長らく観たくても絶版のためほとんど観る手段のなかったベロッキオの『肉体の悪魔』(‘86)がようやく再発され、さらにTSUTAYAの発掘良品シリーズでレンタルも可能なので、今では本作に興味のあるほとんどの方が観る事ができる環境になり、事態は180度好転したといっていい。その一方で、あまりにも酷いレビューが一本掲載されているのみで、他にレビューが書かれる気配が一向にない。
本作の監督、マルコ・ベロッキオは、ベルトルッチと同世代で、共に現代イタリア映画界を牽引し、いまも現役で映画を撮り続けている、イタリア映画界の「もう一人の巨匠」である。しかし日本では熱心に紹介されてきたとは言いがたく、彼のデビュー作でイタリア映画界にセンセーションを巻き起こした『ポケットの中の握り拳』(‘65)も、ヨーロッパ映画の自主上映を行っていたシネマテーク・ジャポネーズによって’83年に細々と上映された後は、つい先ごろ渋谷のシアターイメージフォーラムで開催されたベロッキオ特集までは、まともな形で再上映されていなかったという。
本作『肉体の悪魔』(‘86)が日本公開されたのは’87年。配給シネセゾン、今はなき六本木のアートシアター、シネヴィヴァン六本木で、これが日本での実質的なベロッキオ作品の初ロードショー上映だった。
近年、ベロッキオの新作は、そこそこ日本で上映されているようだが、作品単体としての紹介が主だっていて、監督のブランド感はほとんどスルーされているように思える。大概「ベルトルッチと並ぶイタリア映画の巨匠」という文言で、結局のところベロッキオの作家としての個性を何ら表現していないのと同じだ。映画王国、TSUTAYA東京・渋谷店でもベロッキオのコーナーはなく、その他もろもろのイタリア映画の中に埋没している。そしてTSUTAYAの店内のポップでも、本作は「若い学生と人妻の禁断の愛」的な紹介のされ方をしていて、それは実はこの映画ではなく原作の小説の設定なのである。映画では高校生と「許婚のいる年上の女性」の恋愛である。
つまり、映画通たちが選んだという鳴り物入りのブランドである「発掘良品シリーズ」の商品担当者は、この映画を観もせずに、ネットのどこかからコピペしてきた文章でいけしゃあしゃあと本ソフトを紹介し全国展開している訳である。
以上のことから、マルコ・ベロッキオという監督がいかに日本で正統な評価を受けず、不遇な扱いを受けているかが明らかであり、ゆえにささやかながら援護射撃させて頂くため、本レビューを書きたいと思う。
本作は、20歳で夭逝した作家レイモン・ラディゲの「肉体の悪魔」の映画化作品。
筆者は原作をきちんとした形で読んではいないので比較はできないが、本作は原作をかなり大胆に翻案している、と云われる。舞台も第一次大戦下のフランスから、現代(厳密には‘80年代半ば)のイタリアに置き換えている。
映画冒頭は、主人公アンドレアが通う高校の教室から始まる。窓の外のレンガ屋根の上を、下着姿の黒人女性が半狂乱で歩いている。窓辺に群がる生徒たち。投身自殺しようとする黒人女性を、神父がなだめようとするが、耳を貸そうとしない。その時、おもむろに近くのバルコニーに一人の若い女性、ジュリアが下着姿で現れる。二人の目が合い、取り乱していた黒人女性は、不思議にも落ち着きを取り戻す。そしてジュリアはその女性の悲しみに共鳴したかのように、目から涙を流す・・・。
その姿を見たアンドレアの脳裏にジュリアの面影が焼きつき、彼女の後を追う。ジュリアが向かった先は、法廷。そこではテロリストたちの裁判が行われていて、その最中、ジュリアは突然見知らぬアンドレアに身体を寄せてくる。やがて二人は逢瀬を重ね、肉体関係を持つようになるが、ジュリアには婚約者がいて、しかもそれはあの法廷で裁かれていたテロリストだった。
さらにジュリアは、精神科医であるアンドレアの父の患者でもあった・・・。
デビュー作『ポケットの中の握り拳』で、パゾリーニをして「アウトサイダー同志の我々」と言わしめたマルコ・ベロッキオは、イタリアの旧態依然とした社会や家族、保守的な価値観の中で抑圧された人間の本性を容赦なく暴きたて、映画界を震撼させた。パゾリーニが「イタリア映画の異端児」だとすれば、さしずめベロッキオは「イタリア映画の悪童」とでも云うべきか。
パゾリーニ − ベロッキオ − ベルトルッチ。この3者には、ある共通点と差異がある。3人共にインテリではあるが、パゾリーニとの共通点でベルトルッチとの違いは「本能的」な映画を撮る、という点。その一方で、パゾリーニほど破壊的でインモラルではない(笑)。面白いのは、「冷静で知的に、本能的」なのだ。
ベルトルッチとベロッキオの映画に共通するものとしては、観るものをぐいぐいと引っ張っていく不思議なエネルギーがある、という事である。扇情的な娯楽映画ではないのだが、気付くと映画に見入ってしまっている自分がいる。不協和音のような不穏な音楽が、むしろ興味を掻き立て画面に食い入らせる役目すら果たしている。
その一方での違いは、初期のベルトルッチは、社会や、時には自分自身への観察者的な醒めた目線と、映画青年的な視覚遊戯が混在するが、ベロッキオは、旧いものと新しいものの対立構造をとりながら、保守への抗議、本能の礼賛を表明しているように見える。
実は、ベロッキオ映画の特徴は、本作の冒頭のシーンに集約されていると言っても過言ではない。屋根の上で取り乱す黒人女性を、カトリックの神父がなだめようとする。
「落ち着いて、自殺はいけない。命は神のものです」「貴方よりも苦しんでいる人がいる」「家族の事を考えて下さい」
至極まっとうな言い分ではある。しかし、その言葉は黒人女性の心には届かない。カトリックに象徴される、保守的なイタリア社会の価値観の押し付けだからだ。ところが、ヒロインのジュリアが登場するや否や、状況は一変する。ここで何とも独創的なのは、ジュリアと黒人女性が目と目を合わせただけで、何の会話のやりとりも行われていないのに、瞬時に心が通い合う事・・・一種のテレパシーのようなコミュニケーションが成立することである。自分の悲しみを理解し、共感してくれる人がいる事を知り、黒人女性は落ち着きを取り戻すのである。
こんな不可思議な描写は、合理主義者であるインテリ派の監督の映画では、通常まず観ることはできない。これはベロッキオ映画ならではのシーンなのである。
ここで描かれているのは、「ただ論理的なだけの、形骸化した心無き伝統」と「理屈を超越したところにある心」=感情を本能的に理解する心、その2者の対比であり、ベロッキオ作品のキーワードである「抑圧対自由」「権威対反抗」「伝統対無秩序」に通じるものである。
「原作では、情熱的ではあるが受身で従順な女性を虜にする若者が主人公ですが、私の映画では、ヴァイタリティがあって謎めいた女性が、登場する男すべての計画や安定を目茶苦茶にしてしまうのです」− ベロッキオ
本作の主人公は、あくまで高校生男子のアンドレアなのだが、はっきり言ってしまうと、彼が魅せられるヒロインのジュリア=女優・マルーシュカ・デートメルスの奔放な存在感に全部持って行かれていると言っても過言ではない(笑)。彼女の設定として面白いのは、精神を患っている(一説によればニンフォマニア=色情狂なのだそうだ・笑)、という事である。それによって、このヒロインの「理性の鍵が外され」本能的で刹那的、そして破滅的な行動をとるのである。
冒頭の、見知らぬ黒人女との共鳴に始まり、法廷の傍聴席で初めて出会ったアンドレアに、いきなりにじり寄っていく行動、さらにその法廷では被告のテロリストの男女たちが檻の中で抱き合い始め、警備員が止めるために殺到する。騒然とする法廷内を見てアンドレアがジュリアの手を引き飛び出していく時に、彼女が捨てゼリフのように叫ぶ「最後までやらせてあげて〜!」というセリフには爆笑してしまう。
そして、許婚の母親(彼女もまた保守的な人物)の贈り物の皿を全部叩きつけて粉々にする反抗的態度、理性と秩序とは正反対の世界=感情と本能の赴くままに生き行動する、いまにも壊れそうな危うさの中にエネルギッシュな魅力が溢れていることを嫌が応にも感じずにはいられないだろう。
ゴダールの『カルメンという名の女』(‘83)で知られるマルーシュカ・デートメルスは、全裸体当たり演技も辞さない迫真の熱演だが、別に本作はエロチック映画ではない。そこのところを勘違いして勝手な文句を言う輩がいるようだが、監督の事も作品の事も知ろうともせずに自分本位な視点で切って捨てるのは甚だ浅はかで短絡的と言うほかない。
ベロッキオの映画は、ベルトルッチと比較していくと面白い。神経症ぎみのヒロインは、『革命前夜』に通じるものがある。その一方で、本作にはベルトルッチの初期作品に顕著な、自己憐憫的なペシミズムはない。例えば「順応主義者」というキーワードで視ていくと、『革命前夜』や『暗殺の森』の主人公と同じような人物が登場する。それはジュリアの許婚のテロリストである。彼は、投獄され続けることから逃れるために、仲間の情報を漏らす。つまり「反抗する側」から「保守主義者たちの側」に寝返るのである。
本作の主人公は、「保守」「理性」の側にいながら、その対極にある「反抗」「本能」の側に惹かれてゆく人間である。その一方で、狂気に溺れることなく「知性」や「理性」も保っているところが特長である。精神科医の主人公の父は、患者であるジュリアの症状を改善することはできない。しかし、息子はジュリアと肉体関係を持つことで、ジュリアが心を開く。父は息子に対し、敗北感を感じながら「精神分析医は患者と寝てはいけない」と、負け惜しみのようなセリフを吐く。
「私は、家族というものに反抗しているのではありません。私は、息子が父親の法を受け入れなければならないという原則に反抗しているのです」− ベロッキオ
ここでも、「保守世代」と「新世代」の対立が描かれている。主人公アンドレアは、「経験は乏しいが、人の感情について知ろうとする、新しい価値の探求者」なのである。
この映画には、マッシモ・ファッジョッリという精神分析医が助言者として参加している。「人間は生まれつき異常とは考えられない。変化するものだ」としてフロイト派と反対の立場をとり、主流派から追放された精神科医である。ベロッキオは、彼が主催する集団精神分析に’70年代末から’80年代にかけて参加し、大きな影響を受けたという。
イタリアで、精神疾患の問題について忘れてはならないのは、フランコ・バザーリアという精神科医が行った、「強制収容所のごとき精神病棟」の廃絶運動で、「自由こそ治療だ」をスローガンに、同志と共に’60年代初頭から地道な活動を続け、ついに’78年に世界初の精神科病院廃絶法の公布を勝ち取った大改革である。事実上イタリアからは精神病棟は無くなるのである(概要では誤解を招く可能性もあるので、興味のある方は、ネットで簡単に閲覧できるので、大熊一夫氏による「イタリア精神保健改革早分かり」をご覧下さい)。
余談ながら、バザーリアのこのエピソードは、シルヴァーノ・アゴスティという、これまたベロッキオと同じように日本ではまともに紹介されていない天才的な映画監督(これまた、大阪ドーナッツクラブという素晴らしい集団が地道な自主上映活動を行っている)による『ふたつめの影』(2000年)という映画の中で描かれているので、ごく少数ながらご覧になった方もいると思う。また、ソフト化され割と視聴しやすい映画では、バザーリア法施行後の精神病患者たちを描いた『人生、ここにあり!』(2008年)という映画もあるので、興味があればご覧下さい。
ちょっと脱線してしまったが、本作はそうしたことを背景にした作品であり、時代背景もこの映画が制作された頃とほぼ同じ、’80年代前半と考えられる。
どんどん長くなってしまうが、もう一つ、この映画の背景について書いておきたい。本作を紹介した文章に、よく「‘68年以後の、ポスト・テロリズムの時代を舞台に描く」と表現されている。この「ポスト・テロリズム」とはどういう意味の言葉なのか?判るようで、よく判らない言葉である。で、批評家という人種はそうした言葉をクリシェ的に振りかざす割にはその言葉について一切説明なし。実際にその言葉を理解して使っているのかも疑わしい。実はネットで調べても「ポスト・テロリズム」とは何ぞやという記述はない。そこで色々と調べてみて筆者なりに解釈した事を以下に記そうと思う。
研究者たちは、テロの時代を「‘60年代〜‘80年代」「‘90年代〜‘01年の米同時多発テロ前」「‘01年の米同時多発テロ〜現在」の3つの時代に分けて論じる事が多いようだ。’60年代〜’70年代のテロは「ハイジャックや人質」といった手段が中心で、これは航空機による大量移送の発達期だったため利便性を追及し、テロ対策が甘かったことが背景にあるという。そして、空港でのX線・金属探知機の導入など、政府によるテロ対策が厳しくなっていき、’70年代〜’80年代にかけて、テロの手段は、政府の対応が難しい、即効性のある「爆弾」へとシフトしていく。
「ポスト・テロリズム」という言葉は、このテロの手段がハイジャック、人質、大使館占拠といった方法から爆弾へと変化していった時代の事を指していると思われる。
ジュリアが映画冒頭で、歩道の片隅に立てられた亡き父の墓碑に花を捧げるシーンがある。「マリオ・ドッツァ大佐 1979年6月27日死去 テロリズムに斃れる」
彼女の父を殺害したテロリストの一員である男と、ジュリアは婚約しているのである。そしてそのテロリストは、順応主義者へと身を売ってしまう。
ベロッキオは、本作が初期の頃ほどの攻撃性を持った映画ではない事に対し、こう答えている。
「私は、ある種の政治は、破滅、殺人、自己破壊に導かれるものだということに気がついたからです。私はテロリズムを拒否しました。しかし、世の中に調子を合わせたわけではありません。順応主義者にはなりませんでした」
ベロッキオは、ジュリアの許婚が「過激主義」から「ブルジョワ的生活」へと移っていくことに関し、「今日のイタリアのドラマティックな現実の例証」なのだと語る。
ベロッキオが感じていた「ポスト・テロリズム」とはおそらく、攻撃者が順応者になって行ってしまう事へのペシミズムで、それに対する回答が『肉体の悪魔』なのではないだろうか。
主人公の父に代表されるような古い価値観と、アナーキズムから保守へと後退してしまう人々、一方でジュリアのような、型にはまらない自由奔放な狂気=本能の解放者、そして、知性と冷静さを保ちながら、本能的思考を受け入れる主人公アンドレア=新世代との価値観のぶつかり合い。
そこには、「イタリア映画界の悪童」ベロッキオの、イタリアの保守的な社会への皮肉と、新しい時代への希望が込められているのだと思う。
「これは凡庸さや正常な意識といったものに対抗する、狂気と性本能が入り交じった愛の物語なのです」− マルコ・ベロッキオ
最後に、ソフトのスペックに関して。
ひとつ残念だったのは、画質が思ったほど良くはなかったこと。少なくともこれはニュープリント・ニューマスターではない。どの程度の画質かと言うと、「割と画質のいいビデオソフト」程度で、おそらくはビデオソフトのマスターを転用していると思われる。観ていてストレスを感じるほどの画質の悪さではないが、千円前後の廉価版ならともかく、この時代にこの値段で発売されるソフトとしては、この画質は閉口ものだと思う。
色に関しては、特に「赤」のクロマレベルが高く、人物の肌に赤が強く乗っている、人物が着ている服の赤がけばけばしく見える、といった点がやや気になる。
今年、シアターイメージフォーラムでベロッキオの特集上映があり、その時に上映されていたプリントはきれいだったと記憶しているので、その流れで再DVD化されたのかと思ったが、どうも関係はなく、しかも発売元のIVCはこの映画に特に思い入れがないようだ。非常に残念と言わざるを得ない。唯一、本ソフトは無修正だった事だけは評価したいとは思うのだが。
『ポケットの中の握り拳』も、この流れに乗ってソフト化されると思っていたが、その可能性がちょっと遠のいてしまった気もする。紀伊國屋あたりがDVD化してくれないものだろうか。
評価で★5つとしているのは、あくまで作品としてで、商品としては、本作を再発させた功績を鑑みてひいき目に見ても、最大努力で★4つが限界。厳しい客なら★1をつけられても文句は言えないかもしれない。いまやDVDが主流で、よりクオリティを求める客はBDへ移行しているこの時代にこの画質で発売をせざるを得ないのなら、せめて値段を安価にするべきである。
結局、ソフトの質からも、ベロッキオ映画のわが国での不遇な扱いを痛感せざるを得ない結果となってしまったのが残念だ。