The Act of Killing [DVD] [Import]
コントリビュータ | Joshua Oppenheimer |
言語 | 英語, インドネシア語 |
稼働時間 | 2 時間 2 分 |
GTIN (Global Trade Identification Number) | 05050968009947 |
登録情報
- アスペクト比 : Unknown
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 英語, インドネシア語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 0.28 g
- EAN : 5050968009947
- 製造元リファレンス : 5050968009947
- 監督 : Joshua Oppenheimer
- 時間 : 2 時間 2 分
- 字幕: : 英語
- 言語 : 英語 (Dolby Digital 5.1)
- ASIN : B00DDSSZT4
- ディスク枚数 : 1
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1965年の虐殺は、身近な人同士を敵対させましたので、現在一見悲しみや怒りが消えているように見えても、ちょっとした出来事で、噴出してくる可能性があります。英雄から殺人者となってしまった人たちは、撮影後どのようにくらしているのか心配になります。映画を撮ることの倫理、ジレンマに満ちた倫理に思いをはせずにはいられません。
2014年6月6日に日本でレビュー済み
あれ程長々と、しかもありったけの熱量を込めて自分のblogで書いた、「アクト・オブ・キリング」について、それでも、どうしても補足したい。
申し訳ないとも想いつつ、あの作品に真っ当なリアクトをする為に、周辺情報はどうしても多い方がいい。可能であれば、以前書いたテキストも検索して参照頂けたら幸甚。
※もまゆきゅ アクト・オブ・キリング で検索など…。
当時の事件に、アメリカが、また日本が、当事者のアンワル氏程の切実さは微塵も感じずに関与していたことは、事実だ。そこを指摘し、それに及ばないアメリカ人の監督などは無能だというAmazonでの誰かの評。その通りで、この映画の中ではそこを掘り下げるシーンはない。ここからが周辺情報となるのだけれど、多くの国が既にその点に気付き、自浄や、或いは責任を消極的に逃れる行為を始めている。つまり描かれなかった部分にも波及はしている。監督自身がワシントンDCの上下両院議員の何名かに観てもらっているし、その結果は、
「インドネシアに対してよりも、自国(米国)を洗いなおさなくてはいけない」
だった。とあるインタビューで監督は、
「CIAにしろ、貴方の国日本にしろ、事実を黙認どころか当時暗躍していたのです。私はその分野の専門家ではないですが、それでも殺害ターゲットリストの事実を確認しています」
とまで言い切る。今頃はFBIが彼の電話を盗聴しているかも知れない。
もっともっと掘り下げないといけないのだとしたら、それは、気付いた人の仕事でしょう。監督は殆ど可能なことは全てやっている。やっていないのは、我々の方であり、批判だけしている奴等だ。
「露悪趣味」は、まあ悪趣味だと言いたいんだろうな。ぼくはこの監督の誠実さを信じてる。指摘する人については、指摘の仕方によるけど概ね正しいとも想います。これを受け付けない人はいるでしょう。ぼくは違った。
ただ、彼等が進んで演じた虐殺、という現実は、一見平和にも見えるインドネシアの、もうひとつのリアルだ。つまり彼等は国内で今も正義だから、堂々としていられるのだ。今のインドネシア政権は、彼等を堂々と振る舞わせているのだ。この映画を異様に想う我々は、幾分幸福な社会にいるだけなのだ。
この作品自体がある種の陰謀だというものまで見かけた。誰のどんな策略なのかによるけれど、得をする人間は、虐殺された側の人々の無念以外にはないだろう。その無念が、増す可能性も孕んでいるのも一方で確かだろう。では、この実際にカメラの前で起こった出来事(殺人をアクトするということ)と、加害者に訊いてみて欲しいと提案した被害者側の人と、そして、嬉々として語った他の全員の加害者という出来事を、悪趣味として封印すべきなのだろうか。スタンフォード監獄実験のような実験は間違っているとしても、その実験で起こった恐ろしい出来事は、封印すべきだろうか。それを封印しなかったことは、陰謀の比率から言ったら、逆だろうな。控え目に言って、「清濁併せ呑む」という表現があるけれど、この濁は考え過ぎだ。強めに言ったら、これが免罪になんて機能しない、免罪になると想うのは加害者の擦り合いだ。
着地点が、アンワル氏の最後の動作が、出来過ぎだと言う説。誘導説と、演出・演技説。あの絶望の中に救いがあるという着地は、ジョシュア監督曰く、
「カタルシスでも贖罪でもなく、気付いたときの肉体的な拒絶反応です。虐殺を能動的にしたことが、肉体にどんな影響をもたらすかの証明です。素直に観れば、あれは、役者に演じることは出来ないと気付く筈です」
わからない。全てが虚構かも知れない。アンワル氏は演じたのかも知れない。監督は誘導したのかも知れない。ぼくらには決して見抜けない。彼が41人めなのだから、
「漸く出逢えた」、としか言えない。それを疑うことも、陰謀論者には可能だろうけれど。
詰まらない、については、詰まらなくも作ってあるとしか言えない。
既存の音楽が一部に使われた以外、劇伴としての音楽は皆無だと想っていたぼくは、2度目に(インドネシア語で)観た途中でノイズ音楽がほんの一部に聴こえたことに、ひどく驚いた。ありきたりのドキュメンタリーであれば(これに比べたら大概はありきたりに収まるのだが)、現代音楽のようなものがあてがわれるのは普通だけれど、ここでは無いままいくのだと想っていたくらいだから。兎に角、撮影にも編集にも全ての効果にも、温度を上げる為のものが無い。
ひとつの例だけれど、車中のインタビューで、監督が、
「しかし、大勢の被害者遺族にとって、真実が明らかにされるのはいいことです」
と問いかけた時に、アンワル氏ではないが当時虐殺をした男が、
「だったら最初の殺人からやれ。カインとアベルだ。なぜコミュニスト殺しだけに注目する? インディアンを殺したアメリカ人を罰しろ。この件を蒸し返すのか。戦争を続けてほしいなら、やってやる」
という自己正当化のシーンがあった。
もし、これを映画の冒頭に持ってきたら、どうなっていただろう。たったそれだけで、非常に共感を得易い作品になった筈だ。しかしそんなことさえ排除した結果が、この作品の「徹底」なのだ。
こんな経験は、初めてじゃないだろうか。これ程ひとつの作品と向き合い、わざわざ擁護し、
「踏みにじるなら自分自身が先だろう!」
と訴える。ぼくは全くこの映画から逃げられなくなっている。
いやあ、そうでもないな。好きなものを擁護するのは体質だな。多いな寧ろ…。
全然関係ないけど、ぼくは、
「アインとカベル」
って聞こえたんだよなあ。発音が悪いのか、ぼくの耳が悪いのか、或いはヤツが記憶違いをしてるのか。
申し訳ないとも想いつつ、あの作品に真っ当なリアクトをする為に、周辺情報はどうしても多い方がいい。可能であれば、以前書いたテキストも検索して参照頂けたら幸甚。
※もまゆきゅ アクト・オブ・キリング で検索など…。
当時の事件に、アメリカが、また日本が、当事者のアンワル氏程の切実さは微塵も感じずに関与していたことは、事実だ。そこを指摘し、それに及ばないアメリカ人の監督などは無能だというAmazonでの誰かの評。その通りで、この映画の中ではそこを掘り下げるシーンはない。ここからが周辺情報となるのだけれど、多くの国が既にその点に気付き、自浄や、或いは責任を消極的に逃れる行為を始めている。つまり描かれなかった部分にも波及はしている。監督自身がワシントンDCの上下両院議員の何名かに観てもらっているし、その結果は、
「インドネシアに対してよりも、自国(米国)を洗いなおさなくてはいけない」
だった。とあるインタビューで監督は、
「CIAにしろ、貴方の国日本にしろ、事実を黙認どころか当時暗躍していたのです。私はその分野の専門家ではないですが、それでも殺害ターゲットリストの事実を確認しています」
とまで言い切る。今頃はFBIが彼の電話を盗聴しているかも知れない。
もっともっと掘り下げないといけないのだとしたら、それは、気付いた人の仕事でしょう。監督は殆ど可能なことは全てやっている。やっていないのは、我々の方であり、批判だけしている奴等だ。
「露悪趣味」は、まあ悪趣味だと言いたいんだろうな。ぼくはこの監督の誠実さを信じてる。指摘する人については、指摘の仕方によるけど概ね正しいとも想います。これを受け付けない人はいるでしょう。ぼくは違った。
ただ、彼等が進んで演じた虐殺、という現実は、一見平和にも見えるインドネシアの、もうひとつのリアルだ。つまり彼等は国内で今も正義だから、堂々としていられるのだ。今のインドネシア政権は、彼等を堂々と振る舞わせているのだ。この映画を異様に想う我々は、幾分幸福な社会にいるだけなのだ。
この作品自体がある種の陰謀だというものまで見かけた。誰のどんな策略なのかによるけれど、得をする人間は、虐殺された側の人々の無念以外にはないだろう。その無念が、増す可能性も孕んでいるのも一方で確かだろう。では、この実際にカメラの前で起こった出来事(殺人をアクトするということ)と、加害者に訊いてみて欲しいと提案した被害者側の人と、そして、嬉々として語った他の全員の加害者という出来事を、悪趣味として封印すべきなのだろうか。スタンフォード監獄実験のような実験は間違っているとしても、その実験で起こった恐ろしい出来事は、封印すべきだろうか。それを封印しなかったことは、陰謀の比率から言ったら、逆だろうな。控え目に言って、「清濁併せ呑む」という表現があるけれど、この濁は考え過ぎだ。強めに言ったら、これが免罪になんて機能しない、免罪になると想うのは加害者の擦り合いだ。
着地点が、アンワル氏の最後の動作が、出来過ぎだと言う説。誘導説と、演出・演技説。あの絶望の中に救いがあるという着地は、ジョシュア監督曰く、
「カタルシスでも贖罪でもなく、気付いたときの肉体的な拒絶反応です。虐殺を能動的にしたことが、肉体にどんな影響をもたらすかの証明です。素直に観れば、あれは、役者に演じることは出来ないと気付く筈です」
わからない。全てが虚構かも知れない。アンワル氏は演じたのかも知れない。監督は誘導したのかも知れない。ぼくらには決して見抜けない。彼が41人めなのだから、
「漸く出逢えた」、としか言えない。それを疑うことも、陰謀論者には可能だろうけれど。
詰まらない、については、詰まらなくも作ってあるとしか言えない。
既存の音楽が一部に使われた以外、劇伴としての音楽は皆無だと想っていたぼくは、2度目に(インドネシア語で)観た途中でノイズ音楽がほんの一部に聴こえたことに、ひどく驚いた。ありきたりのドキュメンタリーであれば(これに比べたら大概はありきたりに収まるのだが)、現代音楽のようなものがあてがわれるのは普通だけれど、ここでは無いままいくのだと想っていたくらいだから。兎に角、撮影にも編集にも全ての効果にも、温度を上げる為のものが無い。
ひとつの例だけれど、車中のインタビューで、監督が、
「しかし、大勢の被害者遺族にとって、真実が明らかにされるのはいいことです」
と問いかけた時に、アンワル氏ではないが当時虐殺をした男が、
「だったら最初の殺人からやれ。カインとアベルだ。なぜコミュニスト殺しだけに注目する? インディアンを殺したアメリカ人を罰しろ。この件を蒸し返すのか。戦争を続けてほしいなら、やってやる」
という自己正当化のシーンがあった。
もし、これを映画の冒頭に持ってきたら、どうなっていただろう。たったそれだけで、非常に共感を得易い作品になった筈だ。しかしそんなことさえ排除した結果が、この作品の「徹底」なのだ。
こんな経験は、初めてじゃないだろうか。これ程ひとつの作品と向き合い、わざわざ擁護し、
「踏みにじるなら自分自身が先だろう!」
と訴える。ぼくは全くこの映画から逃げられなくなっている。
いやあ、そうでもないな。好きなものを擁護するのは体質だな。多いな寧ろ…。
全然関係ないけど、ぼくは、
「アインとカベル」
って聞こえたんだよなあ。発音が悪いのか、ぼくの耳が悪いのか、或いはヤツが記憶違いをしてるのか。
2014年12月3日に日本でレビュー済み
1965年にインドネシアで起こった軍事クーデターは、スカルノ大統領の下で勢力を
拡大していたインドネシア共産党が、政権の基盤強化のために、対立していた国軍に
ダメージを与える目的で実行された襲撃事件が発端ですが、将校数名の暗殺に成功したものの、
戦略予備軍司令官だったスハルト少将率いる部隊に、首都にある要所を鎮圧され、
アメリカやイギリス等西側諸国の支援を受けた民兵やヤクザによって、100万人を超える
共産主義者が虐殺されて、東南アジア最大の規模を誇っていたインドネシア共産党は
壊滅に追い込まれます。
本作は、今も英雄として崇められている、当時の虐殺を主導したパンチャシラ青年団
(メンバー300万人が在籍する、インドネシア最大級の民兵組織)の主導者や、プレマンと
呼ばれるヤクザのリーダーたちに取材するだけでなく、当時の赤狩りの様子を映画に
して再現してほしいと依頼して、その制作過程を記録した、前代未聞のドキュメンタリー映画です。
「木で首を潰し、針金で絞殺し、首を撥ね、車で轢き殺し、死ぬまで肛門に木を突っ込んだ。
当時はそれが許されていた。 その証拠に、私は未だに罰せられていない。」
「なぜ共産主義者殺しにだけ注目するんだ。それなら、インディアンを殺したアメリカ人も罰しろ!」
殺人を懐かしむかのように語る彼らは、国家の脅威を阻止して来たという自負で、罪悪感や
後悔の欠片もありません。メンバーの中から、副大統領や大臣等政府の要職に就く者もいて、
国と裏社会との繋がりも垣間見えて来るので、最後の楽園バリ島やボロブドゥール、
プランバナン遺跡等エキゾチックな国として、日本人にも馴染みの深いインドネシアに
持っていたイメージが覆されることでしょう。
一目見ただけで荒くれ者と分かる男たちの、体から沸き立つ暴力の臭いは、映像を介しても
漂ってきて、観る者を恐怖で金縛りにしてしまいますが、インドネシアで上映された時に、
客席から笑いが起きたそうで、笑いと恐怖が紙一重と言われているホラー映画の
ジャンルで取扱わられるべき作品でしょう。
因みに、映画のクレジットタイトルで、多くのスタッフがANONYMOUS(匿名者)扱いになっていて、
この作品が、如何に命がけで製作されたかを物語っています。
拡大していたインドネシア共産党が、政権の基盤強化のために、対立していた国軍に
ダメージを与える目的で実行された襲撃事件が発端ですが、将校数名の暗殺に成功したものの、
戦略予備軍司令官だったスハルト少将率いる部隊に、首都にある要所を鎮圧され、
アメリカやイギリス等西側諸国の支援を受けた民兵やヤクザによって、100万人を超える
共産主義者が虐殺されて、東南アジア最大の規模を誇っていたインドネシア共産党は
壊滅に追い込まれます。
本作は、今も英雄として崇められている、当時の虐殺を主導したパンチャシラ青年団
(メンバー300万人が在籍する、インドネシア最大級の民兵組織)の主導者や、プレマンと
呼ばれるヤクザのリーダーたちに取材するだけでなく、当時の赤狩りの様子を映画に
して再現してほしいと依頼して、その制作過程を記録した、前代未聞のドキュメンタリー映画です。
「木で首を潰し、針金で絞殺し、首を撥ね、車で轢き殺し、死ぬまで肛門に木を突っ込んだ。
当時はそれが許されていた。 その証拠に、私は未だに罰せられていない。」
「なぜ共産主義者殺しにだけ注目するんだ。それなら、インディアンを殺したアメリカ人も罰しろ!」
殺人を懐かしむかのように語る彼らは、国家の脅威を阻止して来たという自負で、罪悪感や
後悔の欠片もありません。メンバーの中から、副大統領や大臣等政府の要職に就く者もいて、
国と裏社会との繋がりも垣間見えて来るので、最後の楽園バリ島やボロブドゥール、
プランバナン遺跡等エキゾチックな国として、日本人にも馴染みの深いインドネシアに
持っていたイメージが覆されることでしょう。
一目見ただけで荒くれ者と分かる男たちの、体から沸き立つ暴力の臭いは、映像を介しても
漂ってきて、観る者を恐怖で金縛りにしてしまいますが、インドネシアで上映された時に、
客席から笑いが起きたそうで、笑いと恐怖が紙一重と言われているホラー映画の
ジャンルで取扱わられるべき作品でしょう。
因みに、映画のクレジットタイトルで、多くのスタッフがANONYMOUS(匿名者)扱いになっていて、
この作品が、如何に命がけで製作されたかを物語っています。
2016年10月19日に日本でレビュー済み
全体的な流れがゆったりしていることもあり何回かに分けて視聴しました。
人が人を殺す、殺す側、殺される側ともに心の動きは体験してみないと想像できないけど実行犯(犯罪者じゃないけど)が当時の様子を
アクトしてる姿は確かに悪気などなく、まるで戦場の兵士が戦いで敵の首を取ったことを淡々と語っているようだ。
戦とは命の奪い合いであり、そこで起きる殺人とは犯罪でもなく生き残るものが勝者であり、勝者の基準で正当化されると思う。
100万人を
虐殺した事実があったとしても、それは罪にはならない。原爆落として大量殺人しても罪にはならないのと同じ。
それはそれで戦争の目的や、その殺人を誘導することで得する人がいることを考えさてくれるきっかけになる映画です。
作者はこの映画を通して何を伝えたかったのか? 誰しもが彼らのようにその場の状況で人殺しもできてしまう人間になりうる。
ひょっとしたら殺人や拷問を楽しめる性質は全ての人に備わっているのでは?
映像的にはグロい場面と自然をバックにダンスする綺麗な場面があったが、グロい場面がリアリティリアリティを感じさせてくれる。
人から薦められなかったら見てないだろう。ということでこういった映画を見るのも勉強になると気づかせていただきました。
人が人を殺す、殺す側、殺される側ともに心の動きは体験してみないと想像できないけど実行犯(犯罪者じゃないけど)が当時の様子を
アクトしてる姿は確かに悪気などなく、まるで戦場の兵士が戦いで敵の首を取ったことを淡々と語っているようだ。
戦とは命の奪い合いであり、そこで起きる殺人とは犯罪でもなく生き残るものが勝者であり、勝者の基準で正当化されると思う。
100万人を
虐殺した事実があったとしても、それは罪にはならない。原爆落として大量殺人しても罪にはならないのと同じ。
それはそれで戦争の目的や、その殺人を誘導することで得する人がいることを考えさてくれるきっかけになる映画です。
作者はこの映画を通して何を伝えたかったのか? 誰しもが彼らのようにその場の状況で人殺しもできてしまう人間になりうる。
ひょっとしたら殺人や拷問を楽しめる性質は全ての人に備わっているのでは?
映像的にはグロい場面と自然をバックにダンスする綺麗な場面があったが、グロい場面がリアリティリアリティを感じさせてくれる。
人から薦められなかったら見てないだろう。ということでこういった映画を見るのも勉強になると気づかせていただきました。
2014年5月25日に日本でレビュー済み
1965年以降、スハルト独裁軍政下のインドネシアでは、「パンチャシラ青年団」が共産主義者弾圧・粛清の先鋭部隊の役割を担ってきた。その創立メンバーである「映画館ギャング」アンウォー・コンゴとその仲間たちを、8年に亘って追跡取材・インタビューしてきた、これは戦慄のドキュメンタリーです。
60年代に、普段は映画館で切符もぎりをしながら好きな映画を楽しみ、共産主義者(容疑者)がつかまると、向かいの建物にある「オフィス」の屋上に連れて行って拷問の末いたぶり殺す、その血みどろの殺人方法や、大量の血の匂いにさすがに辟易して「少量の出血で済む方法を工夫」したことなどをへらへらと語る、老人となったアンウォー。インタビュアー・監督のオッペンハイマーの「その殺人の話を自分の好きな映画のように演出・再現した映画にしないか」という申し出を嬉々として受け、仲間とともに自作自演し、孫たちと一緒に完成品を観て自己批評するアンウォーは、しかし、己にひとかけらの「神を畏れる心」があり、内臓が自らの罪によって腐乱していく地獄を生きていることに気付き始めるも、認知を拒絶、恐怖を自己欺瞞的疑似救済劇によってまぎらわそうとする・・・。
彼らの共産主義者大量虐殺は、軍事政府によって「インドネシア愛国者の英雄的行為」と美化されて人々に、子供たちに伝えられ、虐殺者たち自身も「国際司法法廷に呼ぶなら呼んでみろ」と完全に開き直っている。
スハルト軍事政権を米英が援助してきた、という現実、つまり、「これだけはっきり『おれがやった』と告白していても、これからも罪に問われることはないかもしれない」という現実が、一番恐ろしい。アンウォーの仲間がいう、「戦争犯罪かどうかは勝者が決める。おれたちが勝者だ」というセリフは、戦後連合国によって「一億総『戦争犯罪』者」とされた敗者・日本人が、よくかみしめなければならない言葉です。
60年代に、普段は映画館で切符もぎりをしながら好きな映画を楽しみ、共産主義者(容疑者)がつかまると、向かいの建物にある「オフィス」の屋上に連れて行って拷問の末いたぶり殺す、その血みどろの殺人方法や、大量の血の匂いにさすがに辟易して「少量の出血で済む方法を工夫」したことなどをへらへらと語る、老人となったアンウォー。インタビュアー・監督のオッペンハイマーの「その殺人の話を自分の好きな映画のように演出・再現した映画にしないか」という申し出を嬉々として受け、仲間とともに自作自演し、孫たちと一緒に完成品を観て自己批評するアンウォーは、しかし、己にひとかけらの「神を畏れる心」があり、内臓が自らの罪によって腐乱していく地獄を生きていることに気付き始めるも、認知を拒絶、恐怖を自己欺瞞的疑似救済劇によってまぎらわそうとする・・・。
彼らの共産主義者大量虐殺は、軍事政府によって「インドネシア愛国者の英雄的行為」と美化されて人々に、子供たちに伝えられ、虐殺者たち自身も「国際司法法廷に呼ぶなら呼んでみろ」と完全に開き直っている。
スハルト軍事政権を米英が援助してきた、という現実、つまり、「これだけはっきり『おれがやった』と告白していても、これからも罪に問われることはないかもしれない」という現実が、一番恐ろしい。アンウォーの仲間がいう、「戦争犯罪かどうかは勝者が決める。おれたちが勝者だ」というセリフは、戦後連合国によって「一億総『戦争犯罪』者」とされた敗者・日本人が、よくかみしめなければならない言葉です。
2014年4月20日に日本でレビュー済み
戦後のインドネシアの政治的な混乱期、民兵組織が活躍した時期がある。
活躍とは暗躍であり、多くの国民の命が奪われた内戦状態とも、無政府状態とも言える。
このThe Act of Killingとは、その時の殺傷の様子を現代の映画記録として撮影して残したらどうか?という提案にのった地元の顔役の、再現劇のドキュメンタリー映像である。
インドネシアは政情も安定した国となっているが、アジア、アフリカ、中近東あたりではまだまだ、軍によらない武力闘争が収まらないようだ。
過去のアジアの闇歴史から、現代の闇まで想像を広げる題材として、生活の隣にあるかもしれない闇に、映画という広報装置が一時、組み込まれた。
映画のラストでは、プレマンだった爺さんの心の葛藤が少しだけ。
戦争を考える、地政学を考えるなら必見の映画といえるのだろう。
渋谷の劇場では立ち見多数。日本の国際平和感覚は、きっと安定している。
活躍とは暗躍であり、多くの国民の命が奪われた内戦状態とも、無政府状態とも言える。
このThe Act of Killingとは、その時の殺傷の様子を現代の映画記録として撮影して残したらどうか?という提案にのった地元の顔役の、再現劇のドキュメンタリー映像である。
インドネシアは政情も安定した国となっているが、アジア、アフリカ、中近東あたりではまだまだ、軍によらない武力闘争が収まらないようだ。
過去のアジアの闇歴史から、現代の闇まで想像を広げる題材として、生活の隣にあるかもしれない闇に、映画という広報装置が一時、組み込まれた。
映画のラストでは、プレマンだった爺さんの心の葛藤が少しだけ。
戦争を考える、地政学を考えるなら必見の映画といえるのだろう。
渋谷の劇場では立ち見多数。日本の国際平和感覚は、きっと安定している。
他の国からのトップレビュー
Tim Tucci
5つ星のうち5.0
A slow motion, gut wrenching production - unless you ...
2016年5月29日にカナダでレビュー済みAmazonで購入
A slow motion, gut wrenching production - unless you have no conscience. You get 2 discs, with the theatrical and director's cuts. If you're considering this for a classroom, remember it's entirely sub-titled in English. There's also the Democracy Now interview of the director, which provides its own compelling factual narrative. This film goes well with the John Pilger documentary "New Rulers of the World" from 2001. It goes deeper into the notion that the Neo-Liberal "Globalization" movement got its bloody kick start in Indonesia - circa 1965.
Adriana Redaelli
5つ星のうち5.0
Assolutamente obbligatorio
2016年3月17日にイタリアでレビュー済みAmazonで購入
Penso che questo documentario di Joshua Oppenheimer dovrebbe essere reso obbligatorio nelle scuole superiori. Mezzo secolo fa in Indonesia si consumava una delle grandi stragi della storia. A partire dall'ottobre del 1965, i militari indonesiani, con il sostegno attivo e diretto degli Stati Uniti massacrarono circa un milione indonesiani: lavoratori, sindacalisti, "comunisti". Gli autori del massacro sono ancora al potere oggi, Senza alcuna traccia di pentimento gli autori della mattanza mettono in scena le loro "gesta" di fronte al regista. In un'intervista con Maurice Herzog a Berlino Oppenheimer dice: " é stato come se, dopo mezzo secolo dagli stermini nazisti, ritornassi in Germania e trovassi gli stessi assassini ancora saldamente al governo" . Un film non facile da digerire, ma magistrale ed agghiacciante sulla "banalità del male".
ParcForêt
5つ星のうち5.0
Choc édifiant.
2014年11月12日にフランスでレビュー済みAmazonで購入
Le réalisateur, par ailleurs universitaire américano-britannique, se rend en Indonésie pour rendre compte du massacre, en 1965, de près d'un million de personnes. Il se rend compte que les survivants et les enfants des victimes ne sont pas encore libres de parler. Les bourreaux et tueurs, eux, sont restés au pouvoir et se vantent publiquement de leurs méfaits, les justifient sans cesse et se montrent tout prêts à en parler devant la caméra.
Cela donne un film documentaire qui donne la parole aux bourreaux, mais dans l'intention d'honorer la mémoire des victimes, d'empêcher le massacre de sombrer dans l'oubli.
A plusieurs reprises on se demande si on a bien compris, si on n'a pas mal entendu, mal vu: les tueurs occupent des fonctions dirigeantes dans le pays et continuent à commettre des crimes et à terroriser la population, y compris devant la caméra.
Le fait est qu'ils sont sortis vainqueurs des événements de 1965.
Et si le travail de mémoire n'était possible que sur des vaincus?
Cela donne un film documentaire qui donne la parole aux bourreaux, mais dans l'intention d'honorer la mémoire des victimes, d'empêcher le massacre de sombrer dans l'oubli.
A plusieurs reprises on se demande si on a bien compris, si on n'a pas mal entendu, mal vu: les tueurs occupent des fonctions dirigeantes dans le pays et continuent à commettre des crimes et à terroriser la population, y compris devant la caméra.
Le fait est qu'ils sont sortis vainqueurs des événements de 1965.
Et si le travail de mémoire n'était possible que sur des vaincus?
AMBER
5つ星のうち5.0
Massenmorde in Indonesien (als Western, Gangsterfilm oder als Musical)
2014年6月4日にドイツでレビュー済みAmazonで購入
Joshua Oppenheimer verbrachte sieben Jahre in Indonesien, um diesen Dokumentarfilm zu schaffen. Ursprünglich wollte er einen Film mit den Überlebenden des Genozids der Jahre 1965-66 drehen, als 1 – 2,5 Mio Menschen in Indonesien ermordet wurden (genaue Zahlen gibt es nicht). Aber das verhinderten die Behörden bzw. Mitglieder des Militärs.
Stattdessen kam er in Kontakt mit den Mördern von damals, die ihm sehr gerne die Orte zeigten, an denen sie ihre Opfer getötet hatten. Die Täter nennen sich Gangster (preman) und übersetzen dies mit „freie Männer“. Sie sind Mitglieder einer regierungsnahen paramilitärischen Organisation namens „Pancasila“, die auch heute noch junge Menschen rekrutiert (als Muskelkraft und Nachwuchs für ein System aus Korruption und Erpressung).
Anwar Congo aus Medan in Nord-Sumatra, der heute etwa 70 Jahre alt ist, war der 41. Mörder, den der Regisseur kennen lernte. Die erste Szene im Film ist auch das allererste Gespräch, das er mit Oppenheimer führte. Dabei demonstriert Anwar mit einem Draht, wie er auf dem Dach eines Wohnhauses vor über 40 Jahren zahlreiche Menschen stranguliert hatte. Anschließend tanzt er einige Schritte Cha-Cha-Cha.
Zwischen den beiden Männern entwickelt sich eine Beziehung und - darauf aufbauend - entsteht dieser Film. Anwar Congo beschreibt die Szenen, die er gerne filmisch umsetzen lassen möchte. Oppenheimer organisiert die Aufnahmen, er selber bleibt unsichtbar dabei. Anschließend schaut sich Anwar die Szenen an, sehr aufmerksam, macht Kommentare. Erst nach Abschluss einer Szene wird die nächste angegangen. Anwar liebt Filme, besonders die amerikanischen, und probiert sich in unterschiedlichen Genres aus.
Dazwischen kommen noch andere Täter zu Wort, beispielsweise der Gouverneur von Nord-Sumatra und der Stellvertretende Minister für Jugend und Sport, die sich zu den Morden äußern, als wären es großartige Errungenschaften.
Die Szenen in dem Film schockieren und verursachen Übelkeit. Gegen Ende war es leichter, wobei ich nicht genau sagen kann, ob der Film weniger schlimm wurde oder meine Abwehrmechanismen besser.
Ich habe den Film so empfunden, als sei er eine Therapie für Anwar Congo, den Massenmörder. Langsam, Szene für Szene, kommt er in Kontakt mit seinen verdrängten und verleugneten Gefühlen. Deutlich wird: solche Taten und Erlebnisse kann man nicht vergessen. Nein, es kostet sehr viel Kraft, sie umzudeuten, zu verändern oder an anderes zu denken. Drogen können nur kurzzeitig helfen.
Der Film selber ist 159 Minuten lang (die Kinofassung nur 119 Minuten), dazu kommt als Zusatzmaterial ein sehr interessantes Interview mit Joshua Oppenheimer, aus dem ich die Infos für diese Rezension habe.
Stattdessen kam er in Kontakt mit den Mördern von damals, die ihm sehr gerne die Orte zeigten, an denen sie ihre Opfer getötet hatten. Die Täter nennen sich Gangster (preman) und übersetzen dies mit „freie Männer“. Sie sind Mitglieder einer regierungsnahen paramilitärischen Organisation namens „Pancasila“, die auch heute noch junge Menschen rekrutiert (als Muskelkraft und Nachwuchs für ein System aus Korruption und Erpressung).
Anwar Congo aus Medan in Nord-Sumatra, der heute etwa 70 Jahre alt ist, war der 41. Mörder, den der Regisseur kennen lernte. Die erste Szene im Film ist auch das allererste Gespräch, das er mit Oppenheimer führte. Dabei demonstriert Anwar mit einem Draht, wie er auf dem Dach eines Wohnhauses vor über 40 Jahren zahlreiche Menschen stranguliert hatte. Anschließend tanzt er einige Schritte Cha-Cha-Cha.
Zwischen den beiden Männern entwickelt sich eine Beziehung und - darauf aufbauend - entsteht dieser Film. Anwar Congo beschreibt die Szenen, die er gerne filmisch umsetzen lassen möchte. Oppenheimer organisiert die Aufnahmen, er selber bleibt unsichtbar dabei. Anschließend schaut sich Anwar die Szenen an, sehr aufmerksam, macht Kommentare. Erst nach Abschluss einer Szene wird die nächste angegangen. Anwar liebt Filme, besonders die amerikanischen, und probiert sich in unterschiedlichen Genres aus.
Dazwischen kommen noch andere Täter zu Wort, beispielsweise der Gouverneur von Nord-Sumatra und der Stellvertretende Minister für Jugend und Sport, die sich zu den Morden äußern, als wären es großartige Errungenschaften.
Die Szenen in dem Film schockieren und verursachen Übelkeit. Gegen Ende war es leichter, wobei ich nicht genau sagen kann, ob der Film weniger schlimm wurde oder meine Abwehrmechanismen besser.
Ich habe den Film so empfunden, als sei er eine Therapie für Anwar Congo, den Massenmörder. Langsam, Szene für Szene, kommt er in Kontakt mit seinen verdrängten und verleugneten Gefühlen. Deutlich wird: solche Taten und Erlebnisse kann man nicht vergessen. Nein, es kostet sehr viel Kraft, sie umzudeuten, zu verändern oder an anderes zu denken. Drogen können nur kurzzeitig helfen.
Der Film selber ist 159 Minuten lang (die Kinofassung nur 119 Minuten), dazu kommt als Zusatzmaterial ein sehr interessantes Interview mit Joshua Oppenheimer, aus dem ich die Infos für diese Rezension habe.
Fabian
5つ星のうち4.0
bien
2014年5月15日にスペインでレビュー済みAmazonで購入
Algo recomendado en el libro 1001 PELICULAS QUE HAY QUE VER ANTES DE MORIR,así que hace parte de la colección