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思想 2010年 01月号 [雑誌] 雑誌

5.0 5つ星のうち5.0 1個の評価

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上位レビュー、対象国: 日本

2019年8月26日に日本でレビュー済み
本誌(『思想 2010年1月号 「韓国併合」100年を問う』(岩波書店))を大量引用・コメント少量で紹介します。9年以上も前に出た雑誌で、購入時に1回読みましたが、理解不足で再度読もうと思っていましたが、9年以上も過ぎてしまいました。本誌の紹介は、その内容は全く古びていませんし、韓国の「軍事情報包括保護協定(GSOMIA(ジーソミア))破棄」に対する日本政府・日本マスコミの韓国非難大合唱の最中ですので、なお一層時宜に適っているかもしれないと思っています、書評者自身は。
傍点、傍線、まるぼしは、≪ ≫で代替します。引用文全体は、【 】で囲みます。引用文中の引用は、< >で囲みます。

論稿の題名と著者名を下記します。いくつかの論稿から引用紹介します。引用した論稿もしなかった論考も自分の頭で読んでください、啓発的、「目から鱗」的ですので。

●「思想の言葉 「韓国合併奉告祭碑」の前で考える 水野直樹」(P.3 ~ P.5)
●「日本史認識のパラダイム転換のために ―― 「韓国併合」100年にあたって―― 宮嶋博史」(P.6 ~ P.25)
●「東学農民軍包囲殲滅作戦と日本政府・大本営 ―― 日清戦争から「韓国併合」100年を問う ―― 井上勝生」(P.26 ~ P.44)
●「韓国軍人の抗日蜂起と「韓国併合」 愼蒼宇(しんちゃんう)」(P.45 ~ P.62)
●「伊藤博文の韓国統治と朝鮮社会 小川原宏幸」(P.63 ~ P.81)
●「武断政治と朝鮮民衆 趙景達(ちょきょんだる)」(P.82 ~ P.99)
●「内務官僚と植民地支配 松田利彦」(P.100 ~ P.118)
●「植民地期の政治史を描く視角について 岡本真希子」(P.119 ~ P.137)
●「「韓国併合」と古代日朝関係史 李成市(りそんし)」(P.138 ~ P.150)
●「江戸時代 民衆の朝鮮・朝鮮人観 ―― 浄瑠璃・歌舞伎というメディアを通じて ―― 須田努」(P.151 ~ P.169)
●「近世日本と東アジア ―― 「東アジア法文明圏」の視角 ―― 深谷克己」(P.170 ~ P.187)
●「明治初期の日朝関係と征韓論 吉野誠」(P.188 ~ P.203)
●「今日における関東大震災時朝鮮人虐殺の国家責任と民衆責任 山田昭次」(P.204 ~ P.218)
●「日韓会談反対運動と植民地支配責任論 ―― 日本朝鮮研究所の植民地主義論を中心に ―― 板垣竜太」(P.219 ~ P.238)
●「韓国併合100年と日本人 和田春樹」(P.239 ~ P.254)

では、引用紹介を始めます。

●「日本史認識のパラダイム転換のために ―― 「韓国併合」100年にあたって―― 宮嶋博史」(P.6 ~ P.25)

宮嶋の論稿は、儒教や儒教的文化を高く評価する内容になっていますので、書評者自身としては、大きく違和感がありますが、日本が東アジアの「中心国」から「周辺国」になってしまうのでその準備が必要であるという主張には同感です。いくつかの箇所をあまり長くなく引用します。

【 「 したがって問われるべき問題は、国民国家を形成するために必要な諸要素のかなりの部分をすでに実現していた中国や朝鮮の「旧社会」の内実をどう理解するのか、それと比較した場合の日本の位置をどう考えるのか、ということである。しかし、西川(西川長夫 書評者注)の議論ではこうした部分がまったく捨象されているのである。西欧化を「文明化」ととらえた場合、今述べたように、西欧や日本で近代になってはじめて実現されたものの相当部分は中国・朝鮮でははるか以前に実現されていたのであり、こうした条件は中国や朝鮮の近代的変革に独特の性格を与えることになった。すなわち、一方では、近代的変革を行うためには何が課題であるのかが不分明になり、西欧モデルの受容という課題を切実なものと認識することを困難にするとともに、他方では、自己の伝統を文明と認識し、西欧文明を相対化しようとする動きが必然的に登場することになったのである。」(P.18 ~ P.19)

「 西川の国民国家論と関連させていえば、中国や朝鮮では日本よりも国民国家を形成することが困難だったのであり、そのもっとも大きな要因として儒教的な文明主義の存在があったということができる。これまで日本の歴史学界では、こうした儒教的文明主義の存在を否定的にとらえてきたのであるが、21世紀の今日の時点に立ったとき、こうした理解は根本的に再検討されなければならないと考える。西川の国民国家論が国民国家に対する批判にとどまっていて、出口が見えないように感じられるだけに、国民国家を日本のように速やかに形成することがきわめて困難であった中国・朝鮮の近現代史を、その困難さゆえに日本とは別の道を歩んだものとして見直すことが、大きな意味をもちうるであろう。」(P.20)

「 6 日本の出口をもとめて

現在の日本は経済的にはいざ知らず(それも大分あやしくなってきたが)、政治的にも社会的にも周辺諸国から取り残されつつある。いまだに君主制が存在しているだけでなく、女性の天皇を認めるか否かという、私には漫画的としか思われない議論が行われている。社会的に見ても、2008年から韓国では戸籍(それは遅くとも高麗時代以来1000年以上続いてきたものであった)が廃止され、家族関係登録簿に切り替えられた。それに対して日本では、いまだに男女別姓の議論さえも足踏み状態にある。

これらの現象は、最初に触れた日本の周辺化のあらわれであると考えられるが、私は周辺化自体が問題であるとは思わない。問題は周辺化という未来に正面から向き合わず、従来どおりの中心主義パラダイムに安住していることにこそある。21世紀において日本がどのような関係を構築するかの選択はさておき、韓国・北朝鮮・中国、さらにはベトナムなどの諸国と深い結びつきをもたなければならないことは自明である。

その際に、これらの国々が儒教モデルを受容した歴史的経験を有していること、そのことが現在においても意味を有していることを認識することは、21世紀東アジアの国際関係を構想するうえで、きわめて重要であると考える。歴史認識の問題として「韓国併合」100年を考える今日的意味もここにあるのではないだろうか。」(P.22 ~ P.23) 】

●「東学農民軍包囲殲滅作戦と日本政府・大本営 ―― 日清戦争から「韓国併合」100年を問う ―― 井上勝生」(P.26 ~ P.44)

「武尊文卑」の大日本帝国の悪逆非道さが如何なく発揮されています、東学農民軍に対して(学校時代の日本史では「東学党の乱」という名称で教えられていたと思います)。いくつかの箇所をそれほど長くなく引用します。

【 「 □ はじめに

日清戦争(1894-95年)は、日本国と清国との戦争だけではなかった。朝鮮では、侵入してきた日本軍に対して東学農民軍が、半島の半分以上の地域で数十万の民衆の参加者を得て、竹槍とせいぜい火縄銃という武器で戦い、それに対して、ライフル銃を携え訓練された日本軍が、大本営が命令した通り大包囲作戦を展開し、東学農民を「ことごとく殺戮」し殲滅した。朝鮮民衆の犠牲者は、日本と清国のそれぞれの犠牲者数を上回った。この東学農民軍包囲殲滅作戦の事実は、その当時から隠蔽され、今のほとんど歴史の記憶から消されたままである。「韓国併合」を16年遡ることになるが、日清戦争時における日本軍の東学農民殲滅作戦の意味を再検討することによって、日本と朝鮮がたどってきた近代史をあらためて問い直したい。

・・・・・ 」(P.26)

「 朝鮮の民乱(一揆)に対する処罰は、日本の百姓一揆への処罰に較べて伝統的に寛大であり、処刑は指導者1、2名にとどまり、むしろ民乱で追及された不正官吏がかならず処罰された。前近代朝鮮王朝の民衆支配が野蛮で過酷なものだったというイメージが日本人にはあるが、韓国の朴廣成、金洋植、日本の趙景達らの民乱研究を見れば分かるように、日本側のその朝鮮イメージこそが偏見なのである。江戸時代の百姓一揆処罰も、野蛮・過酷なものでなかったこと、むしろ江戸時代を野蛮視した明治政府の民衆反乱弾圧方針の方が厳格であったことは、近代の民衆史研究者によって明らかにされつつある。」(P.33)

「 東学農民軍に対する三路包囲殲滅作戦は、朝鮮現地の外交部や軍部が立案したものではなかった。広島大本営で伊藤博文総理、有栖川宮参謀総長、川上操六参謀次長兼兵站総監以下の政軍の最高指導者たちが共同して、東京の陸奥宗光外相も参画の上、立案・決定され、朝鮮現地へ命令された作戦であった。「討滅大隊」後備歩兵第19大隊は、非道で不法な「ことごとく殺戮」作戦を、朝鮮南部のほとんどの地域で実行するように命令された。」(P.41)

「 □ おわりに

・・・・・

以前は日本の近現代史で、出先の軍部が先行して、既成事実をつくって政府を引っ張った、あるいは、アジア各地で蛮行を行ったと図式化されたことがあった。日清戦争では、どうであっただろうか。東学農民軍に対する三中隊を中心とする包囲、根拠地殲滅作戦を打ち出したのは、広島大本営の総理大臣と参謀総長、参謀次長、そして東京の外務大臣等であった。広島大本営の政府と軍部の最高指導者が、朝鮮現地の日本軍を先導した。虐殺に等しい殺戮命令も、大本営の兵站部総指揮官、川上兵站総監から発令された。そういう非道な根拠地殲滅作戦が必要とされたのは、平壌の会戦後の、中国領土内部への侵攻という冒険的な戦略ゆえであった。

参謀本部編『明治二十七八年日清戦史』全8巻で、東学農民軍殲滅作戦は、第8巻のわずか3頁余を割いて、兵站部変遷の説明中に記されているだけである。この作戦の全貌は隠蔽され、一方、冒険的な大陸への侵攻作戦は詳細に叙述され顕彰された。日本政府と軍部の指導者による隣国政府と民衆に対する主権と生命の蹂躙は、不問に付されてしまった。以後の歴史に与えた影響は、量ることができないほど大きかったのではなかろうか。」(P.42 ~ P.43) 】

●「韓国軍人の抗日蜂起と「韓国併合」 愼蒼宇(しん ちゃんう)」(P.45 ~ P.62)

啓発的な内容の論稿です。説明的にまとまっている「はじめに」を全文引用します。是非本文もご自身で読んでください。

【 「 □ はじめに

朝鮮は1世紀の歳月のあいだ、常に大国中心の軍事的な国際秩序に大きな圧力を受け続けてきた。日本の朝鮮植民地支配は民族運動抑圧のために一個・二個師団クラスの軍隊駐屯を必要とし、植民地支配からの解放後は東西の諸大国(日本を含む)が南北双方に休戦のもとでの軍事体制継続を後押ししている。つまり、朝鮮では国際政治に強く規定された戦時・準戦時状況が現在まで持続しているのでる。「韓国併合」から100年の歴史を考える上で、こうした日本の植民地化を契機とした朝鮮の軍事化過程とその暴力の構造を様々な角度から批判的に検証することは極めて重要なことであり、軽視することはできない。

ところで、朝鮮軍事化の歴史過程は、朝鮮の政治文化に二つの意味で大きな変容をもたらしたと思われる。第一は武力を基礎とする支配への転換である。朝鮮王朝末期の統治を規定してきた、軍事力の強化より民衆生活の安寧を重視する文治の政治文化が衰退し、植民地化によって強力な軍事力を基盤とする統治がおこなわれるようになった。そして、解放後も冷戦構造のもとで軍事を重視する統治が続いてきたのである。戦後の韓国軍で要職を経験した軍人金舜鉉(キムスンヒョン)は、朝鮮では「文尊武卑思想」が強かったため、民族と国家を保衛する強い軍事力をもてずに日本の奴隷となってしまい、解放後、「悪辣な共産集団」との戦いを通じてようやく強壮な軍隊が韓国に出来上がったと主張する。こうした金のような「武尊文卑」の歴史観は、現代韓国の軍事体制を維持したい層の一般的な見解と言っても差支えないだろう。

第二に民衆運動の在り方の転換である。19世紀後半の朝鮮民衆運動は国家との全面対決に至らないケースが中心で(これを民乱という)、朝鮮王朝も武力弾圧を極力回避するなど、支配者・被支配者双方に政治文化が一定程度共有されていた。しかし、日本が民衆運動の武力弾圧を行う過程で、前期の政治文化は崩壊し、民衆運動も武力で対決する徹底抗戦型へと転換を遂げていった。

こうした政治文化の転換は、ナショナリズムの形成とも深くかかわる。趙景達によれば、19世紀末朝鮮の開化派知識人の「自強」論は、「富国」と「強兵」を分離する小国主義が主流であったが、保護国期になると申采浩(シンチェホ)や朴殷植(パクウンシク)のように徹底した「自立」と「抗日」を主張する大国主義が登場してくるようになった。ただし、軍事力を重視する民族主義の発露は二つのジレンマを抱え込んでいた。第一に、植民地主義との共犯/抗戦という二つの方向への分裂である。第二に「文治」的政治文化との連続/断絶の問題であり、それは朝鮮を野蛮視する文明主義との関わりで第一の分裂とも深く関わることになる。

本稿は、日本が朝鮮を植民地化していく時期において、軍人が牽引するナショナリズムが前記の二つのジレンマを内包しながら形成されていく過程を、抗日義兵を支えた二人の韓国軍人の意識と行動を中心に明らかにするものである。そのことで、朝鮮における

①  武力行使をめぐる政治文化の転換
②  軍人に牽引されるナショナリズムの形成過程とその原初的性格

を浮き彫りにすることが目的である。

②については、韓国軍人たちの国際社会観・日本観と、民衆の義兵観からアプローチする。これら三点に着目する理由は、軍人義兵将の牽引するナショナリズムの性格を論じる上で、義兵将たちが国民国家体系(主権国家体制)という外なる「他者」と、民衆という内なる「他者」にどのように向き合ったのかを検討することが重要だと考えるからである。とりわけ民衆との関りは重要である。植民地主義へのリアクションとしてのナショナリズムは、「思想(エリート)」「運動」だけでなく、「心情(民衆)」を含めた三つの位相による包括的文化現象のなかで捉える必要があるからである。

その上で、韓国軍人たちの植民地主義に対する対応は、現在の南北朝鮮の戦時・準戦時状況を考える上で、どのような歴史的課題を投げかけるのかを浮き彫りにしたい。」(P.45 ~ P.46) 】

●「伊藤博文の韓国統治と朝鮮社会 小川原宏幸」(P.63 ~ P.81)

本論稿には、植民地研究に対する啓発的な示唆も記述されているのですが、長くなってしまいますので、その引用は止めて、「おわりに」の部分を全文引用します(この部分だけでも、若干長いですが)。伊藤博文の評価に関して、伊藤之雄という歴史学者の批判にもなっています。この伊藤之雄は、講談社学術文庫版の「日本の歴史」の22巻『政党政治と天皇』を書いていまして、書評者はこの著書をけっこう面白く読みましたので、伊藤之雄という歴史学者を高く買っていたのですが。伊藤之雄は、若干評価ダウンということになります。

【 「 □ おわりに

以上、韓国皇帝の南北巡幸を事例として統監伊藤博文の韓国統治と朝鮮社会との相克状況を検討してきた。伊藤は、1907年に締結された第三次「日韓協約」を中心とする朝鮮植民地支配体制=第三次日韓協約体制を成立させた。それは韓国の漸進的な併合を目指す過渡的な統治体制であったが、伊藤の併合構想は実際に行われた韓国併合による直接統治ではなく、たとえば自治植民地のような形態で韓国を日本に編入しようとするものであった。第三次日韓協約体制の下で伊藤は「近代化」政策を進めて、義兵闘争や愛国啓蒙団体による救国運動など広範な抵抗運動に対応する一方、韓国皇帝の権威を利用した民心収攬策を進めていった。そうした伊藤の皇帝利用策は、甲午改革以降に進められた国民創出運動のなかで涵養されていた「忠君愛国」的皇帝観を日本の支配に適合的に再編しようとしたものであり、皇帝の南北巡幸はその最たるものであった。伊藤の韓国統治は朝鮮民衆と共有しうる統合理念を創出しようとしたものであり、物理的暴力にもっぱら依拠した植民地統治方式ではないという意味で、1919年の3.1独立運動後に展開された「文化政治」の先駆的形態として位置づけられるものである。

しかし皇帝巡幸を通じて伊藤は、帰服を図ろうとした義兵はもちろん、朝鮮民衆のさまざまな形での反発に遭遇することとなった。朝鮮社会において、皇帝と民衆とが儒教的民本主義を媒介にして原理的に直接結びつくという一君万民的な勤王(勤皇)思想が、甲午農民戦争および大韓帝国期に行われた民衆の変革運動の過程で広く受容されていたからである。こうした一君万民的な皇帝幻想を支えていたのは民衆の社会正義実現への希求であり、それは日本の統治が過酷なものとなればなるほど先鋭化されざるをえなかった。伊藤が民心帰服を図ろうとした皇帝巡幸は、皇帝の日本への拉致という流言が暗示するように、日本に拘束された皇帝像を人々に現前化させ、またその拘束が亡国への胎動として理解されることによって、民衆の始原的ナショナリズムをより掘り起こしていく。こうして、皇帝の支配イデオロギーを民心収攬策に利用しようとする伊藤の試みは、朝鮮社会に深く根差した一君万民的皇帝観の前に挫折させられていく。したがって韓国を併合するに際し、第三次日韓協約体制を挫折せしめた朝鮮民衆のナショナリズムの源泉を断ち切らねばならないことが日本の政治家に痛感されるに至る。日本政府が1907年7月に韓国併合方針を決定すると同時に韓国皇帝の政治的無力化を政策化したのは決して偶然ではない。

伊藤の韓国併合構想である第三次日韓協約体制は、表面的には、伊藤の統監辞任そして暗殺という形で頓挫したように見える。したがって従来の韓国併合史研究は、伊藤の統監辞任および暗殺を日本の対韓政策の転機として位置づけてきたのであるが、こうした見解は、第三次協約体制下の植民地政策と朝鮮社会との相関関係を踏まえない、朝鮮史的文脈への理解を欠いた皮相的理解である。伊藤博文が主導した第三次協約体制は、本質的には朝鮮社会との連関性において挫折していったと把握されなければならない。物理的暴力による弾圧の一方で新たな統合理念を示して民心収攬を図ろうとする伊藤の統治構想が、伝統的な政治文化にもとづく朝鮮民衆の反発の前に挫折した以上、その統治方式は物理的暴力に一元化されていくことになる。そこに武断政治が登場する背景があった。

最後にもう一度、冒頭に掲げた筆者の問題関心を繰り返しておきたい。伊藤博文の対韓政策を評価するにあたって被従属地域との連関性を埒外に措き、日本政治史の延長線上で理解する枠組みは、植民地支配の本質から目を逸らそうとするものにほかならない。森山茂徳の研究以来、日朝関係史が朝鮮側の動向を組み込むようになってきたことを考えるとき、伊藤博文と山形有朋ら陸軍との対立で韓国併合過程を把握するという先祖がえりにも等しい枠組みが再提示され始めているのは論外であるが、帝国主義本国内の政治的葛藤・対立を植民地に敷衍して植民地主義・植民地政策を把握しようとする姿勢自体は、近年の「帝国史」研究のなかで再生産されているように見受けられる。あらためて被従属地域・植民地社会に視点を置いた研究が必要となっている。日韓・日朝間の歴史認識に横たわる溝を埋め戻すために日本の韓国併合過程に関する研究が寄与できることはもちろん多い。しかしより重要なのは、その併合過程を世界史的経験として位置づけるための枠組みを構築することである。被従属地域の社会構成が植民地支配のあり方をどのように規定するのかという下からの視座を組み入れた国際政治史研究および植民地政治史研究の試み、そしてシステム内化した民族主義研究を相対化しながら帝国主義の構造を総体的に検討する試みは、ようやくその緒に就いたばかりである。」(P.77 ~ P.78) 】

●「武断政治と朝鮮民衆 趙景達(ちょ きょんだる)」(P.82 ~ P.99)

本論稿に「儒教的民本主義」の簡潔な解説がありますので、それを引用します。ここでも、「おわりに」がまとまっていますので、そこも全文引用します。

【 「 儒教的民本主義は、徳治という理想主義的理念とは裏腹に、武威的規律を忌避するがゆえに、現実には官憲のさまざまな不正や横暴をはびこらすアイロニカルな政治文化でもあった。しかし、観念の上では民本主義は官民に共有されており、規律よりは教化が重視され、異議申し立ての回路は確固として存在し、官は救難時には温情主義的に民に対することが当為とされた。このような政治文化に、一面苦しめられながらも、同時に慣れ親しんでもいた朝鮮民衆にとって、朝鮮の兵営半島化は未知の暴力的な政治文化を強要しようとするものであり、到底慣れ親しむことができないものであった。」(P.88)

「 □ おわりに

王朝時代にあって朝鮮民衆は、どれほど支配政策や収奪に不満があるとしても、容易には王朝打倒という方向には進まなかった。それは、儒教的民本主義によって支配への合意のシステムが構築されていたからである。民衆は必死に収奪を耐え忍んだのちには、公論を通じ、あるいは民乱という暴力を通じ、自らの意思を上達することができた。そうした場合、王朝権力は渋々あるいは欺瞞的ながらも、それに対して何らかの対応をするのを常とした。それゆえにこそ、李王朝は500年以上にもわたって存続することができた。

それは政治文化の問題と密接に関わる問題であると同時に、ヘゲモニーの問題でもある。ヘゲモニーとは同意を前提とする強制と社会的コンセンサスを意味するが、それはひとり近代国家にのみあるのではなく、前近代国家においても必須のものである。朝鮮ではそれこそが、儒教的民本主義であった。「韓国併合」とは、朝鮮民衆が長きにわたって慣れ親しんできたそうした政治文化を真っ向から否定することを意味した。植民地支配の本質とは、宗主国総体から多様になされる収奪・差別・抑圧と、それを保障する暴力の体系性にこそある。武断政治はまさしくそうした暴力性を遺憾なく発揮した支配のあり方であった。総督府は暴力的な政治文化を上から一方的に押し付けるだけで、朝鮮人と共有の政治文化を構築しようとはしなかった。

異議申し立ての政治文化を否定された朝鮮民衆は、閉塞状況と深い絶望の淵で生きるしかなかった。何しろ民衆は、「徘徊」や「多衆聚合」さえ禁じられ、祭りも制限された。3.1運動はまさに、こうした閉塞状況を一挙に打ち破るものであったといえる。人々は誰もが祝祭的に「独立万歳」を叫び、蓄積されたストレスを発散させた。実のところ、朝鮮民衆にとって、独立とは一体どのようなものであると理解されたのか、疑問がつきまとう。近代知を持たない以上、少なくとも共和制などを構想していなかったことだけは確かである。それは多分に王朝時代への復帰であったであろうし、政治文化的には儒教的政治文化への回帰であったと考えられる。

ここに総督府は反省を余儀なくされ、文化政治を標榜することになる。しかしそれは、もはや儒教的民本主義への回帰などではありえない。民衆自身は、束の間にはそれへの回帰がなされたと錯覚したかもしれないが、文化政治はあくまでも近代的であり、しかも植民地支配である以上、苛酷な収奪はもちろん、依然とした抜きがたい差別と暴力の上に成り立っていた。それゆえに、植民地権力のヘゲモニーはやはり成立しようがなく、民衆は近代性を内面化することも容易にはできなかった。表面的には武断政治はなくなったかに見えても、その実は植民地の本質として武断政治であることは最後まで貫徹されていたというのが、私の見立てである。であればこそ、1945年8月15日に朝鮮民衆は再び「独立万歳」の歓喜の声を全土に鳴り響かせたのであった。」(P.97 ~ P.98) 】
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