シャブロル監督自身の言葉で、「プロットは最大の関心事ではない。」というのを見たことがあります。プロットは「人物」から生まれるもので、整合はとれた方が良いがこじ付けは好ましくない、と。
人の気持ちの流れ、心理を大切にした人間のよく描けているドラマ作り・・・と、この言葉をとっているのですが、これは、トリュフォーらヌーヴェル・ヴァーグの監督さんや、カサヴェテス監督などの作品に共通することかと。けれど、シャブロル監督のように、ミステリ、サスペンスに特化した上で、(「プロットありき」ではない)自然な流れのドラマに挑戦というのは、とても大変なことだと(素人ながら)思います。
(共同)脚本家や製作者によって作品のタッチが変化するという説明もあるシャブロルの本作は、その多くの作品の中で「研ぎ澄まされた傑作」のうちの一本。
パリ郊外、広々とした庭のある邸宅。「女鹿」などのシャブロル作品の他、アニエス・ヴァルダ監督の『5時から7時までのクレオ』や、ジャック・ドゥミ監督の『シェルブールの雨傘』などを手がけているジャン・ラビエの美しい映像。幸せそうな夫妻と男の子ひとりのこの家に起きることをゆるゆる動くカメラが見せはじめます。
・・・夫(ミシェル・ブーケ)の気配に、急いで言葉を繕う電話口の妻(エレーヌ)。シャブロル監督のミューズ、ステファーヌ・オードランがセクシーで美しく、纏わりつくようなこの映画の空気にピッタリ。というか、彼女がこの空気を作り出している。タイトルがタイトルですから、見ていてすぐ見当のつく「それ」を、夫シャルルもとても気にしている様子。
シャブロルの映画は、どれも食事シーンが印象的(とても美味しそうだったりすることも多い)。本作も、始まってまもなくの食事シーンがいいのです。食後のフルーツの洋梨がみずみずしく・・・(鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』の大楠道代さんの「桃」を思い出してしまうのですが、共通する)エロティシズムのようなものを滴らせたフルーツを口にする魅力的なオードラン。
夫:「愛してる?」 妻:「なぜ(そうきくの)?」・・・とても気になっている夫。
小学生の息子も賢く聞き分けよく、お手伝いさんもいて夫はまじめ。何の問題もなく「平穏」(・・だからいい、夫に問題があっては妻の行為が正当化できてしまう)な中に効果的に流れる不穏な音楽と共に、夫の疑いの心や不安な心がほりおこしてゆく妻の不貞(情事)の真相。。などという書き方では大げさなほど全体が淡々としてエレガント。(夫の会社の秘書、ブリジットはちょっとキャピキャピですが、シャブロルの映画はそういう感じのものをいつも含むようなので、一緒に飲み込んじゃいましょう。)・・もし「事件」に至らなかったなら、繊細な心理描写、きめこまやかな脚本の、とても「ふらんす映画」。
<内容にふれます。ラストにも。>
まじめ一方の夫と、人妻とのラヴ・アフェアーにいかにも慣れた感じのヴィクトール(モーリス・ロネ)との軋むような(・・見ていて、この人性格悪いと腹の立つほどのロネのうまい演技!)舌戦の危ういバランスは・・・彼の寝室のデスク上にあった、(夫から妻への結婚記念プレゼント)巨大ライターを目にして崩れはじめ・・・、余計なお世話的ヴィクトールのひとことに、「我慢できない!」と切れてしまったというのが妥当なような「突然の殺し」は、「え?」と思うほどあっけない(こういうことが、シャブロルの他の映画にもある)。(うっかり)殺人を犯してしまうというのは、こういう感じなのだろうか?と思える「殺人」とその後。完璧な隠蔽はとても無理に見える夫だが、どこかに「それ」を持って行かなくてはならない。
本作は、長い時間をかけてシャルルの不細工な行動を見せ、途中のちょっとした事故にヒヤヒヤさせられる(・・が、これが警察サイドに役立ったか?などは描かれず、というあたりの自然さも無理がなくて好きです)。シャブロル監督の映画について、「テレビの二時間サスペンスみたい」という感想も拝見しますが、ストーリー自体さほど凝ったものでない場合でも、こういう人間の懸命なぶきっちょさを丁寧に見せるのは(テレビどころか映画でも)そうそうないように思います。
「ヴィクトール失踪」の件で、(ついに・・・)昼間に二人、夜間に再び三人の刑事がこの家を訪れる。夫に本当のことは言いたくないが、(刑事が来た以上)「ヴィクトールを知っていると」と言わざるを得ない妻と、やっぱり(自分の起こしてしまった)「事件」については語りたくない(語れない)が、まるで知らないというわけにもいかない夫。ここで、刑事の目の前で、視線の交わる二人の様子はまるで「共謀者」のよう・・・
と言っても、二人で口裏合わせて警察を「ケムに巻く」という類のものではなく・・・
また、この物語は感動の夫婦愛というものではないけれど、人間の複雑さを深く描いて、どういう方向へこの先事件の結果がゆくのか、はっきりわからないまま・・・止まったようなラストの映画の空気。
「愛してる、激しい愛だ」 「ジュテーム(「私も」と字幕)」 という二人。
何度か見て、少しずつ考えも変わったりするのですが・・・
どこか(ななめ方向の)深いところでのお互いの理解の「共謀状態」なのかな??と。
この映画は(一般的なこととして)「不貞」を非難してるわけではなく、エレーヌの不貞が巻き起こした一部始終を観察し解剖的に描いたという感じがします。彼女がこれで身を慎むとも思えないし・・・黒い木の枝徐々に映画を覆うラストカットとそこに流れる音楽は不穏だが、これがこの先暗いだけの暗示とも言い切れない・・・シャブロルの描くそんなラスト。。