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舞踏会 Kindle版

4.0 5つ星のうち4.0 114個の評価

大正期に活躍した「新思潮派」の作家、芥川竜之介の短編小説。初出は「新潮」[1920(大正9)年]。「夜来の花」[新潮社、1921(大正10)年]などに収録されている。「一」は初めて鹿鳴館の舞踏会に出る「明子」と将校の話、「二」は年老いた「明子」がH老夫人として登場する話。「二」の老夫人の行動の読解については読みが分かれるところである。
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登録情報

  • ASIN ‏ : ‎ B009IWNIOG
  • 発売日 ‏ : ‎ 2012/9/27
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • ファイルサイズ ‏ : ‎ 275 KB
  • 同時に利用できる端末数 ‏ : ‎ 無制限
  • Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) ‏ : ‎ 有効
  • X-Ray ‏ : ‎ 有効にされていません
  • Word Wise ‏ : ‎ 有効にされていません
  • 付箋メモ ‏ : ‎ Kindle Scribeで
  • 本の長さ ‏ : ‎ 8ページ
  • カスタマーレビュー:
    4.0 5つ星のうち4.0 114個の評価

著者について

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芥川 龍之介
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(1892-1927)東京生れ。東京帝大英文科卒。在学中から創作を始め、短編「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。

その後今昔物語などから材を取った王朝もの「羅生門」「芋粥」「藪の中」、中国の説話によった童話「杜子春」などを次々と発表、大正文壇の寵児となる。西欧の短編小説の手法・様式を完全に身に付け、東西の文献資料に材を仰ぎながら、自身の主題を見事に小説化した傑作を多数発表。1925(大正14)年頃より体調がすぐれず、「唯ぼんやりした不安」のなか、薬物自殺。「歯車」「或阿呆の一生」などの遺稿が遺された。

カスタマーレビュー

星5つ中4つ
5つのうち4つ
114グローバルレーティング

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上位レビュー、対象国: 日本

2019年12月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は、恋愛というものには疎くて、この物語の歴史的背景もよく分かりません。純粋に物語として読んだ感想を書きたいと思います。もしかしたら全くの見当違いのことを書いているのかもしれませんが。
 
 まだ恋も知らないような、初めての社交界にデビューする、まだ初々しい17歳のとても美しく聡明な令嬢と、その令嬢に恋をした生きることに飽き飽きしているような(皮肉そうに「巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じ事です。」と呟いています。)フランスの海軍将校の、一瞬だけれども美しい関係を描いた物語なのだと思います。

 男性は、その令嬢に会って救われて一生その恋を拠り所に生きるような恋をしますが(つまり、彼にとって必要な裏切ることのない恋だったのだと思います。)でも、押しつけがましくはありません。令嬢の方は、スパイスになるような少しの駆け引きの後、その夢のようなシチュエーションにうっとりとはしますが、まだ、別に恋によって救われなければならないような心理状態でもありません。
 とても華やかで美しい舞台で、相手の男性も申し分のない翳のある理想的な青年で、その少女に出会うことで救われ、後々まで想いをを捧げつくすような一生を送ったようです。その男性は、少女のとても素晴らしい小説を残す(と決めつけていますが)ような才能もあります。その後も令嬢の事を思い続けて生きていることが分かります。あくまでもさりげなく。日本の美少女の威力を見せつけるような物語です。

 令嬢も、別にその男性によって傷つけられるようなことも全く無く、後を引くようなこともなくケロッとしています。大事なものだから形にして後に残しておこうといったみみっちい考えもありません。その夜以上のものを必要としなかったのかもしれません。満たされたのかもしれません。なんと豪華な事でしょう。それは、(二)の後日譚での老夫人となった明子のあっけらかんとした証言でも分かります。その夜だけ別世界にいたかのようです。夾雑物のないとても純粋な体験だったのだと思います。

 その舞踏会で、相手の男性と花火を見ながらその花火の生(vie)と同じような、その一瞬の生に思いを込めるような、でも生臭さのない澄んだ純粋な光のような青年将校の想いとともに時を過ごします。二人が恋といえる感情の中にあったのは、まだ恋の中にいることを知らないだろう明子が、見ている花火が悲しいほど美しく感じられたことと、そのことを青年将校がちゃんと分かっていて、それが恋だとは言わずに「我々の」と花火を例えに教えていることから察することができると思います。そして、その絶頂で惜しげもなくスッとその場面を終えています。(花火が消えるように。この恋そのものが花火のようなものだったのではないでしょうか。)そのため、昂まりのそのイメージがいつまでも消えません。永遠に残りそうです。
 明子は、もしかしたら恋の中にいながらも、終には自分が恋していたとは気付かなかったのではないでしょうか。
 これは、とても現実のものとは思えない、幻燈の影絵のような物語です。

 私は、女性として理想的な一生を送る『マディソン郡の橋』(映画のほうです。夫ともちゃんと添い遂げたうえで、ひと時の不倫関係の男性からも離れたまま一生愛されて、子供たちからもすべてを知ったうえで「とても素晴らしい一生を送った」と画竜点睛を描いたような祝福を受けます。)をつい思い出してしまいました。それの社交界版だと思います。女性の理想なのではないのでしょうか。完璧な恋物語なのではないでしょうか。少なくとも男性から見るとそのように思ってしまいます。

 理想的で幸福な女性を見ることは男性にとっても元気の出ることだと思います。
だから、私もこの物語を読んでとても満たされました。
 こんなおめでたい読み方をしているのは私くらいだと思いますが。
でも、そうとでも考えないと、なぜ芥川がこのような物語を書いたのかよく分かりません。
芥川は皮肉屋と見られがちですが、そんなロマンチックな面もあったのではないでしょうか。

 また、この物語も芥川の美しさへの想いを込めた花火のような物語で、この種のものもこれ一作で充分だったのかもしれません。
 
 (後にネットで京都大学学術情報リポジトリ紅の吉田 城さんという方の「ある文明のまなざし 芥川龍之介『舞踏会』とピエール・ロティ」という論文で、この『舞踏会』についてロティの小説をもとにした詳細な分析を読ませていただきました。
 『舞踏会』の下敷きになったとされるロティの『江戸の舞踏会』と『秋の日本』では、当時の日本の様子をかなり後進国として冷徹に観察していたようです。
 でも、だからこそ芥川は祖国のために観察し冷徹な文章を書いた作家ピエル・ロティではなく、人間としてのジュリアン・ヴィオを芥川なりに詩的にふくらませて一夜の夢として豊かに描いたのではないでしょうか。吉田さんの論文でも『舞踏会』は、明子の視点から見た詩的な創作だろうというように書いてあったと思います。
 明子も、海軍将校から好ましく見られていながら、その自分が「この娘は本当にあの日本の人々と同じ奇妙な習俗の中で暮らしているのだろうか」と男から不思議がられているだろうことを想像して面白がっているようです。
 芥川も、このような物語のほうが好みだったのではないでしょうか。芥川なりのロティへの返事だったのではないでしょうか。)

後記:『お菊さん』ピエル・ロチ・作 /野上豊一郎・訳(響林社文庫 Kindle版)を読みました。『舞踏会』の最後に出てくる『お菊夫人』ですね。
 たぶん、当時の日本(ナガサキ)は、このような様子だったのだと思います。でも、読んでいて快いものではありませんでした。
 作品そのものが、なんとなく貧しく感じてしまう一因には、作者その人の内面が貧しいからなのでは、と思ってしまいます。同じ対象を見ても、ある人は美しく描けるし、ある人は貧しく描いてしまうのではないでしょうか。確かに、当時の日本人も、ちゃんと相手に通じる自分というものを持っていなかったのだとは思いますが、この主人公も少し未熟なところもあるのではないでしょうか。
 日本人たちの事も女性たちの事も、まるでペットのような感じで見ているようで、「私たちの小さい学のある犬たち」と呼んでいます。
 お菊さんとも戯れ事のような結婚をしますが、理解することも愛することもできなかったようです。日本にも飽き飽きして、お菊さんにも興味が薄れ醒めていき捨ててしまいます。
 「世界中、どこも似たようなものだ」と来てすぐと去るときに思いながらも、いざ一緒にいるときには理解できないままのようです。
 読んでいて、私も、理解されないお菊さんや当時の日本人が可哀そうになってしまいました。(私もよく、そんなふうに扱われるのでよく分かります。)同じように芥川も可哀そうに思い、悔しかったのだと思います。それで、何とかしてやりたくなって書いたのがこの『舞踏会』なのだと思います。
 そこで、『お菊夫人』の主人公の「世界中どこも似たようなものだ」という言葉をテコにして、SFのパラレルワールドのように「世界中似たようなもの」になった世界を創り出し、日本で、それにふさわしい、一人の人格を持った女性を創り出して明子にジュリアン・ヴィオの相手をさせたのではないのでしょうか。(それは、ヴィオが少しは興味を持ったマダム・プリュヌに近かったのかもしれません。)

 二人で食卓に着いた時に「『いえ、巴里の舞踏会も全くこれと同じ事です。』海軍将校はかう云いながら、二人の食卓を巡ってゐる人波と菊の花とを見廻したが、忽ち皮肉な微笑の波が瞳の底に動いたと思ふと、アイスクリイムの匙を止めて、『巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じ事です。』と半ば独り語のやうにつけ加へた。」とあるのは、芥川がジュリアン・ヴィオに言わせたのだと思います。『お菊さん』の意趣返しなのかもしれません。

 『お菊夫人』が書かれたのが1887年で、『舞踏会』の舞台が1886年になっています。(冒頭にわざわざ「明治十九年十一月三日の夜であった。」と断っています。)つまり、『お菊夫人』の世界とは別の、パラレルワールドでの物語なのではないでしょうか。
 だから、H老夫人となった明子は「いえ、ロティと仰有る方ではございませんよ、ジュリアン・ヴィオと仰有る方でございますよ」と呟いていたのではないでしょうか。
 つまり『舞踏会』での明子の体験は、ロティの『お菊夫人』が存在しなかったその前の年に戻った世界での体験だったのではないでしょうか。同時に、ロティの『お菊夫人』という小説を芥川は認めていない、という事なのではないでしょうか。
 もしかして、芥川は、小説で歴史を書き換えてしまったのでは。この短編は芥川の悪戯心と言えるのかもしれません。。ニヤリと笑っているのかもしれませんね。

 以上の事は荒唐無稽と思われるかもしれませんが、後から読んだ、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』の特に「二十二 近松門左衛門」と「二十三 模倣」で語っているところを読むと、私はこのような感想を強く持ってしまいました。
 「近松門左衛門」では、「近松はシエクスピイアのやうに殆ど理智を超越している。(略)それから又戯曲の中に美しい一行を散らしている。」「シエクスピイアは羅馬(ロオマ)の都に時計を置いて顧みなかった。近松も時代を無視してゐることはシエクスピイア以上である。のみならず神代(かみよ)の世界さへ悉(ことごと)く元禄時代の世界にした。それらの人物も心理描写の上には存外屡(しばしば)写実的である。」と語っています。
 そして「模倣」では、「この互に軽蔑し合うことは避けがたい事実とは云ふものの、やはり悲しむべき事実である。」と語り、さらに「僕等の精神的生活は大抵は古い僕等に対する新しい僕等の戦ひである。」「彼等は僕等に一顧も与えてゐない。僕等は彼等には未開人である。」と語り、「なほ又次手(ついで)につけ加えれば、彼等も亦本質的にはやはり僕等と異ってゐない。僕等は(彼等も一しよにした)皆世界と云ふ箱船に乗った人間獣の一群である。しかもこの箱船の中は決して明るいものでない。殊に僕等日本人の船室は度(たび)たび大地震に見舞はれるのである。」と語っている。

 先程は、食卓での「舞踏会は何処でも同じ事です。」を意趣返しでは、と書きましたが、こう読むと芥川は「皆同じなのだから、そのようなわだかまりを超えて手を取り合っていくべきだ」と考えていると取るべきなのではなかったか、と思います。
 芥川の想いを代弁し明子さんは、こちらから手を差し伸ばしているのではないでしょうか。「僕等は丸善(洋書のこと?)のある為に多少彼等の魂を知ってゐることは確かである。」から。
 明子さんが花火を「殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれ」、海軍将校が「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴイ)のやうな花火の事を。」と自分が、短いかもしれないけれども素晴らしい世界をイメージして満足していることを伝え、そのような平和的な空気の中で、和解したのではないでしょうか。
 最初に読んだ時にロマンチックな物語だな、と思えたのはこのようなポジティブな意図があったからではないのでしょうか。

 ただ、『お菊さん』の訳者あとがきで、成功はしていないが、ロティは「正直」で「我々の間に入り込んで、いかに我々を理解しようと努めたか、いかに我々の文化を理解しようと努めたか、ということ」は読者に感じてほしい、ということを書いています。彼らは本気で海外を理解しようと実行していたらしいですね。
 
 残念ながら『江戸の舞踏会』は未読です。このレビューも、新たに読み進めるうちに、感想が変わっていってます。また読んだら変わっていくかもしれません。バタバタしてすみません。
 
 追記:とりあえず『江戸の舞踏会』(ピエール・ロチ、村上菊一郎 訳『秋の日本』角川文庫 Kindle版 所収)を読みました。
 内容は、舞踏会の出席者の描写の羅列で終わっているようです。観察ノートのような覚書のようなものでした。ただ、その中で十五さい位の工兵将校の令嬢の描写だけが、全体のシニカルな即物的な描写の中では生き生きしているので、芥川もインスパイアされたのではないでしょうか。
 この作品のどこが芥川の『舞踏会』とつながっているのかよく分かりませんでした。
 『舞踏会』は、ロティの『江戸の舞踏会』とは別物の、芥川の全くの独自の作品と言ってもいいような気がします。
 芥川も鹿鳴館をやってみたかったのではないでしょうか。
 私の読解力が足りないのでしょうが。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2021年7月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
文明開化の明治、鹿鳴館で繰り広げられる舞踏会。西洋のドレスに身を纏い
踊りを楽しむ上層階級の淑女、紳士たち。まるで、当時にタイムスリップし
たかのように、場面が目に浮かぶのです。
ラスト、一緒にダンスを踊った仏蘭西人海軍将校の名が、Julien Viaud
と老婦人が語るのだが、それは作家のピエル・ロテイですよねと、青年
が聞き返すと、いえ、違います、Julien Viaudという方ですというオチ
であるのだが、前知識のない私には、全くピンとこない。
きっと、作家名にオチに繋がる何かがあるに違いないとWikipediaで検索。
スランス人作家のピエル・ロテイは、明治時代に2回も来日した作家で
あるが、鹿鳴館のパロディを作品にしたり、日本人に嫌悪感を持っていた
作家であったという。すると、このラストの一行は、皮肉パンチが効いて
いるという事になる。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2021年7月29日に日本でレビュー済み
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〇 作者はこの作品で小説作成技術を試したかったのではないだろうか。すなわち、令嬢を愛らしく描く描写技術と、過去の回想を美しく表現する技術。

〇 内容はなんということもない。鹿鳴館の昔、初めて舞踏会に参加した清楚な令嬢が美しいフランス海軍士官と出会って忘れがたいひと時を過ごした、というだけのこと。この士官は物憂げで何か屈折した思想を持っていそうだが、それを重視することはない。彼がいかに美しくても軽薄なドンファンだったら令嬢の値打ちも下がってしまうから、そうしたまでのことだろう。

〇 最後になって、その舞踏会の物語が、某老婦人の語る回想であることが明らかになるのだが、これによって場面場面の錦絵のような色鮮やかさも少しくすんだように感じられ、四辺の縁が霞んだように(ちょうど木下恵介の映画「野菊の墓」の画面のようだ)思えてくる。作者はこの作品でこんな視覚的な効果を試そうとしたのではあるまいか。
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2022年6月3日に日本でレビュー済み
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芥川の有名な短編です。有名な文筆家が評論の對照にしてゐますが、ちょっと違うなぁ、と思いました。芥川はピエール・ロティの「秋の日本」に収録された「江戸の舞踏会」を元に本作を書きましたが、要するにピエール・ロティの視點で書かれたものを、日本人女性(明子)の視點で書きなおしたもの、と謂えます。芥川が最後の一節を書きなおして、明子がフランス海軍士官がピエール・ロティであるとは知らなかった事にしたのは、其の趣旨に合わないからでしょう。「江戸の舞踏会」と讀み比べて見ないと解らない部分で、芥川の關心は、同じ花火を見ながら會話する二人の内面が噛み合っていない部分にあった様に思えます。

「花火」のロマンス的な部分だけに着目するのでは無く、「舞踏会は何処でも同じ事です」の部分との關係が大切です。どこでも同じ事である舞踏會よりも、日本にしか無いもっと素晴らしいものがあるではないか、西洋の真似事に熱心な日本人への冷ややかな感想でしょう。時代が代わり、社會の階層が入れ替わった時に新興階層が自分達を差別化するために頼ろうとする外來のもの(舞踏会)が、一瞬にして消える花火のような人生に相応しい價値を持つのだろうか、芥川がロティに共感を覚えたとすれば、此の部分でしょう。
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2022年1月3日に日本でレビュー済み
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北村薫「太宰治の辞書」に収録されている「花火」という作品のなかで、この「舞踏会」について語られていたので、興味を引かれて読んでみました。必死の欧化政策の結晶のようだった鹿鳴館も、そこでワルツを踊った賢く可憐な少女も、彼女と踊ったフランス人将校には、一瞬の輝きを残して消える花火のように虚しく見えていたのかどうか。複雑な余韻の残る作品でした。
2019年11月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
明治の鹿鳴館といえば、猿まね的洋化の象徴として批判されることが多いが、当時の日本に出現したエアポケットのような空間だったようにも思う。そういう不思議な情緒をうまく表現している一編。歴史的には無用な一事だったのかもしれないが、日本人にとって貴重な体験だったとも思う。
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2014年3月2日に日本でレビュー済み
鹿鳴館の舞踏会で踊られた令嬢が老婦人となり、若い作家との話で、作家の興味と一般女性の興味のずれを描いている様に思いました。ラストは何やら落語の落ちを思い起こしました。
10人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2021年8月25日に日本でレビュー済み
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ずっと読みたいと思っておりましたので、すごく嬉しかったです。
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