロップアウトした若者、鮮烈な死、反体制などなど)
おそらく「俺たちに明日はない」の頃の初期のニューシネマはテネシー・ウィリアムズの映画化作品とアクターズスタジオの俳優たちの作品群をルーツとしていて、それが「イージーライダー」以後にカウンターカルチャーと結びつき、ヒッピー臭が強くなったように思う。ラストで若者が鮮烈な死を迎えるというお約束も、初期のものから「イージーライダー」が引き継ぎ、以降定番化したものだと思う。
この「断絶」の場合、そうしたニューシネマのお約束を「ラストの鮮烈な死」以外はすべて引き継ぎながら、そういった作品群の「幻想」をことごとく打ち壊そうとしている点で、今観ると非常に確信犯的にみえてしまうのである。
「ニューシネマ幻想」の頂点にあるのはおそらく「バニシングポイント」あたりだろうが、それと比較すると、この作品がいかにこの時期のアメリカの現実をリアルに写し取っているのかがわかろうというものである。