批評というのはそれをある概念に閉じ込める行為に
他ならない。だから僕はあまり批評をしたくない。
特にこのような天才(天然と言いたい気持ちもよく分かる)の作品に対して
批評なんかが通用する訳がない。
だけどそれを承知で書く。
この音楽が一枚でも多く売れて欲しいからだ。
それと僕自身が釈然としない部分が多く、
書かずにはいられないからだ。
僕はこの大偉人に直に触れた。
このアルバムの東京での発売記念ライブの際に。
会話を交わし、一緒にタバコを吸い、ライブを見て、
一緒に飲みにゆき、一緒に帰った。
奇跡の一夜だった。
その詳細はできるだけドキュメンタリー風に
アメブロ内の自分のブログに書いた。
そのライブの様子はそちらで読んでいただくとして。
まず一聴しての印象。
「これは前作より聴きこなすのが難しそうだな。」
「この『ドラム』というドラム一切なしの音楽から
自分なりのドラム(のリズムを)紡ぎだせということかな?」
と感じた。
そして一枚目『ギター』からは
確かに変わった。
『ギター』での裸電球のような(マンガ表現のそれと思っていただきたい。)
一聴しての才気の輪郭がやや薄れ、蝋燭の灯火に速やかに移し変えられた。
その分かげりは濃くなり、ゆらめいている。
ポップさや歌心という一点では『ギター』の方が
少し勝っている。
ここで聞かれるのはそれからさらに進み
よりプライベートな領域に踏み込んでいる。
そしてこれは戸張さんの道程の通過地点のレポートの音楽だ。
この音楽は誰にも似ていないが唯一比較できるのは
ジョンフルシアンテだ。
ジョンフルシアンテの一枚目の4曲目「Big Takeover」と
『ギター』の無題2は不思議なシンクロニシティーを見せている。
そしてジョンの二枚目はその歌心を深く沈めてゆく。
戸張さんの蝋燭の灯火とは全然違うが少し似ている。
僕は数日前自身のアメブロ内で戸張さんのライブをこう形容した。
安易に言えば「小川のせせらぎのように流麗であり
獣の咆哮のように強靭であった」
馬鹿馬鹿しく言えば「最高にサイコで最古の音楽」
少し大げさに言えば「素粒子のように微細で宇宙のように広大」
それはまるで他の音楽に対する僕の不感症を邁進させるかのように
響き渡った。
手の動きは凄まじく早く、目で捉えるのが非常に
困難で、その残像さえも捉えさせまいとしていた。
声の響きは凄まじく深く、耳で捉えるのが非常に
困難で、その残響さえも捉えさせまいとしていた。
そうして思わずほほがゆるんでしまう曲もいくつか入っている『ギター』
に比べ音質もよりクリアになった『ドラム』のゆらめくかげりと獣の咆哮
を切り離せない。
僕は常々思うのだけどこういう音楽を作れる人というのは
2種類に分けられると思う。
一つは本人が完全に心身喪失状態にある(もしくは麻薬中毒)か
根本的に何か大事な一ピースが欠けているか。
前者がフルシアンテ。
後者が戸張さんな気がする。
そういう多大なリスクを背負っていなければ
割に合わないと言うか説明がつかない音楽だ。
ゆらめくかげりと獣の咆哮を照らし合わせてみると
哀れみの遠吠えとなる。
哀れみとは何か?
それは動物の根本的な三大欲(のいずれか、ひとつ
かふたつ)を失ってしまった哀れみだ。(これ以上は書けない。ご本人に失礼にあたるし
危険すぎる。)
とはいえ戸張さんご本人は至って普通というか
気さくで優しく、とってもすてきな方だ。
どこにでもいそうな感じさえもする。
同時に大柄で懐も深い。
そして謙虚でさえあった。
そして改めてわからないお方でもあった。
おそらくこれを書き終わった後も
僕の中には釈然としない靄のようなものが
かかり続け、戸張さんの音楽を聴く度に悩まされ、
夢の中へといざなわれるだろう。
全人類必ず一度は聞いてみるべき音楽だ。
それくらいすごい。
時空を超える。それは保証する。
全作品に触れ続けてみたいものだ。