森田真生の「計算と情緒」をとり上げる。
数学者岡潔は、数学するに当たって科学のように「物質」という観念からでなく世界が今、現れているという「実感」から出発した。
それは、「自然数の1とは、何であるか数学は何も知らない」。ただ、「1がある」と言う抜き差しならない「実感」は共有されているのでそこから、出発したのである。
岡は、「不定域イデアル」という概念を生み出した。後に、「層」の理論として普及した。それは、数学的には大域(例えば宇宙)とは、局所の貼り合わせであるというものである。
ドイツの生物学者ユクスキュルは、「環世界」と言った。
生物は、客観的な環境の中を生きているのではない。それぞれの生物を取り囲んでいるのは、あくまでその生物が自ら構築した局所的な世界(環世界)である。
「環世界」は、風景の始原である。人は、そこに「私的」な知識や想像力を加える。それは、一人一人の「情緒」に宿り来歴を背負っている。数学者も、「客観的で普遍的な数学世界」を無想しながらもどこまでも個人的で局所的な「数学する身体」に宿る「数学的風景=情緒」の中にいる。
岡は、「数学の中心にあるのは情緒である」と言った。それは、極めてリアルな「実感」であったろう。
「出来る前には予感がある。ほのぼのとあたたかく面白くなる。予感があるから出来るのである。.....それで感情が問題になる。しかし、理性的なものもあるし、いる。」、「山へのぼって日の光をよろこんで(微風、芽若、みはらし)下りて鉛筆の部分をかきつける」という日誌がある。
そこには、身体いっぱいに自然を受けとり身体を去来する生命過程のすべてを動員しながら小さな理性を超えた大きな力を借りて創造に耽ることを心から楽しんでいる。微風も芽若もみはらしもすべてが一体となり、なにかとてつもない大きな場所で数学している岡の姿がある。
岡の多変数解析函数についての第一作と同年に、イギリスではチューリングが「計算」という抽象的概念に具体的形式を与えた。
後に、チューリング機械と呼ばれることになる仮想の機械でありそれは、生身の人間の計算過程を数学的に抽象化したものである。
人間が紙と鉛筆を使って出来るありとあらゆる「計算」は、この単純な機械によって実現できる。
数学的風景の具体的実感の中で、「数学する身体」とともに数学に耽っていた数学者たちの仕事を引き継いで更に、その風景の精度を高めようとした19世紀後半の数学者の真摯な努力が20世紀半ばに至って「計算機」という身体から完全に解放された計算システムを生み出すに至ったことは、興味深いと言えば興味深く皮肉と言えば皮肉なことである。
しかし、フォン・ノイマン型アーキテクチャという現在迄受け継がれている計算機の設計思想の発明者であるノイマンは、「計算や論理が知性を支えているのではなく脳内の自然過程の方が計算と論理を支えているのであって、その自然過程については、私たちは未だ殆んど理解していない」と言っている。このことは、今でもそのまま通用するであろう。
数学は、情緒から生れて、計算と論理を経由した後に最後は、再びこの情緒へと還って来なければならない。
計算と論理の数学は、数学者にしか分からない。しかし、人間が数学する全体は、このように書かれると分かる。
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新潮 2014年 01月号 [雑誌] 雑誌
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