狂気の愛 ソフィー・マルソー主演 [DVD]
フォーマット | 色, 字幕付き |
コントリビュータ | ソフィー・マルソー, フランシス・ユステール, アンジェイ・ズラウスキー, チェッキー・カチョ |
言語 | フランス語 |
稼働時間 | 1 時間 40 分 |
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商品の説明
フランスの大女優ソフィー・マルソー
人気絶頂期に大胆なヌードを披露した、『ポゼッション』(81)、『私生活のない女』(84)のアンジェイ・ズラウスキー監督による過激な問題作!
1981年『ポゼション』ではイザベル・アジャーニ、
1984年『私生活のない女』ではヴァレリー・カプリスキー、
そして本作『狂気の愛』ではソフィー・マルソー、
と絶えずその時代の最も最先端な女優を使い、
問題作を発表してきたアンジェイ・ズラウスキー。
ドストエフスキーの「白痴」を原作にした異色のラブストーリー。
ギャングの情婦と刑務所帰りの2人の男。
この3人の復讐、抗争、そして愛。複雑な人間模様が展開される、80年代フランス映画の人気作!
監督:アンジェイ・ズラウスキー
脚本:エチエンヌ・ローダ=ジル
撮影:ジャン=フランソワ・ロバン
音楽:スタニスラス・サイレウィック
出演:ソフィー・マルソー/フランシス・ユステール/チェッキー・カチョ
1985年 フランス作品
登録情報
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : フランス語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 81.65 g
- EAN : 4933672240206
- 監督 : アンジェイ・ズラウスキー
- メディア形式 : 色, 字幕付き
- 時間 : 1 時間 40 分
- 発売日 : 2012/9/28
- 出演 : ソフィー・マルソー, フランシス・ユステール, チェッキー・カチョ
- 字幕: : 日本語
- 販売元 : IVC,Ltd.(VC)(D)
- ASIN : B008I197WK
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 137,872位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 611位外国のエロス映画
- - 2,459位外国のラブロマンス映画
- - 13,324位外国のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年10月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
俳優を追い詰めることによりエキセントリックな演技を引き出し、破壊的なパワーを感じさせる独自の演出力を感じさせるズラウスキー監督であるが、今作は非常にとっつきにくい作品であった。
登場人物たちは、微妙にかみ合わない科白を大声で語り、役者を映すカメラは休まず落ち着くことなく動き回り、映画鑑賞者に緊張感を持続させることになり、見続けることに多大な体力を要させる感覚を持った。”私生活の無い女””ポゼッション”では、ローアングルを印象的に使い、女優のほとばしる躍動感をとらえつつ、緩急取り混ぜた構成により、心地よい緊張感を感じながらも楽しめた。
しかし、今作では、導入部分の特異な演出から始まり、既存のマフィア映画をぶち壊すような大胆な表現があり、登場人物のつながりは読み取りにくく、困惑したまま作品世界に放り込まれ、見終える頃は個人的にヘトヘトであった。
基本的に映画を見る前は、前情報を入れないスタンスであるが、今作に限り、物語の概要を知り、主要人物の他者との関係性を知ったほうが楽しめるのではと思ってしまった。
ドストエフスキーの”白痴”をモチーフにしているそうであるが、ロシア文学に精通している方の多角的な解説は聞いてみたいところである。
かつてのアイドル女優S・マルソーのフルヌードが大きな売りになっている本作であるが、鑑賞前の下調べにより、作品自体も楽しめると思うので、未見の方には事前情報収集をお勧めする。
登場人物たちは、微妙にかみ合わない科白を大声で語り、役者を映すカメラは休まず落ち着くことなく動き回り、映画鑑賞者に緊張感を持続させることになり、見続けることに多大な体力を要させる感覚を持った。”私生活の無い女””ポゼッション”では、ローアングルを印象的に使い、女優のほとばしる躍動感をとらえつつ、緩急取り混ぜた構成により、心地よい緊張感を感じながらも楽しめた。
しかし、今作では、導入部分の特異な演出から始まり、既存のマフィア映画をぶち壊すような大胆な表現があり、登場人物のつながりは読み取りにくく、困惑したまま作品世界に放り込まれ、見終える頃は個人的にヘトヘトであった。
基本的に映画を見る前は、前情報を入れないスタンスであるが、今作に限り、物語の概要を知り、主要人物の他者との関係性を知ったほうが楽しめるのではと思ってしまった。
ドストエフスキーの”白痴”をモチーフにしているそうであるが、ロシア文学に精通している方の多角的な解説は聞いてみたいところである。
かつてのアイドル女優S・マルソーのフルヌードが大きな売りになっている本作であるが、鑑賞前の下調べにより、作品自体も楽しめると思うので、未見の方には事前情報収集をお勧めする。
2022年7月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今回の2022死ぬまでにコレを観ろはリバーシブルジャケットではありません。背表紙にしっかりロゴが入っておりますのでご注意下さい。
2021年7月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ソフィーマルソーのファンだったので、三十年以上前にビデオで見たが、難解すぎて理解できなかった。今回改めて見直したけど、やはり理解はできなかった。ただ、映像はとてもキレイになっており、モザイクもなくなっていた上、ソフィーのコメントなどの特典映像も多数入っていたので、それだけでも良かったと思います。
2014年5月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ポーランドの鬼才アンジェイ・ズラウスキー監督が、
「ポゼッション」(80)、「私生活のない女」(84)に続いて撮った作品(1984年製作)。
主要登場人物は、フランシス・ユステール(レオン役)、チェッキー・カリョ(ミッケー役)、
そしてソフィー・マルソー(マリー役)の三人。
撮影当時(18歳)のソフィー・マルソーが、大胆なヌードを披露した事で話題になっている。
撮影(兼出演)は、後にイザベル・アジャーニ主演作「殺意の夏」(83)を担当するエチエンヌ・ベッケルと、
「修道女」(66)のアラン・ルヴァン。音楽は、フランスの電子音楽家ジャン=クロード・エロワが担当、
電子音が空間を埋め尽くすテクノ・打ち込み系が印象的。
無気力な夢想家と強盗団の首謀者とギャングの情婦が織り成す男女の奇妙な三角関係を軸に描いた、
犯罪ドラマ+過激なラブロマンス。
フョードル・ドストエフスキーの長編小説「白痴」をベースにズラウスキーと、
エチエンヌ・ローダ=ジル(「私生活のない女」に出演)が脚色した作品である。
「白痴」の主人公ムイシュキン公爵は、本作のハンガリーの公爵の息子レオンに相当する。
ミッキー・マウスやドナルド・ダック等の面を着けた四人組の男達が銀行強盗を遂行する場面で幕開け。
馬鹿騒ぎしながら逃走する男達は、パリ行きの列車に乗り込む。そこで強盗団の首謀格ミッケー(カリョ)は列車の中で、
ハンガリーからやって来た夢想家のレオン(ユステール)と出会い、意気投合し、友人となる。
パリに着くとミッケーは、レオンや仲間達と愛する女マリー(マルソー)を手に入れる為、
ギャングのブナン兄弟に囲われている彼女の住む高級マンションのもとに向かった...。
登場人物には誰一人として真面な人間がいない。非常に支離滅裂で乱雑で意味のない台詞が飛交う。
躁状態で滅茶苦茶騒ぎ立てるわ、略奪暴行の限りを尽くすわ、矢鱈と人を殺しまくるわ、
薬を打ったような病的に狂った人間たちのオンパレードで描く。
観ている側が、分るように説明してくれる描写は一切ない。通常の神経の人には耐えられない映画である。
ミッケーと付き合う事によってレオンはギャングの情婦マリーを巡る争いの中に巻き込まれていく作品である。
ズラウスキー監督の作品についての一般的なイメージは「狂気」であろう。
登場人物の男女の全てが泣き叫び、怒鳴り喚くというヒステリックな映画が多い。自分の欲望の赴くまま、
好き勝手に振る舞う。ズラウスキーは、抑制の効かない狂気を意図的に扱っているのだ。
食卓に並べられた料理や食器は滅茶苦茶になり、 所狭し銃撃戦が始まり、室内に置かれた様々な物が、
燃やし尽くされ、あらゆるものが投げ飛ばされる。混沌と破壊を生み出す登場人物こそが、
ズラウスキー映画に特徴的な狂気の人間なのである。
無秩序な世界の中で展開されていく物語は分りづらい事であろう。
その狂った世界にいる主人公レオンは、矢張り、狂気の人間である。人生の軌道修正がままならず、
その圧力や精神的重圧の為に気が狂うのであり、社会システムが彼を狂人にした原因と考えられる。
レオンは、物事を多様な観点から捉える事が出来ない奇妙な性質である。
ドストエフスキーの原作は全体を覆う世界観では、本作と比較して社会的な現実に足がついていないように思える。
映画と小説では表現方法の違いは確かにある。
しかし、本作では小説で表現できない映画的な表現、現実的な厳しさが強烈である。
ズラウスキーの手法は、演劇的な法則に基づき社会秩序において役者の狂気を維持するように演出されているのである。
その為、役者達は段々と映画と生活の区別がなくなっていくという。
特に女優は私生活を犠牲にしてでも、与えられた役に精魂を傾けるようである。
役者達の芝居は儀式的に現実から区切られたものではなく、生活の延長となるのである。
本作の劇中に舞台の場面があり、マリーは劇の一場面を演じてみせるのだが、
立ち振る舞いは舞台の下での行動と違いがない。
例え演技であるとしても狂気じみたそれは、女優に「私よりも上手い」と言わしめるのである。
だが、我々観る側に映るその姿は同じに見える。詰り、ズラウスキーの描く人間は「演じない」人間である。
演じる事を煎じ詰めて考えれば「演じない」事に辿り着く。
台詞を読んでいるという意識を断ち、前もって読んでおこうという意識を捨てなければならない。
劇の人物に憑依し、相手の台詞の発し方に瞬時に適切に反応するのみである。
それが「台詞を聞く⇒感じる⇒反応する」というプロセスを巧妙に組み立てるという事につながるらしい。
筆者的には、思想・哲学に病的に傾倒する支離滅裂で荒唐無稽な作風のようで、
ズラウスキーによる演出技法と演技のプロセスが見事に絡み合った傑作の1本と評価したい。
「ポゼッション」(80)、「私生活のない女」(84)に続いて撮った作品(1984年製作)。
主要登場人物は、フランシス・ユステール(レオン役)、チェッキー・カリョ(ミッケー役)、
そしてソフィー・マルソー(マリー役)の三人。
撮影当時(18歳)のソフィー・マルソーが、大胆なヌードを披露した事で話題になっている。
撮影(兼出演)は、後にイザベル・アジャーニ主演作「殺意の夏」(83)を担当するエチエンヌ・ベッケルと、
「修道女」(66)のアラン・ルヴァン。音楽は、フランスの電子音楽家ジャン=クロード・エロワが担当、
電子音が空間を埋め尽くすテクノ・打ち込み系が印象的。
無気力な夢想家と強盗団の首謀者とギャングの情婦が織り成す男女の奇妙な三角関係を軸に描いた、
犯罪ドラマ+過激なラブロマンス。
フョードル・ドストエフスキーの長編小説「白痴」をベースにズラウスキーと、
エチエンヌ・ローダ=ジル(「私生活のない女」に出演)が脚色した作品である。
「白痴」の主人公ムイシュキン公爵は、本作のハンガリーの公爵の息子レオンに相当する。
ミッキー・マウスやドナルド・ダック等の面を着けた四人組の男達が銀行強盗を遂行する場面で幕開け。
馬鹿騒ぎしながら逃走する男達は、パリ行きの列車に乗り込む。そこで強盗団の首謀格ミッケー(カリョ)は列車の中で、
ハンガリーからやって来た夢想家のレオン(ユステール)と出会い、意気投合し、友人となる。
パリに着くとミッケーは、レオンや仲間達と愛する女マリー(マルソー)を手に入れる為、
ギャングのブナン兄弟に囲われている彼女の住む高級マンションのもとに向かった...。
登場人物には誰一人として真面な人間がいない。非常に支離滅裂で乱雑で意味のない台詞が飛交う。
躁状態で滅茶苦茶騒ぎ立てるわ、略奪暴行の限りを尽くすわ、矢鱈と人を殺しまくるわ、
薬を打ったような病的に狂った人間たちのオンパレードで描く。
観ている側が、分るように説明してくれる描写は一切ない。通常の神経の人には耐えられない映画である。
ミッケーと付き合う事によってレオンはギャングの情婦マリーを巡る争いの中に巻き込まれていく作品である。
ズラウスキー監督の作品についての一般的なイメージは「狂気」であろう。
登場人物の男女の全てが泣き叫び、怒鳴り喚くというヒステリックな映画が多い。自分の欲望の赴くまま、
好き勝手に振る舞う。ズラウスキーは、抑制の効かない狂気を意図的に扱っているのだ。
食卓に並べられた料理や食器は滅茶苦茶になり、 所狭し銃撃戦が始まり、室内に置かれた様々な物が、
燃やし尽くされ、あらゆるものが投げ飛ばされる。混沌と破壊を生み出す登場人物こそが、
ズラウスキー映画に特徴的な狂気の人間なのである。
無秩序な世界の中で展開されていく物語は分りづらい事であろう。
その狂った世界にいる主人公レオンは、矢張り、狂気の人間である。人生の軌道修正がままならず、
その圧力や精神的重圧の為に気が狂うのであり、社会システムが彼を狂人にした原因と考えられる。
レオンは、物事を多様な観点から捉える事が出来ない奇妙な性質である。
ドストエフスキーの原作は全体を覆う世界観では、本作と比較して社会的な現実に足がついていないように思える。
映画と小説では表現方法の違いは確かにある。
しかし、本作では小説で表現できない映画的な表現、現実的な厳しさが強烈である。
ズラウスキーの手法は、演劇的な法則に基づき社会秩序において役者の狂気を維持するように演出されているのである。
その為、役者達は段々と映画と生活の区別がなくなっていくという。
特に女優は私生活を犠牲にしてでも、与えられた役に精魂を傾けるようである。
役者達の芝居は儀式的に現実から区切られたものではなく、生活の延長となるのである。
本作の劇中に舞台の場面があり、マリーは劇の一場面を演じてみせるのだが、
立ち振る舞いは舞台の下での行動と違いがない。
例え演技であるとしても狂気じみたそれは、女優に「私よりも上手い」と言わしめるのである。
だが、我々観る側に映るその姿は同じに見える。詰り、ズラウスキーの描く人間は「演じない」人間である。
演じる事を煎じ詰めて考えれば「演じない」事に辿り着く。
台詞を読んでいるという意識を断ち、前もって読んでおこうという意識を捨てなければならない。
劇の人物に憑依し、相手の台詞の発し方に瞬時に適切に反応するのみである。
それが「台詞を聞く⇒感じる⇒反応する」というプロセスを巧妙に組み立てるという事につながるらしい。
筆者的には、思想・哲学に病的に傾倒する支離滅裂で荒唐無稽な作風のようで、
ズラウスキーによる演出技法と演技のプロセスが見事に絡み合った傑作の1本と評価したい。