敬太郎という男が、自分の人生において己の行動による結果、つまり、経験によって得たものがないのを悩み、数人の人物のエピソードを聞いて、己の人生経験の足しにする話。
また、裏主人公の須永という男が、母と幼馴染の千代子との関係に悩みながら、自己の確立を目指す話。
この本には、漱石自身も苦しんだ神経症に対する対策が随所に入っている。外の世界に関心を向ける叔父の松本と、自己の世界に籠って想像が止まらない須永。旅先で何も考えずに窓からの景色を眺めることで神経の回復を得た須永。そのほかにも随所にそれが散見される。
個人的には須永が千代子に言われた「あなたは卑怯だ」というセリフと、須永が叔父の松本に対して言った「あなたは不親切だ」というセリフのつながりが好き。平生の須永なら叔父に対してこんな思い切ったことは言わなかったと思うが、千代子に言われた言葉が図らずとも須永を変えたのだろうか。
Kindle 価格: | ¥0 |
を購読しました。 続刊の配信が可能になってから24時間以内に予約注文します。最新刊がリリースされると、予約注文期間中に利用可能な最低価格がデフォルトで設定している支払い方法に請求されます。
「メンバーシップおよび購読」で、支払い方法や端末の更新、続刊のスキップやキャンセルができます。
エラーが発生しました。 エラーのため、お客様の定期購読を処理できませんでした。更新してもう一度やり直してください。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
彼岸過迄 Kindle版
明治期の文学者、夏目漱石の長編小説。初出は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」[1912(明治45)年]。続く「行人」「こころ」とあわせ後期三部作とされる。修善寺で生死の間を彷徨い、五女のひな子の急死などに直面したあとの小説。人間の心の奥の苦悩と愛の不毛を描く。主人公の川田敬太郎が聞き手としてさまざまな登場人物を引き出す6編の短編と「結末」からなる。長編小説の新しい手法の先駆と位置づけることができる。
- 言語日本語
- 発売日2012/9/27
- ファイルサイズ582 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
この著者の人気タイトル
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
日本の小説家、評論家、英文学者。森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。1867年(慶応3)江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。本名は夏目金之助。東京帝国大学英文科卒業後、東京高等師範学校、松山中学、熊本第五高等学校などの教師生活を経て、1900年、イギリスに留学。帰国後、第一高等学校、東京帝国大学の講師を務める。1905年、処女作『吾輩は猫である』を発表。翌年『坊っちゃん』『草枕』を発表。1907年、教職を辞し、朝日新聞社に入社。以後、朝日新聞に『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』などを連載するが、1916年(大正5)12月9日、『明暗』の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳。
登録情報
- ASIN : B009IXKGJU
- 発売日 : 2012/9/27
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 582 KB
- 同時に利用できる端末数 : 無制限
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 325ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: 無料タイトル - 460位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 51位評論・文学研究 (Kindleストア)
- - 60位日本の小説・文芸
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

(1867-1916)1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。
帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表し大評判となる。
翌年には『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年5月25日に日本でレビュー済み
レポート
Amazonで購入
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2020年2月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
It has a sentence, "Ending", that concludes the story so that people like me do not get lost.
At this point, I was able to recognize the intent of the story well and read it clearly.
As a whole, the degree of suffering of the characters seems to have deepened compared to the initial trilogy.
Is this a change in style that comes from overcoming a critical situation? The next work of the latter part of the trilogy, “Gyojin,” will be read at the right moment.
At this point, I was able to recognize the intent of the story well and read it clearly.
As a whole, the degree of suffering of the characters seems to have deepened compared to the initial trilogy.
Is this a change in style that comes from overcoming a critical situation? The next work of the latter part of the trilogy, “Gyojin,” will be read at the right moment.
2019年6月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
What a wonderfully new subject for a book. This book was very well written!
A MUST READ! If it is the only book you read this year, or this decade, read this one! READ THIS BOOK!
I suck at writing reviews. I want you to know I love everything about this author's books and if you have not read her yet, you need too! This book has it all!
A MUST READ! If it is the only book you read this year, or this decade, read this one! READ THIS BOOK!
I suck at writing reviews. I want you to know I love everything about this author's books and if you have not read her yet, you need too! This book has it all!
2021年12月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
心の中を知るのは難しいと感じる小説だった。人は心を様々な言葉で表現する。愛、喜び、平安などに関するポジティブの言葉や、怒り、嫉妬、不安、憎しみなどのネガティブな言葉まで、様々な言葉を駆使して心を表現する。そして、自分の気持ちをうまく伝えることができない経験は誰もがしていると思う。自分の気持ちもうまく伝えられない私たちが、人の心をどうしたら理解できるのだろう。完全に理解できなくても一歩でも近づくにはどうすればよいのだろう。
この小説は、有名な「こころ」の2年前に書かれた。「タイトルは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない空しい標題であり、個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだ小説」と前書きにある。これらの短編は、共通の登場人物で成り立っているが、最初の主な登場人物が後半になるにしたがってさほど重要でなくなっていく人もあることから、筆を進めながら一人の男、市蔵の心を描くことに行きついた印象を受けた。そしてその市蔵のこころを想像し、知ろうとする努力をしなければ全く面白くない小説だとも思った。
市蔵とその友人、敬太郎は、高等教育を受け、卒業試験、就職難、格差社会という100年前の小説とは思えない近さに生きている。そして市蔵を取り巻く環境が、好奇心旺盛な青年、敬太郎の目を通して謎解きされていく構成となっている。
市蔵は父を亡くしたが、慈母という言葉で形容される仲の良い母、2人の叔父の存在、職や地位もその気があれば得られる恵まれた環境にある。そして市蔵の相手が従妹(際には血がつながっていないことが最後で明かされる)千代子であり、相思相愛の婚約者と呼べそうな男女であるが、煮え切らない市蔵は結婚を恐れ、千代子は結婚を求め、そこに1名のイケメン高木が参戦し、鎌倉の別荘と海が舞台にと現代にも良くある恋愛小説である。
しかしこの市蔵のこころを読み解くのは難しい。市蔵は割り込んでくる高木に対してあまりにも無力で、ついに千代子が爆発するシーンでは、千代子に卑怯、馬鹿、嫉妬と罵られ防戦一方である。多分、以下の引用部分を何気なく読んでしまうとなんと引っ込み思案なつまらない男だと一蹴してしまいそうである。
「両親に対する僕の記憶を、生長の後に至って、遠くの方で曇らすものは、二人のこの時の言葉であるという感じがその後しだいしだいに強く明らかになって来た。何の意味もつける必要のない彼らの言葉に、僕はなぜ厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見てもまるで説明がつかなかった」
それは子供の時の父の死の間際の二人の言葉であった。その意味を市蔵と一緒に考え始め、その上で千代子との会話を読むとき、はじめて見えてくる見えない糸、がんじがらめに心を縛り付けてくる糸の存在を感じることができる。
そして、一緒にハラハラドキドキしながら最後に明かされた真実を知るシーンはこの小説のクライマックスであり、想像以上のインパクトがある。
市蔵が真実を求める心は、叔父に対するこの激しい言葉に集約されている。「ただ僕だけが知らないのです。ただ僕だけに知らせないのです。僕は世の中の人間の中であなたを一番信用しているから聞いたのです。あなたはそれを残酷に拒絶した。僕はこれから生涯の敵としてあなたを呪います」
うそは常備薬 真実は劇薬という河合隼雄のエッセイがあるが、本当に危機の時に必要な薬は真実なのである。それが得られず、母親の目を通して感じる自分と、自分自身の像が一つに重ならず分裂し、ふらふら(神経衰弱)になっていたのではないだろうか? 皮肉にも最も残酷な仕打ちを母はしてきたのではないだろうか。という思いもしてくる。
その分裂が引き起こした神経衰弱は漱石も悩まし、漱石自身は個人として自立する青年の悩みを当時の日本の姿と重ねていることは下記の引用でわかる。
「学者の文明開化論の講演で、現代の日本の開化を解剖して、かかる開化の影響を受けるわれらは、上滑りにならなければ必ず神経衰弱に陥いる日本人と彼のようにたった一人の秘密を、攫もうとしては恐れ、恐れてはまた攫もうとする青年は一層見惨に違あるまいと考えながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために濺いだ」
市蔵は真実を得て、大きく変わったのかどうか、叔父の話で終わるこの小説では明らかでない、千代子とのその後の関係も書かれていない。あとがきで、この小説のモチーフになっている印象的な蛇の頭のステッキの描写がでてくる。
鶏卵とも蛙とも何とも名状しがたい或物が、半ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、呑み尽されもせず、逃れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態。
日本が消化不良に陥っていた卵や蛙は西洋の文化であり、近代個人主義であり、市蔵も真実を飲み込めずまた出すこともできずに今後も生きていくのではないだろうか。
ただこのような息苦しさだけではなく、当時の世相はどことなくのんびりしていて、今より激しい格差社会でありながら社会に溶け込み問題視されることもない、何より若者に対する時代の寛容さを感じることができた。
市蔵の心を描くことに焦点を当てていったこの小説で、何気ない会話を使ってその奥に潜む心を逆に生々しく伝えようとする漱石の筆致に感銘をうけることになった。また、謎解き小説のように色々な情報を与えられて市蔵の心に近づく作業を考えると、他の人の心を理解するにも大変な努力が必要なことがわかる。人と全く同じ人生を送れないのだから、情報から想像力で推定しかないのである。ただ、いろいろな小説にかかれている心を読むことで、他の人の心に近づける豊かな人間になるのではないか?それが読書の価値だと考えた。
この小説は、有名な「こころ」の2年前に書かれた。「タイトルは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない空しい標題であり、個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだ小説」と前書きにある。これらの短編は、共通の登場人物で成り立っているが、最初の主な登場人物が後半になるにしたがってさほど重要でなくなっていく人もあることから、筆を進めながら一人の男、市蔵の心を描くことに行きついた印象を受けた。そしてその市蔵のこころを想像し、知ろうとする努力をしなければ全く面白くない小説だとも思った。
市蔵とその友人、敬太郎は、高等教育を受け、卒業試験、就職難、格差社会という100年前の小説とは思えない近さに生きている。そして市蔵を取り巻く環境が、好奇心旺盛な青年、敬太郎の目を通して謎解きされていく構成となっている。
市蔵は父を亡くしたが、慈母という言葉で形容される仲の良い母、2人の叔父の存在、職や地位もその気があれば得られる恵まれた環境にある。そして市蔵の相手が従妹(際には血がつながっていないことが最後で明かされる)千代子であり、相思相愛の婚約者と呼べそうな男女であるが、煮え切らない市蔵は結婚を恐れ、千代子は結婚を求め、そこに1名のイケメン高木が参戦し、鎌倉の別荘と海が舞台にと現代にも良くある恋愛小説である。
しかしこの市蔵のこころを読み解くのは難しい。市蔵は割り込んでくる高木に対してあまりにも無力で、ついに千代子が爆発するシーンでは、千代子に卑怯、馬鹿、嫉妬と罵られ防戦一方である。多分、以下の引用部分を何気なく読んでしまうとなんと引っ込み思案なつまらない男だと一蹴してしまいそうである。
「両親に対する僕の記憶を、生長の後に至って、遠くの方で曇らすものは、二人のこの時の言葉であるという感じがその後しだいしだいに強く明らかになって来た。何の意味もつける必要のない彼らの言葉に、僕はなぜ厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見てもまるで説明がつかなかった」
それは子供の時の父の死の間際の二人の言葉であった。その意味を市蔵と一緒に考え始め、その上で千代子との会話を読むとき、はじめて見えてくる見えない糸、がんじがらめに心を縛り付けてくる糸の存在を感じることができる。
そして、一緒にハラハラドキドキしながら最後に明かされた真実を知るシーンはこの小説のクライマックスであり、想像以上のインパクトがある。
市蔵が真実を求める心は、叔父に対するこの激しい言葉に集約されている。「ただ僕だけが知らないのです。ただ僕だけに知らせないのです。僕は世の中の人間の中であなたを一番信用しているから聞いたのです。あなたはそれを残酷に拒絶した。僕はこれから生涯の敵としてあなたを呪います」
うそは常備薬 真実は劇薬という河合隼雄のエッセイがあるが、本当に危機の時に必要な薬は真実なのである。それが得られず、母親の目を通して感じる自分と、自分自身の像が一つに重ならず分裂し、ふらふら(神経衰弱)になっていたのではないだろうか? 皮肉にも最も残酷な仕打ちを母はしてきたのではないだろうか。という思いもしてくる。
その分裂が引き起こした神経衰弱は漱石も悩まし、漱石自身は個人として自立する青年の悩みを当時の日本の姿と重ねていることは下記の引用でわかる。
「学者の文明開化論の講演で、現代の日本の開化を解剖して、かかる開化の影響を受けるわれらは、上滑りにならなければ必ず神経衰弱に陥いる日本人と彼のようにたった一人の秘密を、攫もうとしては恐れ、恐れてはまた攫もうとする青年は一層見惨に違あるまいと考えながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために濺いだ」
市蔵は真実を得て、大きく変わったのかどうか、叔父の話で終わるこの小説では明らかでない、千代子とのその後の関係も書かれていない。あとがきで、この小説のモチーフになっている印象的な蛇の頭のステッキの描写がでてくる。
鶏卵とも蛙とも何とも名状しがたい或物が、半ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、呑み尽されもせず、逃れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態。
日本が消化不良に陥っていた卵や蛙は西洋の文化であり、近代個人主義であり、市蔵も真実を飲み込めずまた出すこともできずに今後も生きていくのではないだろうか。
ただこのような息苦しさだけではなく、当時の世相はどことなくのんびりしていて、今より激しい格差社会でありながら社会に溶け込み問題視されることもない、何より若者に対する時代の寛容さを感じることができた。
市蔵の心を描くことに焦点を当てていったこの小説で、何気ない会話を使ってその奥に潜む心を逆に生々しく伝えようとする漱石の筆致に感銘をうけることになった。また、謎解き小説のように色々な情報を与えられて市蔵の心に近づく作業を考えると、他の人の心を理解するにも大変な努力が必要なことがわかる。人と全く同じ人生を送れないのだから、情報から想像力で推定しかないのである。ただ、いろいろな小説にかかれている心を読むことで、他の人の心に近づける豊かな人間になるのではないか?それが読書の価値だと考えた。
2014年12月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本作品は1912年(明治45年)という明治最後の年に発表された作品。
著者が、危篤状態となった「修善寺の大患」後、初の連載小説であり、冒頭に、「彼岸過迄に就いて」という序文の掲げられているのが特徴。
また、著者の後期三部作の第一作と位置付けられる作品でもあります。
著者の長編小説を、発表順に読んできたが、初めて戸惑いが生じた作品でした。
それは、著者の初の試みである、いくつかの短編から、一本の長編を組み立てるという趣向は、序文でも明らかなのだが、各編のテーマも視点人物も異なり、本作品で著者が訴えようとしていることが判然としないように思えたからです。
ちなみに、それらの短編とは──(1.視点人物、2.主な登場人物、3.テーマ)
【風呂の後】
1.敬太郎 2.森本 3.敬太郎の人物像
【停車所】
1.敬太郎 2.須永、田口 3.田口から敬太郎への謎の依頼
【報告】
1.敬太郎 2.田口、松本 3.停車所の謎の依頼のタネあかし
【雨の降る日】
1.松本 2.千代子、宵子 3.幼子の急死
【須永の話】
1.須永 2.千代子、須永の母、高木 3.須永と千代子の恋愛模様
【松本の話】
1.松本 2.須永 3.須永の気持ちの整理
しかし、そこはさすが文豪、最後に「結末」という一文が設けられており、私のような人間が道に迷わないよう、物語を締めくくっているのです。
この部分で、物語の意図が良く理解でき、スッキリと読み終えることができました。
総体として、初期三部作と比べ、登場人物の苦悩の度合いは深まっているような気がします。
これも、危篤状態を乗り越えたことからくる作風の変化なのでしょうか?
後期三部作の次作「行人」も、時機を見て読む予定です。
果たして、どんな作品世界が展開するのか、今から楽しみです。
著者が、危篤状態となった「修善寺の大患」後、初の連載小説であり、冒頭に、「彼岸過迄に就いて」という序文の掲げられているのが特徴。
また、著者の後期三部作の第一作と位置付けられる作品でもあります。
著者の長編小説を、発表順に読んできたが、初めて戸惑いが生じた作品でした。
それは、著者の初の試みである、いくつかの短編から、一本の長編を組み立てるという趣向は、序文でも明らかなのだが、各編のテーマも視点人物も異なり、本作品で著者が訴えようとしていることが判然としないように思えたからです。
ちなみに、それらの短編とは──(1.視点人物、2.主な登場人物、3.テーマ)
【風呂の後】
1.敬太郎 2.森本 3.敬太郎の人物像
【停車所】
1.敬太郎 2.須永、田口 3.田口から敬太郎への謎の依頼
【報告】
1.敬太郎 2.田口、松本 3.停車所の謎の依頼のタネあかし
【雨の降る日】
1.松本 2.千代子、宵子 3.幼子の急死
【須永の話】
1.須永 2.千代子、須永の母、高木 3.須永と千代子の恋愛模様
【松本の話】
1.松本 2.須永 3.須永の気持ちの整理
しかし、そこはさすが文豪、最後に「結末」という一文が設けられており、私のような人間が道に迷わないよう、物語を締めくくっているのです。
この部分で、物語の意図が良く理解でき、スッキリと読み終えることができました。
総体として、初期三部作と比べ、登場人物の苦悩の度合いは深まっているような気がします。
これも、危篤状態を乗り越えたことからくる作風の変化なのでしょうか?
後期三部作の次作「行人」も、時機を見て読む予定です。
果たして、どんな作品世界が展開するのか、今から楽しみです。
2020年8月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
よく意味がわかりませんでした、良作なのでしょうか?
2022年5月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
漱石の代表作は全て読みました。その中では「三四郎」に次いで学生さんにお薦めしたい作品。
「行人」や「門」と違って本作の主人公らは「就活生」です。
(現代では許嫁との結婚というのは無いかもしれませんが)
ここで描かれる、生まれつきの性格や取り巻く環境を変えられないジレンマ
「嫌われているのではないか」「ばかにされているのでは」という劣等感や僻みは現代でも
充分共感し、考えさせるところがあると思います。
時代は、今人気の「ゴールデンカムイ」とほぼ同じ時代です。
当時の東京、そして鎌倉。そのネガティブさを悪とも悲劇とも書かない、
これこそが漱石の文学における品性だと思います。
「行人」や「門」と違って本作の主人公らは「就活生」です。
(現代では許嫁との結婚というのは無いかもしれませんが)
ここで描かれる、生まれつきの性格や取り巻く環境を変えられないジレンマ
「嫌われているのではないか」「ばかにされているのでは」という劣等感や僻みは現代でも
充分共感し、考えさせるところがあると思います。
時代は、今人気の「ゴールデンカムイ」とほぼ同じ時代です。
当時の東京、そして鎌倉。そのネガティブさを悪とも悲劇とも書かない、
これこそが漱石の文学における品性だと思います。