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無防備都市 [DVD]

3.9 5つ星のうち3.9 42個の評価

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フォーマット ドルビー, ブラック&ホワイト
コントリビュータ ロベルト・ロッセリーニ, フランチェスコ・グランジャケット, アンナ・マニャーニ, アルド・ファブリーツィ, マルチェロ・パリエロ
言語 イタリア語
稼働時間 1 時間 43 分

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商品の説明

1946年カンヌ国際映画祭グランプリ
1946年ニューヨーク映画批評家賞最優秀外国映画賞
1946年ナショナル・ボード・オブ・レビュー最優秀主演女優賞
1945~46年イタリア銀リボン女優賞
1950年キネマ旬報外国映画ベストテン第4位

わが身で体験した戦争の厳しい現実をフィルムに写しかえたイタリアン・リアリズムの誕生

イタリア民衆の抵抗組織が解放する直前、ドイツ軍進駐下のローマ。映画人も銃を手に生命を賭けた抵抗運動に参加した。そのひとりロッセリーニは身をもって体験した凄じい真実をフィルムに叩き込まずにはいられなかった。抵抗運動に対するドイツ軍と秘密警察(ゲシュタポ)の血も涙も感傷もない残酷非情を、冷徹な鋭い生のリアリズムで描き出した。スタジオは戦火で使用不能、資材も極端に不足して照明もない悪条件下、ドキュメンタリー・タッチで写し取った。生々しい映像は記録映画以上にリアルであり、戦後の世界の映画の作り方を変えたネオ・レアリスモ(イタリアン・リアリズム)はここにはじまった。つづく「戦火のかなた」「ドイツ零年」の3部作は映画の歴史に永遠に残る画期的なエポックを成す。脚本に若きフェリーニが参加している。この映画に衝撃を受けたハリウッドの大女優イングリッド・バーグマンは、見ず知らずのロッセリーニに手紙を書き、夫や子供を捨てて彼のもとに走って不倫の愛は伝説になった。
日野康一

STAFF
監督:ロベルト・ロッセリーニ
助監督:フェデリコ・フェリーニ/セルジオ・アミディ
原作:セルジオ・アミディ/アルベルト・コンシリオ
脚本:フェデリコ・フェリーニ/セルジオ・アミディ/ロベルト・ロッセリーニ
撮影:ウバルド・アラータ
音楽:レンツォ・ロッセリーニ

CAST
アルド・ファブリーツィ/アンナ・マニャーニ/マルチェロ・パリエロ/フランチェスコ・グランジャケット/ヴィート・アンニキアリコ/ナンド・ブルーノ/ハリー・ファイスト/マリア・ミキ/ジョヴァンナ・ガレッティ/カルラ・ローヴェレ/エドアルド・パッサレッリ/アコス・トルネイ/カルロ・シンディチ/ヨープ・バン・フルツェン/アマリア・ペレグリーニ/アルベルト・タヴァツィ

1945年 イタリア作品

登録情報

  • アスペクト比 ‏ : ‎ 1.33:1
  • メーカーにより製造中止になりました ‏ : ‎ いいえ
  • 言語 ‏ : ‎ イタリア語
  • 梱包サイズ ‏ : ‎ 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
  • EAN ‏ : ‎ 4933672236704
  • 監督 ‏ : ‎ ロベルト・ロッセリーニ
  • メディア形式 ‏ : ‎ ドルビー, ブラック&ホワイト
  • 時間 ‏ : ‎ 1 時間 43 分
  • 発売日 ‏ : ‎ 2009/2/20
  • 出演 ‏ : ‎ アルド・ファブリーツィ, アンナ・マニャーニ, マルチェロ・パリエロ, フランチェスコ・グランジャケット
  • 字幕: ‏ : ‎ 日本語
  • 言語 ‏ : ‎ イタリア語 (Mono)
  • 販売元 ‏ : ‎ IVC,Ltd.(VC)(D)
  • ASIN ‏ : ‎ B001O8ORAG
  • ディスク枚数 ‏ : ‎ 1
  • カスタマーレビュー:
    3.9 5つ星のうち3.9 42個の評価

カスタマーレビュー

星5つ中3.9つ
5つのうち3.9つ
42グローバルレーティング

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上位レビュー、対象国: 日本

2009年12月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この映画を見る際に必ず考えて欲しいのが
この映画が作られた「時代背景」です。

第二次大戦中
反戦を唱えた芸術や自国の負を描いた芸術は
徹底的に政府によって弾圧されていました。

また、この時代の映画というものは
「観るものに夢や希望を与える」ことが第一で
「真実を描く」なんてことは二の次だったのです。

故にこの「無防備都市」は
そういった風潮に屈せず、作られた作品なのです。

ロベルト・ロッセリーニ監督は
ほほえましい家族げんかや
結婚を控えた男女に待つ悲劇
反ナチ運動を行う大人の真似をする子供たちを描くことで
一市民の視点から戦争の無益さ
戦争がいかにして人々の幸せをぶち壊すのかを
徹底的に描きました。

また
命を引き換えにしてでも
反ナチ運動を行う若者の悲惨な最期を描くことで
一イタリア人の視点から
当時イタリア北部を占領していたドイツ軍の
残虐さ、冷酷無慈悲な面を
そして同じような行為に及んでいた祖国の暗部を
ためらうことなく描きました。

そして
同じ民族どうしでの裏切りを描くことで
一人の人間の視点から
人間の欲深さ、醜さを
余すことなく描ききりました。

この映画を観て、心を揺さぶられない人は
きっといないでしょう。
戦わなければならなかった時代に
戦うことの無意味さを私たちに投げかけたのですから。
50人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2014年5月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ナチス・ドイツがローマを占領中に撮影を開始したといわれるロッセリーニの力作。イタリアのネオ・リアリズモ誕生の記念すべき第一作といわれたり、ロッセリーニ自身のレジスタンス活動を裏付ける傑作などともいわれる名作というより、もうたいへんなレジェンド的作品である。じぶんには、このような作品を云々するような資格はないが、あらためて見直して気づいたことなどを記しておく。まず、宗教の位置づけが、かなり大きな扱いとなっていて、決して貶めるように描かれてはいないこと。これはローマ・カトリックの総本山バチカンを自国内に別の国家として存在させているイタリアならではであろう。それに比べると些末なことかも知れないが、ドイツ将校、ここではゲシュタポのようだが、そのトップと愛人らしい夫人の存在が不気味である。それはたぶんに後年のロッセリーニの作品をかいま見せられるような気がした。そしてラスト近くで捕まえたレジスタンスの幹部を拷問しているところ、夫人と将校のやりとりは、なにか家庭内のことを話しているようでさえある。こうした二人の存在は、強制収容所にも見られるというようなことを「夜と霧」(フランクル著)で知り、また極東戦線の日本軍にも将軍(あるいは高級将校)と囲い者の存在という例がいくらでも見られ、権力者と取り入る女という構図は洋の東西を問わず存在し、いずれにおいても女性は権力者をなだめる方向ではなく、焚きつけてより加虐性を増させる働きをしている点があることは注意して良いだろう。ただし世の中には、アラビアン・ナイトのシェエラザード姫のように乱暴な王を一千一夜にわたってなだめ続ける女性の存在の方が圧倒的に多いのだろうことは想像に難くないが、それ以上に共犯関係をもって示唆的に君臨する場合もあるのだということは知っておいてよいのではないだろうか。また、ナチス将校も一概にゲシュタポ将校のような乱暴者ばかりではなく、自制心をもった者もいるようで、ここでもそうした将校が出てくる。しかし、かれは最後に司祭を自らの手で処刑せざるを得ないのである。暗い作品だが、イタリアの人たちは、当時、どんな思いでこの作品を見たことだろう。それはすでにレジェンドの霧の中に覆われてしまっているのかも知れない。
10人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2019年10月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
すばらしい映画。レジスタンス闘争での気高い生き方、人間の弱さ、裏切りなど、深く描かれています。
名作といっていいと思います。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2014年4月17日に日本でレビュー済み
1946年カンヌ国際映画祭グランプリ。
1946年ニューヨーク映画批評家賞最優秀外国映画賞。
1946年ナショナル・ボード・オブ・レビュー最優秀主演女優賞。
1945〜46年イタリア銀リボン女優賞。
世界映画史上、最も衝撃的な傑作です。
私の中では、これが映画史上1位です(2位はオーソン・ウェルズ「市民ケーン」、3位はジャン・ルノワール「ゲームの規則」)。
ヴィスコンティの「揺れる大地」や、デ・シーカの「自転車泥棒」とともに、ネオレアリスモの代表的作品と見なされています。
ドイツ軍に占領されていた時期のイタリアにおける、パルチザンを描きます。
パルチザンは、ナチスによって拷問され、殺されていきます。
その描写は本当に容赦がなく、戦慄を覚えずにはいられません。
その一方で、この作品においては、悲劇と喜劇、崇高なものと卑俗なものが入り混じり、
混沌としながらも豊饒さを持った世界が形作られています。
単なる反戦映画とは一味違っています。何度繰り返し観ても決して飽きません。
ロッセリーニの冷徹でありながらもヒューマンな監督ぶりが素晴らしいのはもちろん、
若き日のフェリーニが、脚本と助監督で優れた仕事をしています。
ロッセリーニもフェリーニも、30年代のアメリカ映画を良く勉強した跡が見えます。
ピエトロ神父を演じたアルド・ファブリーツィと、ピナを演じたアンナ・マニャーニは、これこそ名演技。
その他の素人俳優たちも、優れた存在感を誇ります。
ナチス将校役の俳優と、コカイン中毒の内通者の女役の女優が特に良いです。
続く「戦火のかなた」と「ドイツ零年」も必見。この3部作は映画史上の奇跡です。
繰り返しじっくり味わっていただきたいと思います。
13人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2017年7月17日に日本でレビュー済み
 舞台は第二次世界大戦末期。ムッソリーニが失脚した後、ドイツ軍に占領されたローマの1943年。オープニングからエンディングまで、緊迫感に溢れた白黒のドキュメンタリータッチの作品。
 メインは対独レジスタンスに協力するドン・ピエトロ神父。ラストでナチに連行され処刑される。それを、神父を敬愛するレジスタンスの少年たちが金網越しに見つめる。自分たちが見守っていることを口笛で神父に伝える。自分たちにできることは、今はそれしかない。
 必要の無い一切の飾りを排除し、戦争の現実を可能な限り厳粛に映像として伝えること。それがロッセリーニの最大のテーマであり、そしてそれは、十分に成功している。

 ロッセリーニ、戦争三部作の第一作目。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2007年8月16日に日本でレビュー済み
当時の社会状況とか、これをきっかけにしたロッセリーニ&バーグマンのスキャンダルとか、そういうことで評価されすぎなんじゃないか?
「シンドラーのリスト」に影響与えてそうなシーンというのがいくつかあったし、いいシーンは散見された。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2017年9月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
どんなに立派な作品でも日本語字幕なしではイタリア語のわからない私にはとても見る気がおきませんでした。
日本語字幕なしのDVDを売るとは不親切甚だしい。
腹の立つ限りです。☆ゼロです。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2022年2月20日に日本でレビュー済み
ちょっと皮肉な見方かも知れませんが、ネオ・レアリズモと呼ばれた傾向のこの作品を観て感じるのは、敗北を認めて負けを無効化するというか、同情を買う方向へ、歴史の流れを動かそうとする無意識の働きの様に感じます。映像的な意味では、ロケ中心の撮影で、破壊された建物、ボロボロの衣服、足を欠いた少年など、戦争の影響を直接的に映し出します。ただ、それはイタリアだけではなく、例えば「第三の男」などの様に戦後のヨーロッパ各国や、日本の映画にも隠しようのない風景としてあるものなので、それだけでリアリズムが立ち上がり観客の胸倉を鷲づかみしたりはしないのでは。
それではこの映画で示されるのは、家族の絆や宗教の慈悲や労働者の連帯が、踏みにじられ敗北し、殺害される姿です。ここに映し出されたのは、一般の庶民や、神父やレジスタンス運動にかかわる人々は一時連帯し、ナチス/ゲシュタポの周到さの前に敗北する姿です。ですが、歴史的に見ればこれは一時的な敗北で、ドイツが敗北し、長く国家が分断状態にあることによって、ドイツ人は額に加害者としての烙印を押されたようなものです。ではイタリアはどうか、加害者であるよりも、被害者としての顔を、この作品で強調していないでしょうか。と同時に私たちは政治的に、あるいは戦争への抵抗に対し、2重に失敗しましたと認めている様に思えるんです。ゲシュタポに連行される婚約者を追いかけて射殺されてしまうアンナ・マニャーニは、あとに残される息子のことを考慮に入れれば軽率な行動をとったと解釈できます。ですが婚約者の名前を叫びながら殺されてしまう女性は、政治的に無防備でナイーブなんです。脱走したドイツ兵を保護し、レジスタンスに協力した神父は、ゲシュタポから逃げ回った活動家と諸共捕まり、脱走兵が自殺した後、最後には処刑されてしまいます。活動家は1920年代から政治活動を行っていたようで、もしかしたらアナーキスト的な活動家だったのかも。本来は教会と対立するような思想を持っていたかもしれないが、市民レベルでの抵抗が一時的に連帯のサークルを形成しつつも、ゲシュタポの拷問の前に死を迎えます。神父と活動家は相互に抵抗の意味を支える形ですが、神の救済とは別の次元であり、救済は無かったと言えます。
一方ドイツ側は、ゲシュタポの几帳面さとサディスト的側面を強調しつつ、サロンの退廃的ムードを少しだけ映し出すことによって、敗戦がナチスの自滅であったことを暗示しているようです。
さて敗戦国日本は、戦争責任を自問するような作品がずいぶん長く作られ続けたように思います。1970年代ぐらいまでは有ったような気がしますが、イタリア映画はあまりそうした作品が無いような気がします。これはあくまで印象の話ですが、実は日本人は負けを認めたくないメンタリティの反映としてそうした作品を制作したのかもと感じます。イタリアは、日本の様な体面を重んじたような敗戦ではなかったので、もっとカッコの悪いものだったように感じ、それを悲劇に転換するには失敗を失敗として認め、無い手でタイプライターを打つ様な身振りのを見せて、その後手のある人と交代したのでは。
でも例えば長く占領されたポーランドでは、そんな直接的な表現が有効だったのだろうかと想像を巡らせてしまいます。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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