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塀の中のジュリアス・シーザー [DVD]
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フォーマット | ドルビー, 色, 字幕付き, モノ, ワイドスクリーン |
コントリビュータ | パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ, コジモ・レーガ, サルヴァトーレ・ストリアーノ, ジョヴァンニ・アルクーリ, アントニオ・フラスカ |
言語 | イタリア語 |
稼働時間 | 1 時間 16 分 |
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商品の説明
ベルリン国際映画祭 金熊賞<グランプリ>&エキュメニカル審査員賞受賞! 本物の刑務所で実際の服役囚が演じる舞台 巨匠タヴィアーニ兄弟が創り上げたマジカルな映画の奇跡! !
ローマ郊外にあるレビッビア刑務所では、囚人たちによる演劇実習が定期的に行われ、毎年様々な戯曲を演じ、所内の劇場で一般観客に披露していた。今年の演目はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」に決定し、俳優選出のオーディションが始まった。
シーザーやブルータスなど、主要キャストが次々と重装備棟の囚人に割り振られ、彼らは手探りの中、監房で、廊下で、遊戯場などで演技の練習を行っていく。やがてそれぞれの過去や性格などが次第にオーバーラップし役柄と同化したとき、刑務所内はローマ帝国へと変貌していく・・・!
ローマ郊外に実在する刑務所を舞台に、本物の服役囚たちがシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」を演じる中、次第と役に同化していく心の変化を描き出し、第62回ベルリン国際映画祭で金熊賞<グランプリ>&エキュメニカル審査員賞を受賞! イタリアの巨匠パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟が監督を務め、そこが塀の中だと忘れてしまうほどダイナミックで感動的な芝居に熱狂する、2012年映画界を代表する巨匠畢生の傑作が誕生した!
特典:劇場予告篇
(c) 2011 Kaos Cinematografica - Stemal Entertainment- LeTalee Associazione Culturale Centro Studi "Enrico Maria Salerno"
登録情報
- アスペクト比 : 1.78:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : イタリア語
- 製品サイズ : 30 x 10 x 20 cm; 80 g
- EAN : 4523215101325
- 監督 : パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ
- メディア形式 : ドルビー, 色, 字幕付き, モノ, ワイドスクリーン
- 時間 : 1 時間 16 分
- 発売日 : 2013/8/24
- 出演 : コジモ・レーガ, サルヴァトーレ・ストリアーノ, ジョヴァンニ・アルクーリ, アントニオ・フラスカ
- 字幕: : 日本語
- 販売元 : 紀伊國屋書店
- ASIN : B00D6CB2UG
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 74,999位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 6,918位外国のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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イメージ付きのレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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シーザーやブルータスの魂が、俳優たちの肉体に入り込んだと言うか、俳優たちが、あまりの心地よさに、喜んで明け渡し、役柄になり切ったように見える。
その結果、多数の俳優(服役囚)が人生に目覚め、人生を好転させたという後日談もついている。
予想もしなかった展開にものすごく引き込まれ、やや金縛り状態になった。
白黒の映像も美しい。
全体はモノクロで撮影されていますが、情熱や死を感じさせるところは赤色を部分的に出したりして、カメラワークがうまいと思う。
全体はモノクロで撮影されていますが、情熱や死を感じさせるところは赤色を部分的に出したりして、カメラワークがうまいと思う。
映画のストーリーは単純である。イタリアの刑務所に服役している囚人たちがシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を演じる。「ブルータス、お前もか」の台詞が有名な、あの芝居。そのオーディションから始まり、上演までを描いている。途中の、刑務所のなかでの稽古がどきどきするほどおもしろい。
芝居と映画はどこが違うかというと、芝居というのは役者が「過去」を背負って舞台に上がらなければならない。そして、そこでは「現在」だけが演じられる。実はこの場面にはこういう背景がありました、という具合にフラッシュバックを挿入するわけにはいかない。映画はいつでも「過去」をフラッシュバックで挿入できるが、芝居はそういうわけにはいかない。だから舞台役者は舞台に上がったとき、そこに「過去」をもっていなければならない。台詞で「過去」を説明しはじめると、それは「劇」ではなく、つまらない「学芸会」になる。役者は、語られることのない「過去」を感じさせなければならない。舞台に立つ前に、演じられる前の「過去」を体験していないといけない。そう感じさせなければいけない。こういう滲み出る「過去」を「存在感」などと呼んだりする。映画でも「存在感」は必要だが舞台ほどの絶対条件ではない。
と、寄り道をしてしまったが……。
この「シーザー」を演じる役者たちは囚人である。ということは、つまり、もうとんでもない「過去」をもっている。ふつうの人が体験したことのない「過去」をもっている。隠したい過去といってもいい。「存在感」はすでにある、といっていい。隠そうとしても、それは滲み出てくるし、だいたい囚人が芝居をすると聞けば、観客はそこに「ありもしない過去」さえ押し付けてみてしまうものである。こういうのを「偏見」というのだけれど、まあ、「偏見」を捨てられないのが人間である。
で、その囚人たちが芝居の練習をしはじめると、たいへんなことが起きる。隠していたはずの「過去」がふいに噴出してくるのである。シェークスピアが書いたはずの「ことば」なのに、それが自分自身の肉体のなかから聞こえてくる。肉体が覚えていることが、シェークスピアによってひっぱりだされてくる。ブルータスを演じる役者は、「胸を切り開いて精神を取り出したい」という台詞を言おうとした瞬間、ことばをなくしてしまう。そのままそっくりではないが、同じ意味のことを「仲間」に言ったことがあるからだ。それは、たぶん服役仲間の誰にも語ったことのない「秘密」だ。それが、芝居を稽古しているなかで噴出してしまう。「自分」が知られてしまう。
これは、たぶん彼らにとってはたいへんなことだろうと思う。刑務所のなかにも友情はあるだろうが、それは私たちの「日常の友情」とは違っているだろう。特に重大な犯罪者の場合、刑務所にいるからといっていのちの安全が守られているわけではない--というのは犯罪映画の見すぎによる偏見かもしれないけれど、まあ、「人間性」を知られてしまっては、生きていきにくい。「弱み」を見せたくないというのが彼らの本心のような気がする。それを隠したままでは「芝居」がつづけられない。
ふつうの役者は「過去」を感じさせるために苦労するが、ここでは囚人達は「過去」が噴出してくるために、困惑してしまうのである。そして困惑をとおして、シェークスピアのことばを「自分のことば」にしてしまう。「肉体」にしてしまう。
「隠したい過去」は稽古をすればするほど噴出してくる。「本心」が噴出してくる。そのひとの「人間性」が出てきてしまう。そして、その「人間性」が出てくれば出てくるほど、「役」が完成されていく。つまり、登場人物になってしまう。最後は、台詞を書いたのがシェークスピアとは思わなくなってしまう。自分の「声」だと信じて、それを生きてしまう。
この、「過去」と「現実(芝居を演じる)」と「役(虚構)」が交錯しながら「一体」になってしまう感じがすごいのである。芝居の稽古、芝居の登場人物を見ているというより、彼らの「人生」そのものが動くのを見ているようなのだ。芝居なのだから嘘であるはずなのに、嘘のままではおわらない。ほんとうになってしまう。
囚人達が芝居を演じるのではなく、まるで芝居の登場人物が囚人になってあらわれてくる。そして苦悩を語りはじめるという感じである。シェークスピアが、そこにいる囚人達に「あてて」芝居を書いたような感じをさらに越えて、彼らがシェークスピアにさえ思えてくる。
これだけですごいなのだが、ちょっと最初に戻って、芝居と映画の違いから見ていくと……。(いままでは、どちらかというと芝居の視点から見てきたことになると思う。)
これが映画なのは--というか、芝居の稽古を撮りながら「映画」そのものになっているのはなぜかというと。
芝居と映画では「肉体」の見せ方が違う。芝居では、どんなに前の席でも役者の細部は見えない。映画はそうではなくて、実際に見ることのできない細部をスクリーンいっぱいに広げて見せることができる。
シェークスピアのことばが囚人のなかでよみがえるのは芝居そのものでもつたえることができるが、そのことばが肉体にどんなふうに動いているかは芝居よりも映画の方がうまくつたえられる。
「目を見ろ」という台詞が出てくるが、その目のなかに、シェークスピアの書いた裏切りではなく、シェークスピアの書いた困惑や苦悩ではなく、囚人達の「過去」が動くのを、映画はそのままスクリーンに切り取る。一瞬の、かげり、迷い、ひらめき……。それが動く瞬間をカメラはとらえ、スクリーンに映し出す。そうすると、まるで目の前で「彼」を見ている気持ちになる。
「台詞」を抜きにして、「肉体」そのものが語る「ことばにならない声」を、見ていて感じ取ってしまう。私はこの映画に登場する彼らのような裏切りや犯罪をしたつもりはないけれど、そのときの困惑、苦悩が、そのまま「ことば」を越えて伝わってくる。
目だけではない。たとえばブルータスとキャシアスがシーザーの戴冠式を見ている。窓から二人が覗いているのを見て、演出家は「ブルータスは窓から覗かない。それを見たくないはずだ。どうする?」と問いかける。そうすると、ブルータスは窓を背にして、窓のしたにしゃがみ込む。
このとき。
そのしゃがみこむ肉体をとおして「彼」の「過去」があらわになる。そういうことが彼には実際にあったのだ。だれかの何かを見たくない、隣でだれかがそこから見えるものを説明する。けれど、それを見たくないとき、背を向けてしゃがみこんだということが。そして、その「肉体」は、私の「肉体」にも響いてくる。彼が演じていることが、そのときの「気持ち」が「肉体」として私の「肉体」にそのままつたわってくる。
この「肉体」の動きは芝居でもつたわるけれど、それを完成された形ではなく、映画のなかで、そういう「肉体」を彼に発見させるという「過程」を見せることで、「過去」が濃密になる。「過去」が遠いものではなく、いま、ここにあるものとして、強烈に噴出してくる。
あ、その「彼」って、ブルータス? シーザー? それとも「囚人」? わからないまま、そこに「人間」を見てしまう。名前も肩書も関係なく、ただ人間はこんなふうに生きているということを肉体で感じてしまう。
あまりにおもしろすぎて、興奮しすぎて、私はまだ何を書いていいのかよくわからないが、わからなくても、書きたくて書いてしまうのだ。
タヴィアーニ兄弟は、私にとってはルノワールと同じで、人間をまるごと受け入れる監督に思えるが、その許容力(包容力)の大きさは、この映画でさらに広がったように思える。過去の作品をまた見直したいと思った。
稽古でそのまま劇の筋を追う形になっており、板に掛ける場面はフィリッピの戦いのみである。
聖典よりもブルータスら暗殺共謀者のモチベーションを昂ぶらせてえがいている。
アントニーのかげがやや薄く、誘導演説のみ際立っていた。
尺が短いから多々省略され、芝居の本質が見えてこない、断片的なジュリアス・シーザーだ。
刑務所内はローマ帝国へと変貌していく・・・! と内容紹介にあるが、場所が場所だし、
囚人服をまとっているし、あくまで稽古で語るのでそんな大仰なものではない。
そもそもブルータスが主役みたいなもんだからその囚人の男っぷりがもっとも良かった。
いずれにせよ、最盛期タヴィアーニの勢いはここにない。
シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」が選ばれますが、囚人たちの
忌わしい記憶と重なる、陰謀や殺人と言った血生臭い内容から、やがて
虚実の境目を見失っていく彼らの様子を、カメラは冷酷に映し出して行きます。
殺人や組織犯罪などで服役している本物の囚人たちが出演しているので、
ドキュメンタリーだと思い込んで観ていたのですが、途中から、シナリオが用意された、
イタリア・ネオリアリズムの流れを汲む劇映画であることが分かり、
一触即発の緊張感がない予定調和のありきたりな展開で、尻すぼまりに終わり、
発想の良さを生かし切れませんでした。