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武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 (角川ソフィア文庫) Kindle版
忍藩の下級武士が描いた『石城日記』。飄々とした作者の人柄がにじみ出ており、思わず吹き出すような滑稽味にも溢れている。貧しくも心豊かな武士の日常生活の貴重な記録。『幕末下級武士の絵日記』を改題。
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2014/11/25
- ファイルサイズ46174 KB
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商品の説明
著者について
1944年、神戸市生まれ。熊本県立大学名誉教授。九州大学大学院博士課程(建築学専攻)修了、工学博士。「歴史は現在の問題から遡るべき」という理念のもとに、古代から現代までの日本住宅と中国住宅、およびその暮らしの風景を研究している。主著に『清閑の暮らし』(草思社)、『江戸時代日本の家』『日本の住まい その源流を探る』(相模書房)などがある。
登録情報
- ASIN : B00PL91YE6
- 出版社 : KADOKAWA (2014/11/25)
- 発売日 : 2014/11/25
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 46174 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 361ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 100,609位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 701位角川ソフィア文庫
- - 4,398位歴史・地理 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2021年6月18日に日本でレビュー済み
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のぼうの城でお馴染みの忍城の侍の日記で楽しく拝見させていただきました。
2015年2月10日に日本でレビュー済み
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幕末武士の日常が垣間見られてよい。
まぁよく呑みますなぁwww。
まぁよく呑みますなぁwww。
2018年10月10日に日本でレビュー済み
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とても良いです。
昔の下級武士達の生活がとても勉強になります。
現代の我々もこの本を見て幸せを見直す必要があると思いました。
昔の下級武士達の生活がとても勉強になります。
現代の我々もこの本を見て幸せを見直す必要があると思いました。
2024年2月5日に日本でレビュー済み
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「『来候』ハるへし」に「きそうろう」とふってある。どう読むんですか。「きさうらはるべし(きそうらわるべし)」でしょう。いったいこの著者は古文書を読めるのですか。
また「挑灯」には「ちょうとう」と振つてあります。続く解説には「提灯」と書き「ちょうちん」とふってありますが、「挑灯」もおなじく「ちょうちん」と読むのです。こんなことちょっと辞書を引けば素人でもわかる。
さらに同じページで「長閑」に「ちょうかん」と振り、ご丁寧に()書きで「長い暇(ひま)」と追加してある。「のどか」でしょう。著者が振ったのか、校訂が振ったのかわかりませんが、こんな基本的なところでの間違いがいくつも出てくるので、読み進めていくうちに解説にまで信用がおけなくなってきます。
こんな間違いの多い版をそのままにして別の出版社から色刷りの増補版を出しているのも信用のおけなさを増幅させます。
また「挑灯」には「ちょうとう」と振つてあります。続く解説には「提灯」と書き「ちょうちん」とふってありますが、「挑灯」もおなじく「ちょうちん」と読むのです。こんなことちょっと辞書を引けば素人でもわかる。
さらに同じページで「長閑」に「ちょうかん」と振り、ご丁寧に()書きで「長い暇(ひま)」と追加してある。「のどか」でしょう。著者が振ったのか、校訂が振ったのかわかりませんが、こんな基本的なところでの間違いがいくつも出てくるので、読み進めていくうちに解説にまで信用がおけなくなってきます。
こんな間違いの多い版をそのままにして別の出版社から色刷りの増補版を出しているのも信用のおけなさを増幅させます。
2015年11月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
江戸時代も、絵日記を書いている人がいた。それも武士。武士だけでなく当時の人々の日常がうかがえ大変興味深かった。
現代の日本人に通じる生活が分かり、ほのぼのとした趣を感じた。
現代の日本人に通じる生活が分かり、ほのぼのとした趣を感じた。
2020年2月21日に日本でレビュー済み
本書は「江戸時代」の終末期の「文久元年」(1861年)から翌年までの178日間の「絵日記」(『石城日記』である。33歳のときであった。
解説者は「熊本県立大学」教授で「建築学」が専門である。
著者は「忍藩」(埼玉県「行田市」)の10人扶持(年-18石、113万円)の「下級武士」であった。元は100石(348万円)の「御馬廻役」という「中級武士」(100石)であったが「藩主」に上書(意見書)〔藩の〕を差出したことから「藩主」の怒りを買い、
「10人扶持」に落とされた。そのため「養子先」を追い出され「妹」の主人宅に転がり込んだ。主人は同じく「10人扶持」だった。
「尾崎石城」は左遷されても至って呑気で左遷されたことなどどこ吹く風であった。「無役」で暇だったことを利用して母のいる「江戸」に頻繁に通っていた。その資金は「絵日記」を描くくらいだから<絵才>に富み「軸物絵(「掛け軸絵」)」、「屏風絵」、「行燈絵」を描いては売っておりかなりの儲けがあった。
彼の一日は、午前中は居候している家の庭の草刈り、それが終わると遊びに出かける。行く先は「友人宅」や「寺」である。そこでは「酒」を酌み交わして談笑に興じる。「僧侶」も付き合う(当時の「僧侶」は酒食を好み<生臭坊主>と呼ばれていた。
彼はまた至って「愉快」な人で誰とでもすぐに打ち解けたのであった。そうでなければ左遷されて家に籠って何もせずに寝てばかりいただろう。つまり「ニ-ト」であるが、彼はこれとは全く無縁であった。
当時は「武士」の住む場所と「町人」・「寺社人」が住む場所は厳格に区分されており、その境には「木戸」があって役人が常駐し取締ってはいたが、役人も至って寛大で自由に行き来していた。そういことと彼の性格もあって「町人」・「寺社人」とも頻繁に付き合い、お互いの家を訪れ合っていた。「町人地」にある「料亭」にもたびたび足を運び、「料亭」の女将も彼の家を訪れていた。これは彼の性格もあったが居候している「妹」一家も寛大であったからである。
ところで「忍藩」の城下町は1.5キロ四方で、そこには「武士」の家族が7千人、「町人」、「職人」、「寺社人」が7千人、計1万4千人が暮らしていた。
「武士」が住む家は「藩」から下付され、身分により敷地の大きさ、間数が決められており、身分が上下すると「家」も移動させられた。「城」から遠ざかるほど<身分>が低くなる。
彼が居候している「家」は「忍藩」の地図が残っており、彼の「絵日記」での様子から「城」から一番遠い「武士屋敷」の一角にあり、頻繁に訪れていた「寺」もその一角にあった。
彼の「絵日記」は「城下」での様々な人々の暮しや風俗、正月の料理、料亭の料理なども描かれている。それだけではなく「坂下門外の変」(「文久二年〔1862年〕1月15日午前8時ころ「水戸藩士」が<公武合体>を推進していた老中「安藤信正」を「坂下門」(「皇居」の中で「正門」のある「二重橋」の北側で「宮内庁」の前)で襲った事件-襲ったのは6名で警護の者が50人もいたため「安藤信正」ほか誰も怪我はしなかった)のことも記している。彼は事件当時実際にそこには行ってはなかったが、その事件の知らせはすぐに「瓦版」で知らされ「江戸」の人々も知っており、「忍藩」にも伝えられて、彼も知ってこの事件のことを記した(絵はない)のである。このように彼が生きた時代は「幕末」で「各藩」の武士たちの暗闘が絶えなかったのである。
なお「尾崎石城」が何故<178日>で「絵日記」を閉じたかは定かではないが、とても残念である。その後に「絵日記」があったかもしれないが散逸してしてしまったのかもしれない。
読んでいてとても面白い。
ともあれ当時のことを知る一級の史料である。
解説者は「熊本県立大学」教授で「建築学」が専門である。
著者は「忍藩」(埼玉県「行田市」)の10人扶持(年-18石、113万円)の「下級武士」であった。元は100石(348万円)の「御馬廻役」という「中級武士」(100石)であったが「藩主」に上書(意見書)〔藩の〕を差出したことから「藩主」の怒りを買い、
「10人扶持」に落とされた。そのため「養子先」を追い出され「妹」の主人宅に転がり込んだ。主人は同じく「10人扶持」だった。
「尾崎石城」は左遷されても至って呑気で左遷されたことなどどこ吹く風であった。「無役」で暇だったことを利用して母のいる「江戸」に頻繁に通っていた。その資金は「絵日記」を描くくらいだから<絵才>に富み「軸物絵(「掛け軸絵」)」、「屏風絵」、「行燈絵」を描いては売っておりかなりの儲けがあった。
彼の一日は、午前中は居候している家の庭の草刈り、それが終わると遊びに出かける。行く先は「友人宅」や「寺」である。そこでは「酒」を酌み交わして談笑に興じる。「僧侶」も付き合う(当時の「僧侶」は酒食を好み<生臭坊主>と呼ばれていた。
彼はまた至って「愉快」な人で誰とでもすぐに打ち解けたのであった。そうでなければ左遷されて家に籠って何もせずに寝てばかりいただろう。つまり「ニ-ト」であるが、彼はこれとは全く無縁であった。
当時は「武士」の住む場所と「町人」・「寺社人」が住む場所は厳格に区分されており、その境には「木戸」があって役人が常駐し取締ってはいたが、役人も至って寛大で自由に行き来していた。そういことと彼の性格もあって「町人」・「寺社人」とも頻繁に付き合い、お互いの家を訪れ合っていた。「町人地」にある「料亭」にもたびたび足を運び、「料亭」の女将も彼の家を訪れていた。これは彼の性格もあったが居候している「妹」一家も寛大であったからである。
ところで「忍藩」の城下町は1.5キロ四方で、そこには「武士」の家族が7千人、「町人」、「職人」、「寺社人」が7千人、計1万4千人が暮らしていた。
「武士」が住む家は「藩」から下付され、身分により敷地の大きさ、間数が決められており、身分が上下すると「家」も移動させられた。「城」から遠ざかるほど<身分>が低くなる。
彼が居候している「家」は「忍藩」の地図が残っており、彼の「絵日記」での様子から「城」から一番遠い「武士屋敷」の一角にあり、頻繁に訪れていた「寺」もその一角にあった。
彼の「絵日記」は「城下」での様々な人々の暮しや風俗、正月の料理、料亭の料理なども描かれている。それだけではなく「坂下門外の変」(「文久二年〔1862年〕1月15日午前8時ころ「水戸藩士」が<公武合体>を推進していた老中「安藤信正」を「坂下門」(「皇居」の中で「正門」のある「二重橋」の北側で「宮内庁」の前)で襲った事件-襲ったのは6名で警護の者が50人もいたため「安藤信正」ほか誰も怪我はしなかった)のことも記している。彼は事件当時実際にそこには行ってはなかったが、その事件の知らせはすぐに「瓦版」で知らされ「江戸」の人々も知っており、「忍藩」にも伝えられて、彼も知ってこの事件のことを記した(絵はない)のである。このように彼が生きた時代は「幕末」で「各藩」の武士たちの暗闘が絶えなかったのである。
なお「尾崎石城」が何故<178日>で「絵日記」を閉じたかは定かではないが、とても残念である。その後に「絵日記」があったかもしれないが散逸してしてしまったのかもしれない。
読んでいてとても面白い。
ともあれ当時のことを知る一級の史料である。
2015年12月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
絵日記を残した下級武士の尾崎石城の左遷中の日々に焦点を合わせているのは良いと思う。武士の生活には現代のサラリーマンのルーツがある。上にたてつけば冷や飯を食うのは今も昔も同じ。その一方で格下げにはなっても首にはなかなかならないのも面白い。才能を惜しむ人もいるからだろうが、そんな背景があるはずだがそれがはっきりしない。日々の交友の中には藩上層部へとりなしなどもあるだろうが、それが多少なりとも明らかになるのは最後の方でほんの数行に過ぎない。
また、武家屋敷の間取りについて仮説を述べているがそれも弥生や縄文の文化がどうのこうのというもの。学問としての価値は皆無でトンデモ本にでもありそうな荒唐無稽さで噴飯もの。せめて蝸牛説くらいはなぞってほしい。
江戸末期の政治状況や事件に触れるのは構わないが、それよりも忍藩の政治状況を分析しなぜ、石城が赦免されたのかをきちんと解説するべきだった。安藤対馬守や井伊掃部の遭難は歴史的事実だが、それが一介の地方の武士の人生にどう影響したかは、忍藩の置かれた立場と藩上層部の判断の経過が絶対に必要だ。それを欠くのは明らかに手抜き。
石城の日記は優れた史料なのだ。願わくばこのような質の悪い冊子ではなく、きちんとした研究者の解説を期待したい。
また、武家屋敷の間取りについて仮説を述べているがそれも弥生や縄文の文化がどうのこうのというもの。学問としての価値は皆無でトンデモ本にでもありそうな荒唐無稽さで噴飯もの。せめて蝸牛説くらいはなぞってほしい。
江戸末期の政治状況や事件に触れるのは構わないが、それよりも忍藩の政治状況を分析しなぜ、石城が赦免されたのかをきちんと解説するべきだった。安藤対馬守や井伊掃部の遭難は歴史的事実だが、それが一介の地方の武士の人生にどう影響したかは、忍藩の置かれた立場と藩上層部の判断の経過が絶対に必要だ。それを欠くのは明らかに手抜き。
石城の日記は優れた史料なのだ。願わくばこのような質の悪い冊子ではなく、きちんとした研究者の解説を期待したい。