パプーシャの黒い瞳 Blu-ray
¥9,680 ¥9,680 税込
フォーマット | Blu-ray, ドルビー, 字幕付き, ワイドスクリーン, ブラック&ホワイト |
コントリビュータ | ヨビタ・ブドニク, クシシュトフ・クラウゼ, ヨアンナ・コス=クラウゼ, アントニ・パブリツキ, ズビグニェフ・バレリシ |
稼働時間 | 2 時間 11 分 |
商品の説明
「緑の草は風にそよぎ 樫の若木は老木にお辞儀する」
―いくつもの時を その瞳は見つめた 森よ 今あなたは どこにいるの
―美しいモノクローム。心ふるえる音楽。歴史上初めての
ジプシー(ロマ)女性詩人を描いたポーランド映画、新たな名作!
書き文字を持たないジプシー(ロマ)の一族に生まれながら、幼い頃から、
言葉と文字に惹かれ、詩を詠んだ少女がいた。ブロニスワヴァ・ヴァイス(1910-1987)、
愛称は“パプーシャ"(人形)。彼女は成長し、やがてジプシー(ロマ)女性として初めての「詩人」となる。
しかし、その天賦の才能は彼らの社会において様々な波紋を呼び、その人生を大きく変えることになった…。
監督はポーランドの名匠クシシュトフ・クラウゼと、その妻ヨアンナ・コス=クラウゼ。戦前からナチスの時代、
そして戦後ポーランドの誕生と、半世紀を越えるいくつもの時代を再現したモノクロームの映像美には
驚嘆のほかない。冒頭のオペラ曲“パプーシャのハープ"に始まり、心沸き立つジプシーミュージック(ロマ音楽)など
全編を彩る音楽の魅力も圧倒的である。
<特典>映像:劇場予告編/解説:リーフレット
*初回生産分のみ『パプーシャ その詩の世界』詩集本(定価1000円/発行者:ムヴィオラ)を同梱
(c)ARGOMEDIA Sp. z o.o. TVP S.A. CANAL+ Studio Filmowe KADR 2013
登録情報
- アスペクト比 : 1.78:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 製品サイズ : 30 x 10 x 20 cm; 100 g
- EAN : 4523215120630
- 監督 : ヨアンナ・コス=クラウゼ, クシシュトフ・クラウゼ
- メディア形式 : Blu-ray, ドルビー, 字幕付き, ワイドスクリーン, ブラック&ホワイト
- 時間 : 2 時間 11 分
- 発売日 : 2015/10/31
- 出演 : ヨビタ・ブドニク, ズビグニェフ・バレリシ, アントニ・パブリツキ
- 字幕: : 日本語
- 販売元 : 紀伊國屋書店
- ASIN : B013G3SI4C
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 161,767位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 288位外国の伝記映画
- - 10,644位ブルーレイ 外国映画
- - 16,165位外国のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年5月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アンセル・アダムスの写真のような映像に目を奪われます。
グリーンバックを使って失われた情景を再現した デジタルならではの映像ですが、まったくそれを感じさ
せません。ジプシー独特の強い色遣いを敢えて封印することで、異界譚と捉えられがちな題材を普遍的な
人間ドラマに引き寄せる事に成功しているように思います。昨今の流行とは一線を画す、考え抜かれたモ
ノクロームです。
思考や感情は命ある個の内にしか在りませんが、人は空気の振動でこれを別の個に伝える技を覚え、点と
線でできた図形に置き換えることで永続性と無限空間を与える術を手に入れました。
反面、一旦図形となった思念は消えてゆくことなく、言葉の主の意志に反して広がり続けてしまう危うさ
をはらんでいます。
文字は命に翼を与え世界に解き放つ魔術の如く、人は制御不能の魔術を弄る魔法使いの弟子の如しです。
魔術は更に進化を遂げ、今や1か0かの記号配列で記録された映像を通して、私たちは文字を拒否した社会
に生まれた詩人、パプーシャの人生を知ります。
映画は変わりゆくポーランドジプシーの叙事詩であると同時に、報われない愛の物語です。
彼女の誕生に静かにざわめく森の草木、鳥が示す彼女の境涯など運命を暗示する映像表現が印象的でした。
できれば高画質で観たい美しさです。
グリーンバックを使って失われた情景を再現した デジタルならではの映像ですが、まったくそれを感じさ
せません。ジプシー独特の強い色遣いを敢えて封印することで、異界譚と捉えられがちな題材を普遍的な
人間ドラマに引き寄せる事に成功しているように思います。昨今の流行とは一線を画す、考え抜かれたモ
ノクロームです。
思考や感情は命ある個の内にしか在りませんが、人は空気の振動でこれを別の個に伝える技を覚え、点と
線でできた図形に置き換えることで永続性と無限空間を与える術を手に入れました。
反面、一旦図形となった思念は消えてゆくことなく、言葉の主の意志に反して広がり続けてしまう危うさ
をはらんでいます。
文字は命に翼を与え世界に解き放つ魔術の如く、人は制御不能の魔術を弄る魔法使いの弟子の如しです。
魔術は更に進化を遂げ、今や1か0かの記号配列で記録された映像を通して、私たちは文字を拒否した社会
に生まれた詩人、パプーシャの人生を知ります。
映画は変わりゆくポーランドジプシーの叙事詩であると同時に、報われない愛の物語です。
彼女の誕生に静かにざわめく森の草木、鳥が示す彼女の境涯など運命を暗示する映像表現が印象的でした。
できれば高画質で観たい美しさです。
2020年1月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
美しいモノクロ映像とポーランドの
歴史の一端に触れることができました。
商品も丁寧に扱われていて満足しています。
歴史の一端に触れることができました。
商品も丁寧に扱われていて満足しています。
2015年11月5日に日本でレビュー済み
美しい映画だった。
まるで吐息のように流れ出る彼女の言葉からは、森の湿度を含んだ生身の体温が伝わる。
この映画の製作は、閉じ込められた歴史を深い森の中から探り当てようとするような作業で、
まだ手付かずの自然が残っていた当時、下草の豊穣な柔らかさや木の葉から滴る露、冷えた朝の白い霧、
それらの醸し出す息吹を表現するのにモノクロームは見事にマッチしていた。
彼女は気付く人であった。森の生命を感じて言葉に紡いだ。
言葉と文字の法則を知った彼女は、言葉を自分のものとして書き留めておきたいと願ったろう。
胸の高鳴りや感情のほとばしりを抑えることは出来ない。
表現したい衝動が彼女に詩を詠ませた。
それは誰にも邪魔されない一人だけのものだったのに、ある日遠い世界のカジャ(ジプシー以外の人)がやってきて、
共感しあう喜びを知ってしまう。
またある時、彼女がまだ10代の子供の頃、楽隊の演奏で訪れた屋敷でこっそりと本を読んでいると、
屋敷の女性がパプーシャに言う「賢い女性は生きにくいものよ」と。その後の運命を暗示するように。
そんな波乱の予感を積み重ねながら物語は進む。
映画全体が一遍の美しい詩であると感じた。
余韻の残るラストシーンも素晴らしい。
過酷な日々の中に、喜びを見出そうとしたパプーシャの詩にロマのメロディーを添えて幕を閉じる。
鑑賞後は深い満足感に包まれたが、この映画が実在の人物を描いたドキュメンタリー的作品であるということから、
以下の二点が印象に残った。
まず、私が残念だと感じてしまうのは、彼らに降りかかった不幸が第二次大戦後から1989年ベルリンの壁崩壊後の
共産主義社会の解体までのほんの40年間ほどの間に起こってしまったということである。
その後はマイノリティーに対する理解や保護政策が世界の潮流になり、
遊牧の権利擁護や資本主義社会との共存などが実現できた可能性が高いからだ。
彼らの辿って来た歴史の長さに比べたらなんと短い! わずかな期間でそれまで大切に守ってきた文化を捨てなければならなかったとは。
もう一つ、その意外さに感心した点。1970年代と言えば東西冷戦まっただ中の時代。
様々な規制に縛られていた共産主義社会のポーランドでジプシーの詩集を出版することができ、民衆の心を掴んだという事実である。
ポーランド国民の郷土に対する強い愛着を認識した。
パプーシャは詩集の中でこう叫ぶ。
「おお、なんてすばらしい、生きるのは」
60年前に書かれたジプシーの女性の詩を渋谷の雑踏の中で読むという不思議。
今頃天国ではにかんでいるだろうか・・・
まるで吐息のように流れ出る彼女の言葉からは、森の湿度を含んだ生身の体温が伝わる。
この映画の製作は、閉じ込められた歴史を深い森の中から探り当てようとするような作業で、
まだ手付かずの自然が残っていた当時、下草の豊穣な柔らかさや木の葉から滴る露、冷えた朝の白い霧、
それらの醸し出す息吹を表現するのにモノクロームは見事にマッチしていた。
彼女は気付く人であった。森の生命を感じて言葉に紡いだ。
言葉と文字の法則を知った彼女は、言葉を自分のものとして書き留めておきたいと願ったろう。
胸の高鳴りや感情のほとばしりを抑えることは出来ない。
表現したい衝動が彼女に詩を詠ませた。
それは誰にも邪魔されない一人だけのものだったのに、ある日遠い世界のカジャ(ジプシー以外の人)がやってきて、
共感しあう喜びを知ってしまう。
またある時、彼女がまだ10代の子供の頃、楽隊の演奏で訪れた屋敷でこっそりと本を読んでいると、
屋敷の女性がパプーシャに言う「賢い女性は生きにくいものよ」と。その後の運命を暗示するように。
そんな波乱の予感を積み重ねながら物語は進む。
映画全体が一遍の美しい詩であると感じた。
余韻の残るラストシーンも素晴らしい。
過酷な日々の中に、喜びを見出そうとしたパプーシャの詩にロマのメロディーを添えて幕を閉じる。
鑑賞後は深い満足感に包まれたが、この映画が実在の人物を描いたドキュメンタリー的作品であるということから、
以下の二点が印象に残った。
まず、私が残念だと感じてしまうのは、彼らに降りかかった不幸が第二次大戦後から1989年ベルリンの壁崩壊後の
共産主義社会の解体までのほんの40年間ほどの間に起こってしまったということである。
その後はマイノリティーに対する理解や保護政策が世界の潮流になり、
遊牧の権利擁護や資本主義社会との共存などが実現できた可能性が高いからだ。
彼らの辿って来た歴史の長さに比べたらなんと短い! わずかな期間でそれまで大切に守ってきた文化を捨てなければならなかったとは。
もう一つ、その意外さに感心した点。1970年代と言えば東西冷戦まっただ中の時代。
様々な規制に縛られていた共産主義社会のポーランドでジプシーの詩集を出版することができ、民衆の心を掴んだという事実である。
ポーランド国民の郷土に対する強い愛着を認識した。
パプーシャは詩集の中でこう叫ぶ。
「おお、なんてすばらしい、生きるのは」
60年前に書かれたジプシーの女性の詩を渋谷の雑踏の中で読むという不思議。
今頃天国ではにかんでいるだろうか・・・
2015年9月6日に日本でレビュー済み
筆者の本棚に、一冊の本がある。ポーランドの詩人・作家イェジ・フィツォフスキ著『太陽の木の枝 - ジプシーのむかしばなし -』(福音館文庫)だ。児童書扱いで翻訳された本だが、これはジプシーの民話を聞き書きした貴重な本で、なにげに児童書漁りが好きな筆者は、何年も前にこの本を見つけた時に、小躍りして喜んだものだ。これだから児童書は馬鹿にできない。特に福音館のラインナップはハイレベルだと絶賛したい。
なぜこのような書き出しにしたかと云うと、本作を劇場で観た時、売店で件の本が売られていて驚いたのだが、実は本作と深い関わりがあったのである。最初に言ってしまおう。このイェジ・フィツォフスキは、本作の登場人物の一人なのである。それも、主役レベルのかなり重要な。
本作は、ポーランドで第二次大戦の前後を通して生きた一人のジプシーの女性、ブロニスワヴァ・ヴァイス=愛称「パプーシャ(人形)」の生涯を描いた映画。特筆すべきは、単なる人物伝ではなく、激動の現代史の中でポーランドのジプシーたちが辿った、知られざる影の歴史を描いている事である。
文字を持たないジプシーの一族に生まれながら、幼い頃から言葉に憧れ、詩を愛した一人の少女がいた。彼女の名はパプーシャ。ジプシー女性として最初の詩人になった人である。しかし、言葉を愛したが故に、彼女は一族の禁忌を破ることになる。「文字」はジプシーたちにとって、「ガッジョ(ジプシー以外のよそ者)の呪文」として忌み嫌われていたのだ。
秘密警察に追われ、ジプシーのキャラバンに逃げ込んだイェジ・フィツォフスキは、パプーシャの詩作の才能に目を瞠り、やがてキャラバンを後にする際に、彼女に一本の万年筆を手渡す。彼女は、自分が書いた詩をフィツォフスキに送り、その詩はポーランドの詩人の大家に認められ、一躍注目を浴びる。新聞によるインタビュー・・・ジプシーの長老たちは、「文字」によってジプシー社会が暴き立てられてゆく事に懸念を抱く。そして、フィツォフスキがジプシー社会について書いた「ポーランドのジプシー」出版の報を聞き、長老たちは激怒する。それは彼らの秘密を、白日の下にさらす裏切り行為だった。
パプーシャは、夫と共にジプシー社会から追放される。
「文字」は、やはり呪いだったのか・・・?
ジプシー映画というのは、ひとつのジャンルとして確立されているが、いかんせん超・マイナーなジャンルである。ファンはみな熱烈だが、観客としては極めて少数だろう・・・とたかを括っていたのだが、岩波ホールでの初日、満席に近い予想外の客の多さに驚いてしまった。しかも、あきらかに50代、いや60代以上と思われる層が圧倒的多数。四捨五入すればアラフィフに入る筆者ですら、この中では「若い人」だった(笑)。保守的だとばかり思っていたこの世代の人たちが、ジプシー好きだったなんて!
そして、もうひとつ意外だった事がある。それは本作の雰囲気である。
ジプシー映画というと、差別はされても、何者にも囚われない自由な生き様・・・貧しくとも、エネルギーに満ち溢れた歌と踊り・・・天と地のはざまに躍る極彩色の魂に、窮屈な文明社会に生きる我々は一種の憧れとロマンを魅出す。
しかし本作は、そんな我々がイメージしている・・・トニー・ガトリフやエミール・クストリッツァなどの、エネルギッシュなジプシー映画と趣を異にしているのだ。
まず、ジプシー映画では極めて珍しい「白黒」だ。銅版画のように繊細な、そして静謐な趣を湛えた画面。歌や踊りのシーンは、ある。しかし、今まで筆者が観てきた数々のジプシー映画のように、ロマンと熱情を全面に押し出したような作風ではない。むしろ、社会の辺境に生きる放浪者たちの寄る辺なき生き様を、等身大の目線で静かに見つめるかのような映像である。
本作を監督した、ヨアンナ・コス=クラウゼとクシシュトフ・クラウゼ(夫婦監督)は、「この映画は、伝記的作品ではありません。社会政治的な映画でも、民族学的な野心を持った映画でもありません。私たちは、創造することの勇気について、それに伴う孤独と痛みについて、さらには報われない愛情について、そして人間の幸福について描いたのです」と語る。しかし、今まで観たジプシー映画と全く違った印象を受けるこのユニークな作品を、筆者は敢えて「社会派ジプシー映画」と表現したい。それは監督のお二人に異を唱えているのではなく、強いてこの映画のイメージを伝えようとすると、そう表現するしかないのである。
そう、例えばアンジェイ・ワイダがジプシー映画を撮ったら、こんな作品になるのかもしれない・・・そう思わせる、静かで力強い映像なのである。
一般にホロコーストというと、「ユダヤ人虐殺」のイメージが強いが、実はジプシーも相当の数が殺戮されているのである。しかし、彼らはユダヤ人と違い、自分たちの物語を他者に向けて語ることをしない。その身に背負った受難の歴史を国際社会に向かって声高に主張することをしない。だからあまり知られていないし、資料も残されていない。ヨーロッパ全土で、大戦中に殺害されたジプシーの数は50万人以上と推察されている。
この映画は、戦前から戦中、そして戦後のポーランドで、ジプシーたちが辿った道のりを、パプーシャという一人の女性の目を通して描いている。3国分割により、ポーランドが一時消滅していた時代にパプーシャは生まれ、やがて国が復活し、ナチスの侵攻と共に戦火の森の中を逃げ惑い、戦後の共産党政権の中で定住化を強制される。住宅の提供と職業の斡旋が保障された代わりに、彼らの興行や宿営への規制は厳しくなり、彼らは「ポーランド市民」に編入され、放浪の文化は圧殺される。
クラウゼ夫妻は、かつてジプシー文化に光を当てたフィツォフスキの足跡を辿りながら、5年もの歳月をかけ、失われたジプシーの歴史を再構築していったのだ。
文字を愛し、詩を愛したひとりのジプシー女性は、そのコミュニティから追放され、苦悩の生涯を送ったという。しかしパプーシャの名は、「ポーランドの歴史に影響を与えた60人の女性のひとり」として、今も人々の心に深く刻まれている。
広大な風景の中を往くキャラバンの長い長い列は、本作の中でも我々の心を捉えて離さない。
これは、ポーランドの監督たちが描くことのなかった、もうひとつのポーランドの物語なのである。
なぜこのような書き出しにしたかと云うと、本作を劇場で観た時、売店で件の本が売られていて驚いたのだが、実は本作と深い関わりがあったのである。最初に言ってしまおう。このイェジ・フィツォフスキは、本作の登場人物の一人なのである。それも、主役レベルのかなり重要な。
本作は、ポーランドで第二次大戦の前後を通して生きた一人のジプシーの女性、ブロニスワヴァ・ヴァイス=愛称「パプーシャ(人形)」の生涯を描いた映画。特筆すべきは、単なる人物伝ではなく、激動の現代史の中でポーランドのジプシーたちが辿った、知られざる影の歴史を描いている事である。
文字を持たないジプシーの一族に生まれながら、幼い頃から言葉に憧れ、詩を愛した一人の少女がいた。彼女の名はパプーシャ。ジプシー女性として最初の詩人になった人である。しかし、言葉を愛したが故に、彼女は一族の禁忌を破ることになる。「文字」はジプシーたちにとって、「ガッジョ(ジプシー以外のよそ者)の呪文」として忌み嫌われていたのだ。
秘密警察に追われ、ジプシーのキャラバンに逃げ込んだイェジ・フィツォフスキは、パプーシャの詩作の才能に目を瞠り、やがてキャラバンを後にする際に、彼女に一本の万年筆を手渡す。彼女は、自分が書いた詩をフィツォフスキに送り、その詩はポーランドの詩人の大家に認められ、一躍注目を浴びる。新聞によるインタビュー・・・ジプシーの長老たちは、「文字」によってジプシー社会が暴き立てられてゆく事に懸念を抱く。そして、フィツォフスキがジプシー社会について書いた「ポーランドのジプシー」出版の報を聞き、長老たちは激怒する。それは彼らの秘密を、白日の下にさらす裏切り行為だった。
パプーシャは、夫と共にジプシー社会から追放される。
「文字」は、やはり呪いだったのか・・・?
ジプシー映画というのは、ひとつのジャンルとして確立されているが、いかんせん超・マイナーなジャンルである。ファンはみな熱烈だが、観客としては極めて少数だろう・・・とたかを括っていたのだが、岩波ホールでの初日、満席に近い予想外の客の多さに驚いてしまった。しかも、あきらかに50代、いや60代以上と思われる層が圧倒的多数。四捨五入すればアラフィフに入る筆者ですら、この中では「若い人」だった(笑)。保守的だとばかり思っていたこの世代の人たちが、ジプシー好きだったなんて!
そして、もうひとつ意外だった事がある。それは本作の雰囲気である。
ジプシー映画というと、差別はされても、何者にも囚われない自由な生き様・・・貧しくとも、エネルギーに満ち溢れた歌と踊り・・・天と地のはざまに躍る極彩色の魂に、窮屈な文明社会に生きる我々は一種の憧れとロマンを魅出す。
しかし本作は、そんな我々がイメージしている・・・トニー・ガトリフやエミール・クストリッツァなどの、エネルギッシュなジプシー映画と趣を異にしているのだ。
まず、ジプシー映画では極めて珍しい「白黒」だ。銅版画のように繊細な、そして静謐な趣を湛えた画面。歌や踊りのシーンは、ある。しかし、今まで筆者が観てきた数々のジプシー映画のように、ロマンと熱情を全面に押し出したような作風ではない。むしろ、社会の辺境に生きる放浪者たちの寄る辺なき生き様を、等身大の目線で静かに見つめるかのような映像である。
本作を監督した、ヨアンナ・コス=クラウゼとクシシュトフ・クラウゼ(夫婦監督)は、「この映画は、伝記的作品ではありません。社会政治的な映画でも、民族学的な野心を持った映画でもありません。私たちは、創造することの勇気について、それに伴う孤独と痛みについて、さらには報われない愛情について、そして人間の幸福について描いたのです」と語る。しかし、今まで観たジプシー映画と全く違った印象を受けるこのユニークな作品を、筆者は敢えて「社会派ジプシー映画」と表現したい。それは監督のお二人に異を唱えているのではなく、強いてこの映画のイメージを伝えようとすると、そう表現するしかないのである。
そう、例えばアンジェイ・ワイダがジプシー映画を撮ったら、こんな作品になるのかもしれない・・・そう思わせる、静かで力強い映像なのである。
一般にホロコーストというと、「ユダヤ人虐殺」のイメージが強いが、実はジプシーも相当の数が殺戮されているのである。しかし、彼らはユダヤ人と違い、自分たちの物語を他者に向けて語ることをしない。その身に背負った受難の歴史を国際社会に向かって声高に主張することをしない。だからあまり知られていないし、資料も残されていない。ヨーロッパ全土で、大戦中に殺害されたジプシーの数は50万人以上と推察されている。
この映画は、戦前から戦中、そして戦後のポーランドで、ジプシーたちが辿った道のりを、パプーシャという一人の女性の目を通して描いている。3国分割により、ポーランドが一時消滅していた時代にパプーシャは生まれ、やがて国が復活し、ナチスの侵攻と共に戦火の森の中を逃げ惑い、戦後の共産党政権の中で定住化を強制される。住宅の提供と職業の斡旋が保障された代わりに、彼らの興行や宿営への規制は厳しくなり、彼らは「ポーランド市民」に編入され、放浪の文化は圧殺される。
クラウゼ夫妻は、かつてジプシー文化に光を当てたフィツォフスキの足跡を辿りながら、5年もの歳月をかけ、失われたジプシーの歴史を再構築していったのだ。
文字を愛し、詩を愛したひとりのジプシー女性は、そのコミュニティから追放され、苦悩の生涯を送ったという。しかしパプーシャの名は、「ポーランドの歴史に影響を与えた60人の女性のひとり」として、今も人々の心に深く刻まれている。
広大な風景の中を往くキャラバンの長い長い列は、本作の中でも我々の心を捉えて離さない。
これは、ポーランドの監督たちが描くことのなかった、もうひとつのポーランドの物語なのである。
2019年10月10日に日本でレビュー済み
1910年から1971年までが描かれています。
ですが1910〜1971〜1949〜1921〜1949〜1925年という具合に年代がかなり入り乱れて話は進みます。
1910年パプーシャは生まれます。
パプーシャは人形という意味で「悪い名前で良くない事が待ち受けてる」と言われます。
1949年ワルシャワで秘密警察を殴り逮捕状が出ている男イェジがジプシーに加わります。
文芸協会にいて後にパプーシャの詩を出版する人物です。
2年間ジプシーと暮らし別れ際に住所をパプーシャに手渡します。
イェジは「詩とは昨日感じたことを明日思い出させてくれるもの」と語ります。
ジプシーについては様々な言葉
「ヒトラーはジプシーの想像力と機智を妬んだ」
「よそ者をガジョと呼び文字は悪魔の力で豚や犬に変えてしまう」
「地に生えるものと神が造ったものは取っていい」
「大地で育ち大地で寝て大地で食う」
「移動を禁じてもムダさ死ぬまで旅をする」
などからもその生活がうかがい知れます。
そのようなジプシーの中でパプーシャだけは雑貨屋の女性から文字を学びます。
はじめは「詩人」という言葉さえ知らないパプーシャ。
パプーシャの詩は手稿で改行がなく紙いっぱいに書かれています。
1952年にイェジが訳したパプーシャの詩を出版社に持ち込み「純粋な詩」と評されます。
「詩はひとりでに生まれては消える」
「詩がカネになるはずがない」と稿料を手にしたパプーシャは言います。
しかしそれは思いもしない事態に…
「呪いだ!」パプーシャは叫びます。
1939年には戦争でナチス・ドイツがユダヤ人だけではなくジプシーにも迫ります。
自由なジプシーたちも1949年にポーランド内務省が発令する「ジプシーの定住化政策」により家を持ち流浪の民であることをやめます。
晩年1971年ではパプーシャは刑務所にいます。
パプーシャは「読み書きさえ覚えなけりゃ幸せだった」と言います。がそれでは詩は残りませんでした。
ブロニスワヴァ・ヴァイス「パプーシャの歌」
として再び人びとの前に姿を現します。
全編が白黒ですが映像はきれいです。
白は雪のように黒はタールのように。
ジプシーが奏でる音楽も素晴らしいです。
ですが1910〜1971〜1949〜1921〜1949〜1925年という具合に年代がかなり入り乱れて話は進みます。
1910年パプーシャは生まれます。
パプーシャは人形という意味で「悪い名前で良くない事が待ち受けてる」と言われます。
1949年ワルシャワで秘密警察を殴り逮捕状が出ている男イェジがジプシーに加わります。
文芸協会にいて後にパプーシャの詩を出版する人物です。
2年間ジプシーと暮らし別れ際に住所をパプーシャに手渡します。
イェジは「詩とは昨日感じたことを明日思い出させてくれるもの」と語ります。
ジプシーについては様々な言葉
「ヒトラーはジプシーの想像力と機智を妬んだ」
「よそ者をガジョと呼び文字は悪魔の力で豚や犬に変えてしまう」
「地に生えるものと神が造ったものは取っていい」
「大地で育ち大地で寝て大地で食う」
「移動を禁じてもムダさ死ぬまで旅をする」
などからもその生活がうかがい知れます。
そのようなジプシーの中でパプーシャだけは雑貨屋の女性から文字を学びます。
はじめは「詩人」という言葉さえ知らないパプーシャ。
パプーシャの詩は手稿で改行がなく紙いっぱいに書かれています。
1952年にイェジが訳したパプーシャの詩を出版社に持ち込み「純粋な詩」と評されます。
「詩はひとりでに生まれては消える」
「詩がカネになるはずがない」と稿料を手にしたパプーシャは言います。
しかしそれは思いもしない事態に…
「呪いだ!」パプーシャは叫びます。
1939年には戦争でナチス・ドイツがユダヤ人だけではなくジプシーにも迫ります。
自由なジプシーたちも1949年にポーランド内務省が発令する「ジプシーの定住化政策」により家を持ち流浪の民であることをやめます。
晩年1971年ではパプーシャは刑務所にいます。
パプーシャは「読み書きさえ覚えなけりゃ幸せだった」と言います。がそれでは詩は残りませんでした。
ブロニスワヴァ・ヴァイス「パプーシャの歌」
として再び人びとの前に姿を現します。
全編が白黒ですが映像はきれいです。
白は雪のように黒はタールのように。
ジプシーが奏でる音楽も素晴らしいです。