本作品(1948年)は、ジョン・ファロー監督、レイ・ミランド主演の傑作サスペンス映画です。ここにはまた、のちに映画『狩人の夜』(1955年)を撮るチャールズ・ロートンが俳優、それも貫禄ある悪役として出ています。
当時の映画らしくこの作品の上映時間は95分。
現今の映画は120分を越えるのふつうで、なにやら大作主義ともいうべき傾向が見られますが、本作品のように、およそ1時間半の尺、しかもモノクロでもじゅうぶん映画的快楽を堪能できる作品をきちんと作れるわけで、もはや元に戻るのは難しいのでしょうけれど、こういうシンプルなプロットに沿ってほとんど無駄のない展開で見せる/魅せるコンパクトな映画制作のありかたもぜひ見直してほしいものです。
犯罪容疑者を追いつめる側の主人公が同時にその追いつめられる犯罪容疑者自身になっているというとても面白いプロットで仕組まれた映画です。そこに大小さまざまな時計がモチーフ的な小道具としていくつも現れ出てきます。
ただ、多くのサスペンス映画でよく感じることですが、最後、話を解決させるため、そのつじつまあわせがあまりにもあわただしく、たたみかけるようにして行われるため、ほんとうにその解決に整合性があるのかと観ているほうは理解がうまくついてゆけず、話がいちおうみごとに終結をむかえたかに見えてもちょっと置いてけぼりにされたような印象、なんだかキツネにつままれた印象が残ってしまいます。
たとえば、殺人現場であるポーリンの部屋で彼女が投げて壊れた置き時計の針を、あとからひそかにその現場に前後して入りこんだ、どちらも犯人ではないふたりの登場人物がそれぞれなんらかの意図をもって動かすという場面があるのですが、おそらくそれが真犯人の犯行時刻をめぐる工作であることはわかるものの、しかしその二度も動かされた時計の針が指ししめす時刻をめぐる問題がけっきょく以後の話の展開にからんでこないというあたり、元の脚本がすでにそうだったのか、それとも編集でカットされたのか気になりました。