ノルウェイの森 【コンプリート・エディション3枚組】 [Blu-ray]
フォーマット | 色, ドルビー, DTS Stereo |
コントリビュータ | 菊地凛子, 玉山鉄二, 初音映莉子, 霧島れいか, トラン・アン・ユン, 松山ケンイチ, 高良健吾, 水原希子 |
言語 | 日本語 |
稼働時間 | 2 時間 14 分 |
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商品の説明
内容紹介
劇場版+エクステンデッド版(150分)の2つの本編を収録。
激しくて、物静かで、哀しい、100パーセントの恋愛小説。
累計1,000万部を超える村上春樹、世紀のベストセラー、奇蹟の映画化!!
【STORY】
高校時代に親友・キズキ(高良健吾)を自殺で喪ったワタナベ(松山ケンイチ)は、誰も知っている人間がいない東京の大学に行く。
そこでワタナベは空っぽな日々を送るが、偶然キズキの恋人だった直子(菊地凛子)と再会する。
大切なものを喪った者同士付き合いを深めていき、ワタナベは直子に魅かれていく。
そして、直子の二十歳の誕生日に二人は夜を共にする。
ところが、ワタナベの想いが深まれば深まるほど直子の喪失感はより深く大きなものになっていき、直子は結局京都の療養所に入院することになる。
そんな折にワタナベは大学で、小動物のように瑞々しい緑(水原希子)と出会う。ワタナベは、直子とは対照的な緑と会うようになり、あるとき緑の自宅で唇を重ねる。
その後、直子から手紙が届き、ワタナベは直子に会い行く。
そこで、ワタナベはギターによるビートルズの「ノルウェイの森」を聴くことになる。
それは、直子が大好きな曲だった。彼女はその曲を聴くといつも涙が止まらなくなるのだった…。
【Disc2】 特典映像(DVD)※Disc2はDVDです。
●メイキングその①<キャスト編>(約43分)
松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子、玉山鉄二、高良健吾、霧島れいか、初音映莉子
●メイキングその②<撮影編>(約28分)
●イベント映像集(約40分)
ヴェネチア映画祭、ジャパンプレミア記者会見、ジャパンプレミア舞台挨拶、 劇場初日舞台挨拶、台湾プロモーション(予定)
●未公開カット集
●プロモーション映像集(特報・予告編・TVスポット等)
※Disc2 特典映像DVDは、DVD【スペシャル・エディション2枚組】のDisc2 特典映像DVDと同一内容となります。
【Disc3】(Blu-ray)
エクステンデット版本編(150分)
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
村上春樹原作による大ベストセラー小説を松山ケンイチ主演で映画化した恋愛ドラマ。対照的な価値観を持つふたりの女性の間で揺れ動く青年の切ない心情を描く。劇場公開オリジナル版とエクステンデット版を収録。特典DVD付きの3枚組。
内容(「Oricon」データベースより)
村上春樹原作の『ノルウェイの森』が名匠トラン・アン・ユンによって映画化!高校時代に親友・キズキを自殺で喪ったワタナベは、偶然キズキの恋人だった直子と再会する。大切なものを喪った者同士付き合いを深めていき、ワタナベは直子に魅かれていく。だが、直子は京都の療養所に入院することになり…。松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子ほか出演。本編2バージョンを収録したBD×2+特典DVDのコンプリート・エディション。
登録情報
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 日本語
- 製品サイズ : 25 x 2.2 x 18 cm; 299.37 g
- EAN : 4547462076748
- バリアフリー音声ガイド: : 日本語
- 監督 : トラン・アン・ユン
- メディア形式 : 色, ドルビー, DTS Stereo
- 時間 : 2 時間 14 分
- 発売日 : 2011/6/22
- 出演 : 松山ケンイチ, 菊地凛子, 水原希子, 高良健吾, 霧島れいか
- 字幕: : 日本語
- 販売元 : ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
- ASIN : B004V3TEZE
- ディスク枚数 : 3
- Amazon 売れ筋ランキング: - 40,709位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 358位日本のラブロマンス映画
- - 1,264位ブルーレイ 日本映画
- - 2,108位日本のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
上手く映画の尺にまとめてあると思います。
その後、僕は大阪梅田の紀伊國屋書店で偶然見つけた、海辺にいる黒猫の絵を買って、村上春樹さんに贈ったことがありました。
日本文学は第二次大戦後、長らく政治の季節に突入する。60~70年代には安保反対の学生運動が盛り上がり、それを反映した作品が数多く書かれた。例えば、高橋和巳、例えば『されどわれらが日々』…。村上春樹が『風の音を聴け』でデビューしたのは、70年安保の余燼がようやく治まった79年のことである。注目されたのは、その政治性の欠如、徹底したノンポリぶりで、吉本隆明は「テーマの欠如自体がテーマ」と評していた。
村上がこうした政治の季節に大いなる違和感を抱いていたことは、82年の『羊をめぐる冒険』で登場人物が語る「搾取? そんなものは存在しない」のひと言に示されていたと思う。そして87年の『ノルウェイの森』は、彼の政治の季節への嫌悪を全面的に表明したものだったのである。
小説は68~70年の日本の学生生活を背景にしているが、主人公のワタナベは大学をバリケード封鎖した学生たちを、内心で「下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ」と罵倒したり、「1969年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ」と、この時代への違和感を記す。
政治少年たちの愛読書が大江健三郎、ドストエフスキーだとしたら、ワタナベはフィッツジェラルドにアップダイク、寮の先輩・永沢はバルザック、コンラッド、ディッケンズ…よりによって政治的問題意識を排除した作家たち。そして、政治の季節の終焉を告げるように、性の季節とでもいうべきものを対置させるのである。
2) 政治の季節から性の季節へ
文学における性とは、それまでは政治的な性であり、反権力としての性だった。性的なものを隠そうとする権力を攻撃するための性、例えば「サド裁判」であり、『ボヴァリー夫人』であり、D・H・ローレンスであり、河出書房『人間の文学』全集だった。また愛とは堀辰雄のような理念であり、志賀直哉のような妄想であった。
しかし村上は本作で、ごく普通の学生の日常的な性愛を現実的に表現したのだった。そこでは従来、権力論や理念や妄想で語られていた男女の関係が、性や欲望、好き嫌いを中核とするものとして語り直されている。昔からポルノには事欠かなかったが、ここにあるのは読者が普通に行っていることをそのまま現実的に描写した純文学作品なのだ。
政治の季節を嫌悪し、政治的表現の一形態だった性愛を非政治的なものに置き換えた、「政治的なものに対する否定という政治的メッセージを含む小説」が本作だったと言えるのではないかw
死と性を大きな要素としたワタナベの非政治的青春は、「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ」というレイコの言葉で一つの帰結を迎えるのである。
日常的・現実的な性という意味では本作は文学作品としては新しいものだったろう。その自覚があるからこそ、村上はここから文学的に再出発を果たしたのではないか。(その後の作品は未読なのであくまで推測ですw)
作品末尾の「僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった」という唐突な表白は、政治の季節から自分を解放して性の季節に到達し、これからどのような表現をしていけばいいのかという文学的な当惑を表していた気がする。
3) サブカルチャーにおける性の先取りと本作の映画化の失敗
ところで映画や流行音楽といったサブカルチャーは一足早く、そうした現実の性的関係を描いていた。米国映画では1968年頃までに自主規制が無効化されたから、大胆な性的表現も当たり前のことだし、日本でも警察の猥褻罪関係の規制は徐々に緩んできていた。
性的表現では文学などより映画、音楽といったサブカルチャーのほうが先に進んでいたとするなら、87年時点で村上が文学表現において新しかったとしても、サブカルチャー的にはとくに斬新でも革新的でもなかったはずである。
表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌。つまりサブカルチャーは性的コミュニケーションを先取りし、それが日常化していた例証である。
とすると本作を映画化するにあたって性的表現を重視すると、ろくなことになりそうもない。むしろ政治的表現との対比から語りだすべきだった。それは誰にでもわかりそうな話なのだが、いかんせんこの映画はセックスを強調するかのように組み立てられた。
したがって構想の時点で失敗が決まっていたような話であるうえ、女性キャストが菊地に水原では如何ともしがたいだろう。しかも人物もストーリーも原作を単になぞっただけ…二重三重に失敗が決定されていた映画としか言いようがない。映像に素晴らしいものがあるだけに、何とも残念だ。
そういえば映画版『風の歌を聴け』も、日本の港のどんよりとした曇り空のシーンにビーチボーイズ『カリフォルニア・ガールズ』が流れる凄まじいものだったっけな。あのような愚挙を「政治性」と呼ぶのであるw
補足)
上記のレビューで「表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌」と書いたが、それと関連する本を最近読んだので、参考までにご紹介しておこう。
小関隆著『イギリス1960年代~ビートルズからサッチャーへ』には次のような記述がある。
「『ノーウェジアン・ウッド』を例にとれば、この曲が描くのは、1960年代に進展した性的モラルの変容を背景とした、どこか虚無的な男女の駆け引きである」
ビートルズ1963年のヒット曲「アイ・ウオント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」は何故、「手を握りしめたい」と歌ったのか。米国に比してイギリス社会はきわめて奥手だったから、ファンの少女たちに受け入れ可能なのはこの程度だったというのである。
しかし、この時期のイギリスは豊かな社会の到来と教会の権威・影響力の低下に伴い、文化革命が進展しつつあり、その一環として性的モラルも急速に変容していく。
ピルの普及により婚前・婚外セックスが広がり、公共放送BBCの教養番組では心理学者が「大切なのは純潔より愛だ」と講演した。国教会の偉い聖職者も「セックスは徹頭徹尾よきもの、神が与えたもの」と明言する時代であった。
『ノーウェジアン・ウッド』のような性的な駆け引きの歌が登場した背景には、このようなスインギング・ロンドンの時代における性的革命があったわけだ。
小関は「性に無知で、性行為に罪悪感を覚えていた若者たちが、性を語り、性の知識を獲得し、人生を充実させるものとして性行為を捉え直していったことは、たしかに革命と呼んでも過言ではない」と説明する。これは村上の小説のレビューに転用してもおかしくない。
『ノーウェジアン・ウッド』の発表は1965年、村上春樹『ノルウェイの森』の舞台となるのはそれからほぼ5年遅れの日本である。
当時、日本国内でビートルズの曲が性的な曲として理解されることはなかったに違いないが、流行歌のメインストリームである演歌は、ビートルズなどより遥かにキワドイ男女の関係を内容としていた。それは宇多田ヒカルの母親の代表曲を持ち出すまでもない。
したがってサブカルチャーが性的コミュニケーションを先取りしていた事実は動かないのだが、それをメインカルチャーである"純文学"化するには、さらに20年近くの時とバブル経済が必要だったのだろう。
今度のDVDでゆっくり自宅で見れて良かった!