若い頃ハルキストで、原作を何度も読んだ者ですが、これはこれでいいのではと思う。
上手く映画の尺にまとめてあると思います。
ノルウェイの森 [DVD]
フォーマット | 色, 字幕付き, DTS Stereo |
コントリビュータ | 菊地凛子, トラン・アン・ユン, 松山ケンイチ, 高良健吾, 水原希子 |
言語 | 日本語 |
稼働時間 | 2 時間 14 分 |
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商品の説明
深く愛すること。
強く生きること。
【STORY】
高校時代に親友・キズキを自殺で喪ったワタナベは、過去を断ち切るかのように上京し、孤独な大学生活を送っていた。
ある日ワタナベは、キズキの恋人だった直子と東京で偶然再会する。
二人は大切な人を失くした者同士で静かに寄り添うようになり、ついに直子の二十歳の誕生日に一夜を共にするが、その直後に直子はワタナベの前から消えてしまう。
一方ワタナベは大学で瑞々しい魅力を放つ緑と出会い、直子とは対照的な彼女に惹かれていく。やがて直子から短い手紙が届き、ワタナベは直子に会うために山奥の療養所まで訪ねるのだったが・・・・・・。
【キャスト】
監督・脚本・・・トラン・アン・ユン
キャスト・・・松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子、高良健吾
【Copyright】(C)2010「ノルウェイの森」村上春樹/アスミック・エース、フジテレビジョン
※発売前のジャケット写真、商品仕様、映像特典などは予告なく変更となる場合がございますのでご了承ください。
登録情報
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 日本語
- 製品サイズ : 25 x 2.2 x 18 cm; 83 g
- EAN : 4547462078247
- 監督 : トラン・アン・ユン
- メディア形式 : 色, 字幕付き, DTS Stereo
- 時間 : 2 時間 14 分
- 発売日 : 2011/10/26
- 出演 : 松山ケンイチ, 菊地凛子, 水原希子, 高良健吾
- 字幕: : 日本語
- 販売元 : ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
- ASIN : B005JAENV8
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 38,966位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 351位日本のラブロマンス映画
- カスタマーレビュー:
イメージ付きのレビュー
4 星
ねぇワタナベ君 私のこと好き?
DVDで持っていたのですがBlu-rayを買ったので久しぶりに観てみました。はじめて観たときより小説の人物像と映画の俳優の違和感は少なくなりました。配役を聞いた時には菊地凛子と水原希子は逆のほうがいいように思いましたが今回は合っていると感じました。ただやはり小説のほうに慣れ親しんでいる人には小説と映画の違いにばかり気がいってしまうと思います。出だしのアイスの棒から違和感を感じます。小説だと37歳になった渡辺が飛行機でハンブルクに向かっているところからはじまります。そのような感じでずっと小説にあって映画には無いものばかりが気になってしまいます。あと本作の中で「Can」というグループの曲が流れます。小説の中の曲は流れません。ヴィバルディも聴こえません。ベトナム出身パリ育ちの監督の影響も大きいのでしょう。ただ風景の緑や雨や風の音はきれいです。また小説のほうも読みたくなりました。今度はKindle版も出ましたね。…結論として小説と映画を比較するのではなく切り離して考えたほうがいいように思います。この映画はこの映画で良い作品だと感じます。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年1月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
プライムで何度も観ていましたが、持っておきたいため購入しました。内容も素敵で安く購入でき満足していますが、一つあげるとすれば、鼻の汚物らしきものが表面に付着していたのが残念でした。他は満足です!
2023年5月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
村上春樹の作品は大変魅力的なのだが、「ノルウェイの森」はどうしても心が揺さぶられない。村上春樹最大のヒット作であり、この作品を最高傑作とする読者も多い。そこで映画を観れば少しでもこの作品の良さが味わえるかもしれないと思い、購入して観た。映画自身には不満はない。原作の雰囲気を残そうとする配慮がみられ、良い仕上がりだと思う。しかし、もの悲しさは感じられても、余韻が残らない。これは原作でも感じたことだが、リアリティを描いているのに、非リアリティの要素が強く、しみじみとしないからであろう。登場人物が人間というより、人間の形をしたもののような、喜怒哀楽の極めて薄い人間もどきのような、そんな感覚なのである。自殺や死も多すぎて死の重みが薄れている。やはりこの作品は、村上長編作品の中では下位に位置するものであるという認識は変わらなかった。
2019年9月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
前から見たかった映画!
今度のDVDでゆっくり自宅で見れて良かった!
今度のDVDでゆっくり自宅で見れて良かった!
2023年3月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
映画と言う媒体で駆け足になってしまうことは、仕方ないが小説を読んだ身としては、少し残念な作品だった。この作品の原作を読み、映画でも視聴しようと思っている方は、物足りなさを感じるので、他サイトのレビューを見て判断することをお勧めする。
2021年9月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小説と合わせてみました。映画の方がイメージが限定されています。
2023年10月10日に日本でレビュー済み
1) 原作の基底に流れる政治の季節への嫌悪感
日本文学は第二次大戦後、長らく政治の季節に突入する。60~70年代には安保反対の学生運動が盛り上がり、それを反映した作品が数多く書かれた。例えば、高橋和巳、例えば『されどわれらが日々』…。村上春樹が『風の音を聴け』でデビューしたのは、70年安保の余燼がようやく治まった79年のことである。注目されたのは、その政治性の欠如、徹底したノンポリぶりで、吉本隆明は「テーマの欠如自体がテーマ」と評していた。
村上がこうした政治の季節に大いなる違和感を抱いていたことは、82年の『羊をめぐる冒険』で登場人物が語る「搾取? そんなものは存在しない」のひと言に示されていたと思う。そして87年の『ノルウェイの森』は、彼の政治の季節への嫌悪を全面的に表明したものだったのである。
小説は68~70年の日本の学生生活を背景にしているが、主人公のワタナベは大学をバリケード封鎖した学生たちを、内心で「下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ」と罵倒したり、「1969年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ」と、この時代への違和感を記す。
政治少年たちの愛読書が大江健三郎、ドストエフスキーだとしたら、ワタナベはフィッツジェラルドにアップダイク、寮の先輩・永沢はバルザック、コンラッド、ディッケンズ…よりによって政治的問題意識を排除した作家たち。そして、政治の季節の終焉を告げるように、性の季節とでもいうべきものを対置させるのである。
2) 政治の季節から性の季節へ
文学における性とは、それまでは政治的な性であり、反権力としての性だった。性的なものを隠そうとする権力を攻撃するための性、例えば「サド裁判」であり、『ボヴァリー夫人』であり、D・H・ローレンスであり、河出書房『人間の文学』全集だった。また愛とは堀辰雄のような理念であり、志賀直哉のような妄想であった。
しかし村上は本作で、ごく普通の学生の日常的な性愛を現実的に表現したのだった。そこでは従来、権力論や理念や妄想で語られていた男女の関係が、性や欲望、好き嫌いを中核とするものとして語り直されている。昔からポルノには事欠かなかったが、ここにあるのは読者が普通に行っていることをそのまま現実的に描写した純文学作品なのだ。
政治の季節を嫌悪し、政治的表現の一形態だった性愛を非政治的なものに置き換えた、「政治的なものに対する否定という政治的メッセージを含む小説」が本作だったと言えるのではないかw
死と性を大きな要素としたワタナベの非政治的青春は、「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ」というレイコの言葉で一つの帰結を迎えるのである。
日常的・現実的な性という意味では本作は文学作品としては新しいものだったろう。その自覚があるからこそ、村上はここから文学的に再出発を果たしたのではないか。(その後の作品は未読なのであくまで推測ですw)
作品末尾の「僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった」という唐突な表白は、政治の季節から自分を解放して性の季節に到達し、これからどのような表現をしていけばいいのかという文学的な当惑を表していた気がする。
3) サブカルチャーにおける性の先取りと本作の映画化の失敗
ところで映画や流行音楽といったサブカルチャーは一足早く、そうした現実の性的関係を描いていた。米国映画では1968年頃までに自主規制が無効化されたから、大胆な性的表現も当たり前のことだし、日本でも警察の猥褻罪関係の規制は徐々に緩んできていた。
性的表現では文学などより映画、音楽といったサブカルチャーのほうが先に進んでいたとするなら、87年時点で村上が文学表現において新しかったとしても、サブカルチャー的にはとくに斬新でも革新的でもなかったはずである。
表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌。つまりサブカルチャーは性的コミュニケーションを先取りし、それが日常化していた例証である。
とすると本作を映画化するにあたって性的表現を重視すると、ろくなことになりそうもない。むしろ政治的表現との対比から語りだすべきだった。それは誰にでもわかりそうな話なのだが、いかんせんこの映画はセックスを強調するかのように組み立てられた。
したがって構想の時点で失敗が決まっていたような話であるうえ、女性キャストが菊地に水原では如何ともしがたいだろう。しかも人物もストーリーも原作を単になぞっただけ…二重三重に失敗が決定されていた映画としか言いようがない。映像に素晴らしいものがあるだけに、何とも残念だ。
そういえば映画版『風の歌を聴け』も、日本の港のどんよりとした曇り空のシーンにビーチボーイズ『カリフォルニア・ガールズ』が流れる凄まじいものだったっけな。あのような愚挙を「政治性」と呼ぶのであるw
補足)
上記のレビューで「表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌」と書いたが、それと関連する本を最近読んだので、参考までにご紹介しておこう。
小関隆著『イギリス1960年代~ビートルズからサッチャーへ』には次のような記述がある。
「『ノーウェジアン・ウッド』を例にとれば、この曲が描くのは、1960年代に進展した性的モラルの変容を背景とした、どこか虚無的な男女の駆け引きである」
ビートルズ1963年のヒット曲「アイ・ウオント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」は何故、「手を握りしめたい」と歌ったのか。米国に比してイギリス社会はきわめて奥手だったから、ファンの少女たちに受け入れ可能なのはこの程度だったというのである。
しかし、この時期のイギリスは豊かな社会の到来と教会の権威・影響力の低下に伴い、文化革命が進展しつつあり、その一環として性的モラルも急速に変容していく。
ピルの普及により婚前・婚外セックスが広がり、公共放送BBCの教養番組では心理学者が「大切なのは純潔より愛だ」と講演した。国教会の偉い聖職者も「セックスは徹頭徹尾よきもの、神が与えたもの」と明言する時代であった。
『ノーウェジアン・ウッド』のような性的な駆け引きの歌が登場した背景には、このようなスインギング・ロンドンの時代における性的革命があったわけだ。
小関は「性に無知で、性行為に罪悪感を覚えていた若者たちが、性を語り、性の知識を獲得し、人生を充実させるものとして性行為を捉え直していったことは、たしかに革命と呼んでも過言ではない」と説明する。これは村上の小説のレビューに転用してもおかしくない。
『ノーウェジアン・ウッド』の発表は1965年、村上春樹『ノルウェイの森』の舞台となるのはそれからほぼ5年遅れの日本である。
当時、日本国内でビートルズの曲が性的な曲として理解されることはなかったに違いないが、流行歌のメインストリームである演歌は、ビートルズなどより遥かにキワドイ男女の関係を内容としていた。それは宇多田ヒカルの母親の代表曲を持ち出すまでもない。
したがってサブカルチャーが性的コミュニケーションを先取りしていた事実は動かないのだが、それをメインカルチャーである"純文学"化するには、さらに20年近くの時とバブル経済が必要だったのだろう。
日本文学は第二次大戦後、長らく政治の季節に突入する。60~70年代には安保反対の学生運動が盛り上がり、それを反映した作品が数多く書かれた。例えば、高橋和巳、例えば『されどわれらが日々』…。村上春樹が『風の音を聴け』でデビューしたのは、70年安保の余燼がようやく治まった79年のことである。注目されたのは、その政治性の欠如、徹底したノンポリぶりで、吉本隆明は「テーマの欠如自体がテーマ」と評していた。
村上がこうした政治の季節に大いなる違和感を抱いていたことは、82年の『羊をめぐる冒険』で登場人物が語る「搾取? そんなものは存在しない」のひと言に示されていたと思う。そして87年の『ノルウェイの森』は、彼の政治の季節への嫌悪を全面的に表明したものだったのである。
小説は68~70年の日本の学生生活を背景にしているが、主人公のワタナベは大学をバリケード封鎖した学生たちを、内心で「下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ」と罵倒したり、「1969年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ」と、この時代への違和感を記す。
政治少年たちの愛読書が大江健三郎、ドストエフスキーだとしたら、ワタナベはフィッツジェラルドにアップダイク、寮の先輩・永沢はバルザック、コンラッド、ディッケンズ…よりによって政治的問題意識を排除した作家たち。そして、政治の季節の終焉を告げるように、性の季節とでもいうべきものを対置させるのである。
2) 政治の季節から性の季節へ
文学における性とは、それまでは政治的な性であり、反権力としての性だった。性的なものを隠そうとする権力を攻撃するための性、例えば「サド裁判」であり、『ボヴァリー夫人』であり、D・H・ローレンスであり、河出書房『人間の文学』全集だった。また愛とは堀辰雄のような理念であり、志賀直哉のような妄想であった。
しかし村上は本作で、ごく普通の学生の日常的な性愛を現実的に表現したのだった。そこでは従来、権力論や理念や妄想で語られていた男女の関係が、性や欲望、好き嫌いを中核とするものとして語り直されている。昔からポルノには事欠かなかったが、ここにあるのは読者が普通に行っていることをそのまま現実的に描写した純文学作品なのだ。
政治の季節を嫌悪し、政治的表現の一形態だった性愛を非政治的なものに置き換えた、「政治的なものに対する否定という政治的メッセージを含む小説」が本作だったと言えるのではないかw
死と性を大きな要素としたワタナベの非政治的青春は、「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ」というレイコの言葉で一つの帰結を迎えるのである。
日常的・現実的な性という意味では本作は文学作品としては新しいものだったろう。その自覚があるからこそ、村上はここから文学的に再出発を果たしたのではないか。(その後の作品は未読なのであくまで推測ですw)
作品末尾の「僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった」という唐突な表白は、政治の季節から自分を解放して性の季節に到達し、これからどのような表現をしていけばいいのかという文学的な当惑を表していた気がする。
3) サブカルチャーにおける性の先取りと本作の映画化の失敗
ところで映画や流行音楽といったサブカルチャーは一足早く、そうした現実の性的関係を描いていた。米国映画では1968年頃までに自主規制が無効化されたから、大胆な性的表現も当たり前のことだし、日本でも警察の猥褻罪関係の規制は徐々に緩んできていた。
性的表現では文学などより映画、音楽といったサブカルチャーのほうが先に進んでいたとするなら、87年時点で村上が文学表現において新しかったとしても、サブカルチャー的にはとくに斬新でも革新的でもなかったはずである。
表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌。つまりサブカルチャーは性的コミュニケーションを先取りし、それが日常化していた例証である。
とすると本作を映画化するにあたって性的表現を重視すると、ろくなことになりそうもない。むしろ政治的表現との対比から語りだすべきだった。それは誰にでもわかりそうな話なのだが、いかんせんこの映画はセックスを強調するかのように組み立てられた。
したがって構想の時点で失敗が決まっていたような話であるうえ、女性キャストが菊地に水原では如何ともしがたいだろう。しかも人物もストーリーも原作を単になぞっただけ…二重三重に失敗が決定されていた映画としか言いようがない。映像に素晴らしいものがあるだけに、何とも残念だ。
そういえば映画版『風の歌を聴け』も、日本の港のどんよりとした曇り空のシーンにビーチボーイズ『カリフォルニア・ガールズ』が流れる凄まじいものだったっけな。あのような愚挙を「政治性」と呼ぶのであるw
補足)
上記のレビューで「表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌」と書いたが、それと関連する本を最近読んだので、参考までにご紹介しておこう。
小関隆著『イギリス1960年代~ビートルズからサッチャーへ』には次のような記述がある。
「『ノーウェジアン・ウッド』を例にとれば、この曲が描くのは、1960年代に進展した性的モラルの変容を背景とした、どこか虚無的な男女の駆け引きである」
ビートルズ1963年のヒット曲「アイ・ウオント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」は何故、「手を握りしめたい」と歌ったのか。米国に比してイギリス社会はきわめて奥手だったから、ファンの少女たちに受け入れ可能なのはこの程度だったというのである。
しかし、この時期のイギリスは豊かな社会の到来と教会の権威・影響力の低下に伴い、文化革命が進展しつつあり、その一環として性的モラルも急速に変容していく。
ピルの普及により婚前・婚外セックスが広がり、公共放送BBCの教養番組では心理学者が「大切なのは純潔より愛だ」と講演した。国教会の偉い聖職者も「セックスは徹頭徹尾よきもの、神が与えたもの」と明言する時代であった。
『ノーウェジアン・ウッド』のような性的な駆け引きの歌が登場した背景には、このようなスインギング・ロンドンの時代における性的革命があったわけだ。
小関は「性に無知で、性行為に罪悪感を覚えていた若者たちが、性を語り、性の知識を獲得し、人生を充実させるものとして性行為を捉え直していったことは、たしかに革命と呼んでも過言ではない」と説明する。これは村上の小説のレビューに転用してもおかしくない。
『ノーウェジアン・ウッド』の発表は1965年、村上春樹『ノルウェイの森』の舞台となるのはそれからほぼ5年遅れの日本である。
当時、日本国内でビートルズの曲が性的な曲として理解されることはなかったに違いないが、流行歌のメインストリームである演歌は、ビートルズなどより遥かにキワドイ男女の関係を内容としていた。それは宇多田ヒカルの母親の代表曲を持ち出すまでもない。
したがってサブカルチャーが性的コミュニケーションを先取りしていた事実は動かないのだが、それをメインカルチャーである"純文学"化するには、さらに20年近くの時とバブル経済が必要だったのだろう。
2016年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何度も読み返していた本だったので、映画化されると聞いた時は嬉しかったです。
映画も観に行きました。
映像は綺麗で良かったと思います。
ファッションなどもその当時を表わしていて、自然に話に入っていけました。
皆さんが書かれているように、本の中に出てくる色々なエピソードが抜けてしまっていることは少し残念でした。
寮で同じ部屋に暮らしている男の子の出番がもっと欲しかった。
本ではよく登場していたし、仲良しだったので…。
ワタナベが直子が亡くなったときの号泣しているところは胸を打たれました。
感情のままに泣くというのは、こういうことなのかな…と思いました。
ワタナベ役の松山ケンイチさんは合っていたと思う。
キズキくんも、初めの方の登場だっただけなのに、すごく強く印象に残っている。
こういう印象に残る演技はなかなか無いと思った。
その他の配役もそれぞれ合っていたと思うのですが、直子役だけは他の女優さんの方が良かった気がします。
人それぞれの直子像があると思うので、一概には言えませんが…。
このお話では、直子を中心として展開していると思うから、大事だったと思う。
また、可能なら映画化してほしいです。
映画も観に行きました。
映像は綺麗で良かったと思います。
ファッションなどもその当時を表わしていて、自然に話に入っていけました。
皆さんが書かれているように、本の中に出てくる色々なエピソードが抜けてしまっていることは少し残念でした。
寮で同じ部屋に暮らしている男の子の出番がもっと欲しかった。
本ではよく登場していたし、仲良しだったので…。
ワタナベが直子が亡くなったときの号泣しているところは胸を打たれました。
感情のままに泣くというのは、こういうことなのかな…と思いました。
ワタナベ役の松山ケンイチさんは合っていたと思う。
キズキくんも、初めの方の登場だっただけなのに、すごく強く印象に残っている。
こういう印象に残る演技はなかなか無いと思った。
その他の配役もそれぞれ合っていたと思うのですが、直子役だけは他の女優さんの方が良かった気がします。
人それぞれの直子像があると思うので、一概には言えませんが…。
このお話では、直子を中心として展開していると思うから、大事だったと思う。
また、可能なら映画化してほしいです。