コテンラジオ民主主義編で紹介されていた『民主主義とは何か』『今こそルソーを読み直す』を続けて読んで復習しました。
『今こそルソーを読み直す』では、ルソー初心者として普通に面白かったです。
・理性が、人間が生まれつき持っている自由の感情を抑圧し、画一化することによって、社会を構成する
・社会は、人間の「自然=本性」の欠けている部分、つまり、本能として十分に備わっていないものを「補う」ために生じてきたように思える。しかし、その補うためのものがいつのまにか独自の論理に従って発展し始め、自然を抑圧し、人間の本性を全体的に変質させるようになる。
という理性が社会を構成し、社会が人間を変えていくという考え方や、
真の法は神でしか作れない、または[法=一般意志]という虚構を生み出し操る能力が必要という考え方、が面白かったです。
他のルソーの本も読んでみたいと思います。
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今こそルソーを読み直す (生活人新書) Kindle版
正義論から幸福論、教育論まで、すべてのヒントはここにあった!
なぜ不平等が生まれるのか? 公正な社会をいかに作るか? 理想の教育とは? 18世紀に生を受けながら、今日にも通ずる重要な問題を徹底的に考えた思想家がいた。「一般意志」というコンセプトを使って理想の社会のあり方を提示したルソー。その考え方を、主著に即して明快に解説する。現代人の切実な問いに答えるスリリングな書。
なぜ不平等が生まれるのか? 公正な社会をいかに作るか? 理想の教育とは? 18世紀に生を受けながら、今日にも通ずる重要な問題を徹底的に考えた思想家がいた。「一般意志」というコンセプトを使って理想の社会のあり方を提示したルソー。その考え方を、主著に即して明快に解説する。現代人の切実な問いに答えるスリリングな書。
- 言語日本語
- 出版社NHK出版
- 発売日2010/11/10
- ファイルサイズ1906 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
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商品の説明
著者について
● 仲正昌樹(なかまさ・まさき)
1963年、広島県生まれ。
東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。
現在、金沢大学法学類教授。
専攻は、社会思想史、比較文学。
著書に、『集中講義! 日本の現代思想』『集中講義! アメリカ現代思想』(NHKブックス)など多数。
1963年、広島県生まれ。
東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。
現在、金沢大学法学類教授。
専攻は、社会思想史、比較文学。
著書に、『集中講義! 日本の現代思想』『集中講義! アメリカ現代思想』(NHKブックス)など多数。
登録情報
- ASIN : B00ERC48XW
- 出版社 : NHK出版 (2010/11/10)
- 発売日 : 2010/11/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 1906 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 196ページ
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- - 60位フランス・オランダの思想
- - 1,148位哲学・思想 (Kindleストア)
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5 星
常識から外れた極論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー
『今こそルソーを読み直す』(仲正昌樹著、NHK出版 生活人新書)によって、ジャン=ジャック・ルソーをより深く理解できるようになりました。●ルソーという思想家が、社会契約の本質としての一般意志とともに、自然状態にあってエゴイズムを知らない「自然人」を描いたことは確かである。しかし、そのルソー自身が、その主要著作の随所で、社会状態に生きている「我々」が自然状態に完全に回帰するのは不可能であることを説いたこともまた確かである。●バブーフやマルクス主義者、レヴィ=ストロースなどに限らず、人間の「自然本性」として、「外観」に汚染される以前の――あるいは「外観」によって深層へと抑圧されている――「哀れみ」のようなものを想定し、そこから理想の社会を構想しようとする社会思想・理論は、程度の差こそあれ、『人間不平等起源論』の申し子と言える――ルソー自身はそうした行動へとけしかけることをしなかったわけだが。●(『人間不平等起源論』の)7年後に刊行された『社会契約論』は、まさに一般意志の成立に照準を合わせながら、「社会契約」の本質を明らかにする著作になっている。『人間不平等起源論』が、純粋の「自然状態」を推論によって描き出し、それを基準に社会を批判するという構成になっていたのに対し、『社会契約論』は、「社会契約」が達成すべき目的から見て、それがどのような内容・形式になるべきか論じていく構成になっている。つまり、理想の「社会」を推論によって描き出し、いかにしてそれに到達すべきかその方法を探っているわけである。●自然状態の野生人としての「自由」を失う代わりに、市民的状態に適合した「自由」を得ることが可能になる。「自然的自由」と違って、「市民的自由」は無制約ではなく、一般意志あるいは、その現われである「法」によって制約を受けているが、その代わり、「法」による保護を受けることになる。自然状態のままだと、各人は無制約に自由を行使できるものの、誰が何に関してどのように自らの自由を行使するか分からず、お互いの自由が真正面から衝突し、ホッブズ的状態に陥る恐れが常にある。法による制約を受け入れることによって「私」は、その制約の範囲内で、自らの正当な「権利」として――他者の暴力的干渉を恐れることなく――「自由」に振る舞うことができるようになる。・・・このように、自然的自由と市民的自由をはっきりと区別し、前者をいったん論理的に否定したうえで、改めて後者を確立しようとするところにルソーの社会契約論の特徴がある。●私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合し得るか、という問題だ。・・・現実的な解決策として考えられるのは、一定の条件の下で、各人が「私たちみんなの意志=私の意志」と見なすという規則をあらかじめ定めておくことである。ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する「私たちみんなの意志」としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自律と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。●『社会契約論』のルソーは、「自然的自由」と「市民的自由」を区別し、あくまでも後者の視点から「社会契約」を追求すべきであるという立場を明示している。●過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている。本署のおかげで、著者の言う「純粋に思弁の世界で思考し続け、常識から外れた極論に到達した挙げ句、その結論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー」の姿が見えてきました。
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2023年4月24日に日本でレビュー済み
『今こそルソーを読み直す』(仲正昌樹著、NHK出版 生活人新書)によって、ジャン=ジャック・ルソーをより深く理解できるようになりました。
●ルソーという思想家が、社会契約の本質としての一般意志とともに、自然状態にあってエゴイズムを知らない「自然人」を描いたことは確かである。しかし、そのルソー自身が、その主要著作の随所で、社会状態に生きている「我々」が自然状態に完全に回帰するのは不可能であることを説いたこともまた確かである。
●バブーフやマルクス主義者、レヴィ=ストロースなどに限らず、人間の「自然本性」として、「外観」に汚染される以前の――あるいは「外観」によって深層へと抑圧されている――「哀れみ」のようなものを想定し、そこから理想の社会を構想しようとする社会思想・理論は、程度の差こそあれ、『人間不平等起源論』の申し子と言える――ルソー自身はそうした行動へとけしかけることをしなかったわけだが。
●(『人間不平等起源論』の)7年後に刊行された『社会契約論』は、まさに一般意志の成立に照準を合わせながら、「社会契約」の本質を明らかにする著作になっている。『人間不平等起源論』が、純粋の「自然状態」を推論によって描き出し、それを基準に社会を批判するという構成になっていたのに対し、『社会契約論』は、「社会契約」が達成すべき目的から見て、それがどのような内容・形式になるべきか論じていく構成になっている。つまり、理想の「社会」を推論によって描き出し、いかにしてそれに到達すべきかその方法を探っているわけである。
●自然状態の野生人としての「自由」を失う代わりに、市民的状態に適合した「自由」を得ることが可能になる。「自然的自由」と違って、「市民的自由」は無制約ではなく、一般意志あるいは、その現われである「法」によって制約を受けているが、その代わり、「法」による保護を受けることになる。自然状態のままだと、各人は無制約に自由を行使できるものの、誰が何に関してどのように自らの自由を行使するか分からず、お互いの自由が真正面から衝突し、ホッブズ的状態に陥る恐れが常にある。法による制約を受け入れることによって「私」は、その制約の範囲内で、自らの正当な「権利」として――他者の暴力的干渉を恐れることなく――「自由」に振る舞うことができるようになる。・・・このように、自然的自由と市民的自由をはっきりと区別し、前者をいったん論理的に否定したうえで、改めて後者を確立しようとするところにルソーの社会契約論の特徴がある。
●私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合し得るか、という問題だ。・・・現実的な解決策として考えられるのは、一定の条件の下で、各人が「私たちみんなの意志=私の意志」と見なすという規則をあらかじめ定めておくことである。ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する「私たちみんなの意志」としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自律と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。
●『社会契約論』のルソーは、「自然的自由」と「市民的自由」を区別し、あくまでも後者の視点から「社会契約」を追求すべきであるという立場を明示している。
●過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている。
本署のおかげで、著者の言う「純粋に思弁の世界で思考し続け、常識から外れた極論に到達した挙げ句、その結論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー」の姿が見えてきました。
●ルソーという思想家が、社会契約の本質としての一般意志とともに、自然状態にあってエゴイズムを知らない「自然人」を描いたことは確かである。しかし、そのルソー自身が、その主要著作の随所で、社会状態に生きている「我々」が自然状態に完全に回帰するのは不可能であることを説いたこともまた確かである。
●バブーフやマルクス主義者、レヴィ=ストロースなどに限らず、人間の「自然本性」として、「外観」に汚染される以前の――あるいは「外観」によって深層へと抑圧されている――「哀れみ」のようなものを想定し、そこから理想の社会を構想しようとする社会思想・理論は、程度の差こそあれ、『人間不平等起源論』の申し子と言える――ルソー自身はそうした行動へとけしかけることをしなかったわけだが。
●(『人間不平等起源論』の)7年後に刊行された『社会契約論』は、まさに一般意志の成立に照準を合わせながら、「社会契約」の本質を明らかにする著作になっている。『人間不平等起源論』が、純粋の「自然状態」を推論によって描き出し、それを基準に社会を批判するという構成になっていたのに対し、『社会契約論』は、「社会契約」が達成すべき目的から見て、それがどのような内容・形式になるべきか論じていく構成になっている。つまり、理想の「社会」を推論によって描き出し、いかにしてそれに到達すべきかその方法を探っているわけである。
●自然状態の野生人としての「自由」を失う代わりに、市民的状態に適合した「自由」を得ることが可能になる。「自然的自由」と違って、「市民的自由」は無制約ではなく、一般意志あるいは、その現われである「法」によって制約を受けているが、その代わり、「法」による保護を受けることになる。自然状態のままだと、各人は無制約に自由を行使できるものの、誰が何に関してどのように自らの自由を行使するか分からず、お互いの自由が真正面から衝突し、ホッブズ的状態に陥る恐れが常にある。法による制約を受け入れることによって「私」は、その制約の範囲内で、自らの正当な「権利」として――他者の暴力的干渉を恐れることなく――「自由」に振る舞うことができるようになる。・・・このように、自然的自由と市民的自由をはっきりと区別し、前者をいったん論理的に否定したうえで、改めて後者を確立しようとするところにルソーの社会契約論の特徴がある。
●私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合し得るか、という問題だ。・・・現実的な解決策として考えられるのは、一定の条件の下で、各人が「私たちみんなの意志=私の意志」と見なすという規則をあらかじめ定めておくことである。ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する「私たちみんなの意志」としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自律と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。
●『社会契約論』のルソーは、「自然的自由」と「市民的自由」を区別し、あくまでも後者の視点から「社会契約」を追求すべきであるという立場を明示している。
●過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている。
本署のおかげで、著者の言う「純粋に思弁の世界で思考し続け、常識から外れた極論に到達した挙げ句、その結論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー」の姿が見えてきました。

『今こそルソーを読み直す』(仲正昌樹著、NHK出版 生活人新書)によって、ジャン=ジャック・ルソーをより深く理解できるようになりました。
●ルソーという思想家が、社会契約の本質としての一般意志とともに、自然状態にあってエゴイズムを知らない「自然人」を描いたことは確かである。しかし、そのルソー自身が、その主要著作の随所で、社会状態に生きている「我々」が自然状態に完全に回帰するのは不可能であることを説いたこともまた確かである。
●バブーフやマルクス主義者、レヴィ=ストロースなどに限らず、人間の「自然本性」として、「外観」に汚染される以前の――あるいは「外観」によって深層へと抑圧されている――「哀れみ」のようなものを想定し、そこから理想の社会を構想しようとする社会思想・理論は、程度の差こそあれ、『人間不平等起源論』の申し子と言える――ルソー自身はそうした行動へとけしかけることをしなかったわけだが。
●(『人間不平等起源論』の)7年後に刊行された『社会契約論』は、まさに一般意志の成立に照準を合わせながら、「社会契約」の本質を明らかにする著作になっている。『人間不平等起源論』が、純粋の「自然状態」を推論によって描き出し、それを基準に社会を批判するという構成になっていたのに対し、『社会契約論』は、「社会契約」が達成すべき目的から見て、それがどのような内容・形式になるべきか論じていく構成になっている。つまり、理想の「社会」を推論によって描き出し、いかにしてそれに到達すべきかその方法を探っているわけである。
●自然状態の野生人としての「自由」を失う代わりに、市民的状態に適合した「自由」を得ることが可能になる。「自然的自由」と違って、「市民的自由」は無制約ではなく、一般意志あるいは、その現われである「法」によって制約を受けているが、その代わり、「法」による保護を受けることになる。自然状態のままだと、各人は無制約に自由を行使できるものの、誰が何に関してどのように自らの自由を行使するか分からず、お互いの自由が真正面から衝突し、ホッブズ的状態に陥る恐れが常にある。法による制約を受け入れることによって「私」は、その制約の範囲内で、自らの正当な「権利」として――他者の暴力的干渉を恐れることなく――「自由」に振る舞うことができるようになる。・・・このように、自然的自由と市民的自由をはっきりと区別し、前者をいったん論理的に否定したうえで、改めて後者を確立しようとするところにルソーの社会契約論の特徴がある。
●私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合し得るか、という問題だ。・・・現実的な解決策として考えられるのは、一定の条件の下で、各人が「私たちみんなの意志=私の意志」と見なすという規則をあらかじめ定めておくことである。ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する「私たちみんなの意志」としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自律と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。
●『社会契約論』のルソーは、「自然的自由」と「市民的自由」を区別し、あくまでも後者の視点から「社会契約」を追求すべきであるという立場を明示している。
●過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている。
本署のおかげで、著者の言う「純粋に思弁の世界で思考し続け、常識から外れた極論に到達した挙げ句、その結論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー」の姿が見えてきました。
●ルソーという思想家が、社会契約の本質としての一般意志とともに、自然状態にあってエゴイズムを知らない「自然人」を描いたことは確かである。しかし、そのルソー自身が、その主要著作の随所で、社会状態に生きている「我々」が自然状態に完全に回帰するのは不可能であることを説いたこともまた確かである。
●バブーフやマルクス主義者、レヴィ=ストロースなどに限らず、人間の「自然本性」として、「外観」に汚染される以前の――あるいは「外観」によって深層へと抑圧されている――「哀れみ」のようなものを想定し、そこから理想の社会を構想しようとする社会思想・理論は、程度の差こそあれ、『人間不平等起源論』の申し子と言える――ルソー自身はそうした行動へとけしかけることをしなかったわけだが。
●(『人間不平等起源論』の)7年後に刊行された『社会契約論』は、まさに一般意志の成立に照準を合わせながら、「社会契約」の本質を明らかにする著作になっている。『人間不平等起源論』が、純粋の「自然状態」を推論によって描き出し、それを基準に社会を批判するという構成になっていたのに対し、『社会契約論』は、「社会契約」が達成すべき目的から見て、それがどのような内容・形式になるべきか論じていく構成になっている。つまり、理想の「社会」を推論によって描き出し、いかにしてそれに到達すべきかその方法を探っているわけである。
●自然状態の野生人としての「自由」を失う代わりに、市民的状態に適合した「自由」を得ることが可能になる。「自然的自由」と違って、「市民的自由」は無制約ではなく、一般意志あるいは、その現われである「法」によって制約を受けているが、その代わり、「法」による保護を受けることになる。自然状態のままだと、各人は無制約に自由を行使できるものの、誰が何に関してどのように自らの自由を行使するか分からず、お互いの自由が真正面から衝突し、ホッブズ的状態に陥る恐れが常にある。法による制約を受け入れることによって「私」は、その制約の範囲内で、自らの正当な「権利」として――他者の暴力的干渉を恐れることなく――「自由」に振る舞うことができるようになる。・・・このように、自然的自由と市民的自由をはっきりと区別し、前者をいったん論理的に否定したうえで、改めて後者を確立しようとするところにルソーの社会契約論の特徴がある。
●私個人の自由を重視する「自由主義」と、私たち全員参加で決めることを原則とする「民主主義」がどのように理論的に結合し得るか、という問題だ。・・・現実的な解決策として考えられるのは、一定の条件の下で、各人が「私たちみんなの意志=私の意志」と見なすという規則をあらかじめ定めておくことである。ルソーは、「社会契約」という最初の合意で定められた規約に従って成立する「私たちみんなの意志」としての「一般意志」という概念を導入することで、個人の自律と集団的自己統治、自由主義と民主主義を融合しようとしたわけである。
●『社会契約論』のルソーは、「自然的自由」と「市民的自由」を区別し、あくまでも後者の視点から「社会契約」を追求すべきであるという立場を明示している。
●過激なくせに、どっちつかずの態度を取るところが、ルソーの思想の奇妙な魅力になっている。
本署のおかげで、著者の言う「純粋に思弁の世界で思考し続け、常識から外れた極論に到達した挙げ句、その結論をあっさりひっくり返し、期待していた読者に肩すかしを食わせるルソー」の姿が見えてきました。
このレビューの画像

2017年5月8日に日本でレビュー済み
ルソーの著書自体が難しすぎて、この解説書はほんの手助けになる程度。ただ、自然状態に自由を求めたルソーの思想は今こそ考えるべきだと思う。
2011年3月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
相変わらず、手際の良い整理の仕方だなあ。ルソーは割りとわかりやすい文章を書くほうだと思うけど、
それでも、少し抽象的な議論になったとみると、著者は絶妙のタイミングでわかりやすい実例をあげる。哲学系の解説書でよく見られる
「哲学的ジャーゴン」を、別の「哲学的ジャーゴン」で言い換えるだけで事足れりとしているパターンとは違い、そのサービス精神と
明晰性は、プロの仕事だなと思わせます(本人はこの本ではあまりサービスしなかったといっているけど)。その点は素直にすごいと思う。
たとえば、55ページあたりから始まる、デリダのルソー、レヴィ=ストロース批判の解説など、その脱構築の過程が、たいへん手際よく普通の言葉で説明される。
また134ページあたりで、一般意思の形成過程に関してルソーが「個別意思から相殺しあうプラスマイナスを除くと、差異の総和として、一般意思が残ることになる」
と言う素朴かつ抽象的な説明をしているのに対し、著者は、AさんBさんCさんが土地の利用法で対立した場合を例に挙げてわかりやすく説明する。
このような調子で、『不平等起源論』『社会契約論』ひいては、『エミール』に至るまで明晰に読み解いていくのは圧巻である。
ルソーの思想は、ラッセルやハーバーマス、また著者の言うようにアーレントによって全体主義に結び付けられて批判されてきた。しかし、ルソーは生きている間ですら、ヴォルテールに「誤解されて」、あるいは「にくまれて」、あるいは「敵視されて」子捨ての事実を暴露されてしまったりしている。『夢想』では「自分ほど子どもが好きな人間はいないが自分が子どもを育てたらこどもが不幸になるのでやむを得なかった」とつらい自己弁護をしている。正直すぎて、感受性が強すぎて、自分の意志に反することがどうしてもできなくて、他人の誤解を自ら引き寄せて苦悩のうちに一生を終えたルソーは、やはり死してもその思想を誤解されたのであることがわかる。
著者はあとがきで『告白』を論じてみたいと書いているが、早く書いてくれ、絶対よむぞ!!
それでも、少し抽象的な議論になったとみると、著者は絶妙のタイミングでわかりやすい実例をあげる。哲学系の解説書でよく見られる
「哲学的ジャーゴン」を、別の「哲学的ジャーゴン」で言い換えるだけで事足れりとしているパターンとは違い、そのサービス精神と
明晰性は、プロの仕事だなと思わせます(本人はこの本ではあまりサービスしなかったといっているけど)。その点は素直にすごいと思う。
たとえば、55ページあたりから始まる、デリダのルソー、レヴィ=ストロース批判の解説など、その脱構築の過程が、たいへん手際よく普通の言葉で説明される。
また134ページあたりで、一般意思の形成過程に関してルソーが「個別意思から相殺しあうプラスマイナスを除くと、差異の総和として、一般意思が残ることになる」
と言う素朴かつ抽象的な説明をしているのに対し、著者は、AさんBさんCさんが土地の利用法で対立した場合を例に挙げてわかりやすく説明する。
このような調子で、『不平等起源論』『社会契約論』ひいては、『エミール』に至るまで明晰に読み解いていくのは圧巻である。
ルソーの思想は、ラッセルやハーバーマス、また著者の言うようにアーレントによって全体主義に結び付けられて批判されてきた。しかし、ルソーは生きている間ですら、ヴォルテールに「誤解されて」、あるいは「にくまれて」、あるいは「敵視されて」子捨ての事実を暴露されてしまったりしている。『夢想』では「自分ほど子どもが好きな人間はいないが自分が子どもを育てたらこどもが不幸になるのでやむを得なかった」とつらい自己弁護をしている。正直すぎて、感受性が強すぎて、自分の意志に反することがどうしてもできなくて、他人の誤解を自ら引き寄せて苦悩のうちに一生を終えたルソーは、やはり死してもその思想を誤解されたのであることがわかる。
著者はあとがきで『告白』を論じてみたいと書いているが、早く書いてくれ、絶対よむぞ!!
2012年3月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
しばしば、自由の精神と分かち合いの心はぶつかり合ってしまう。互いに分かち合おうとすれば、互いを縛り付けることにもなる。日本においてこの数十年続いた田舎から都会へと出るという傾向は、まずは自由を求めた結果だろう。そしてそれは同時に自然やそこに根付く共同体を失うということでもあった。
ルソーというとまず、虚飾を嫌い、自然を求めた思想家ということが思い浮かぶ。『エミール』はどのように人間を育てるべきかを説いた代表的な著作である。根底には、ブルジョア社会の中でどうしたら人が差別的態度をやめ平等でありうるのか、という問いかけがあった。
しかしまた、「自然人」などいないこともルソーの前提であり、そこから「一般意志」という人間的なものが導かれたのも事実である。
この平等さへの問いかけは、著者によれば現代日本人の問いかけそのものである。
自由と富を求めてきた人々は今、立ち止まり自問する。どうしたら格差をなくせるのだろうか。共同体を取り戻せるのだろうか、自然と共存できるのだろうか、と。
「都会人でありたいと同時に、自然人でもありたい」という矛盾を現代人は生きているのである。
本書はルソーの問いかけを自らのものとする、そうした導きとなる書として、ぜひ多くの人にお勧めしたい。
ルソーというとまず、虚飾を嫌い、自然を求めた思想家ということが思い浮かぶ。『エミール』はどのように人間を育てるべきかを説いた代表的な著作である。根底には、ブルジョア社会の中でどうしたら人が差別的態度をやめ平等でありうるのか、という問いかけがあった。
しかしまた、「自然人」などいないこともルソーの前提であり、そこから「一般意志」という人間的なものが導かれたのも事実である。
この平等さへの問いかけは、著者によれば現代日本人の問いかけそのものである。
自由と富を求めてきた人々は今、立ち止まり自問する。どうしたら格差をなくせるのだろうか。共同体を取り戻せるのだろうか、自然と共存できるのだろうか、と。
「都会人でありたいと同時に、自然人でもありたい」という矛盾を現代人は生きているのである。
本書はルソーの問いかけを自らのものとする、そうした導きとなる書として、ぜひ多くの人にお勧めしたい。
2012年11月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私自身は清水書院の『人と思想 ルソー』を読んだくらいで、大まかにしか知らないのですが特に問題なく読めました。新書らしいわかりやすい内容で、ルソーに対する事前知識は必要なく読めると思います。著者は自分の書いた他の新書に比べ難しいとは言っていますが、他の著者の書いた新書に比べた場合、それほど難解であるとは言えないでしょう。なぜなら、特にこれといった事前知識を必要とせず、文章も適正で、用語等の解説も丁寧になされているからです。さらに著者は、現代思想や政治哲学の基礎知識を持っていることを前提にと言っていますが、それらを避けてきた私にも十分理解できました。私が考えるに、思想はその時代に強く影響されており、過去に蓄積された思想史からも自由ではないはずです。なので、ルソーを読むにあたっては、トマス・ホッブズやジョン・ロックの入門書で読んでおくと、理解が大幅に上昇するように思われます。
いずれにせよ、ルソーは紛らわしいし、すっきりしないことは確かでしょう。哲学史系の本でも、「ルソーはフランス革命の原因だ」、「ロベスピエールの所業はルソーに責任あり」といった紋切り型の断言がなされていることも結構あります。しかし、それをどう読み解くかは別問題であり、時代と場所によって異なる解釈を受けるのですから、思想家の死後に起こったことに対して責任を求めるのは明らかに筋違いでしょう。この場合に大切なことは、ルソーの思想は危険であるという事ではなく、ルソーの思想を悪用した人間がいたということです。ルソーのような200年以上前の思想家であっても、現代思想と絡めて新しい解釈や影響を受けた思想が生まれるという事自体、私は素晴らしいことだと思います。
いずれにせよ、ルソーは紛らわしいし、すっきりしないことは確かでしょう。哲学史系の本でも、「ルソーはフランス革命の原因だ」、「ロベスピエールの所業はルソーに責任あり」といった紋切り型の断言がなされていることも結構あります。しかし、それをどう読み解くかは別問題であり、時代と場所によって異なる解釈を受けるのですから、思想家の死後に起こったことに対して責任を求めるのは明らかに筋違いでしょう。この場合に大切なことは、ルソーの思想は危険であるという事ではなく、ルソーの思想を悪用した人間がいたということです。ルソーのような200年以上前の思想家であっても、現代思想と絡めて新しい解釈や影響を受けた思想が生まれるという事自体、私は素晴らしいことだと思います。