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絶歌 Kindle版
1997年6月28日。
僕は、僕ではなくなった。
酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年Aが18年の時を経て、自分の過去と対峙し、切り結び著した、生命の手記。
「少年A」――それが、僕の代名詞となった。
僕はもはや血の通ったひとりの人間ではなく、無機質な「記号」になった。
それは多くの人にとって「少年犯罪」を表す記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、
不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表す記号だった。
僕は、僕ではなくなった。
酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年Aが18年の時を経て、自分の過去と対峙し、切り結び著した、生命の手記。
「少年A」――それが、僕の代名詞となった。
僕はもはや血の通ったひとりの人間ではなく、無機質な「記号」になった。
それは多くの人にとって「少年犯罪」を表す記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、
不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表す記号だった。
- 言語日本語
- 出版社太田出版
- 発売日2016/4/22
- ファイルサイズ952 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
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登録情報
- ASIN : B01E6PNH86
- 出版社 : 太田出版 (2016/4/22)
- 発売日 : 2016/4/22
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 952 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 261ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 49,872位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 844位ノンフィクション (Kindleストア)
- - 11,986位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2023年12月21日に日本でレビュー済み
レポート
Amazonで購入
商品の状態がとても良く、迅速な対応でした。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2023年10月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
100ページまでギブアップ、この本の存在価値は皆無。皆買わないでください、こういうものはこの世から消すべです。
2023年11月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は猟奇殺人鬼の話をたくさん読んできました。
彼らはどういった心理で犯罪を犯すのか気になったのです。
ほとんどの犯人は幼少期に虐待を受けたり酷い家庭環境で育っていて同情してしまうこともありました。
しかし、少年Aは違います。至って一般的な家庭で育っています。
虐待を受けている訳でもなく、極貧でもなく、戦争下でもなく、両親の仲も悪くないようです(夫婦間の話はほぼ出てこないのですが)。
家庭環境については、アポロ君の方が悪く感じます(両親が離婚)。
虐待云々については、Aの弟(次男)の方がされていると思います(Aは弟を虐めていた)。
祖母の死が彼を大きく変えたと本人が言っていますが、彼の年齢で祖父母が亡くなる子供なんてごまんといるでしょう。私だって小3の時に祖母を亡くしました。
<第1部について>
他のレビューで言われている通り、自己陶酔を感じます。ああやっぱりこんな人間なんだなあと。ただ風景を愛でる気持ちや、祖母の死や家族に苦労させていることに対する後悔などは一般人とさほど変わらないと思いました。
<第2部について>
社会に出て、人並みに苦しんで後悔している様子が分かりました。Aはかなり真面目に働いているように見えます。施設で得た溶接技術を使った仕事には就かない、卑怯な気がするからという枷を自分で課していたりもします(社会情勢が悪くなってから結局それに頼る事にはなるのですが)。
第2部では、新社会人なら同じ体験をして共感する人が多く居るのではないかと思いました。正直、第2部で私の中のAに対する評価が少し上がりかけましたが、いやいや新社会人や少しコミュニケーションに難ある者が社会で苦労して、今まで周りで親切にしてくれた人に感謝するなんて当たり前だろと思い直しました。何ならAは1回だけ(?)ではありますが、施設に仕事を用意してもらってたりしますし。
■個人的な疑問
・Aの加虐嗜好は結局無くなったのか?まったく書いてありません。
この手の嗜好は一生消えないとよく言われていますが…。
昔、閉鎖される前にAのHPを見たことがありましたが、その時ははっきり言って「うわこいつ何も変わってねぇじゃん…」と思いました。特に不気味な絵やナメクジや自身の裸体の写真を見て。ただ誰かを傷つけている訳でもなくアートと取ることはできますが(ナメクジの解剖などは今もしてそうな気がしますが)。
・Aの両親について。
A視点では優しい両親に感じられます。甘いとも言いますが。
気になったのは「なぜAがあれほどまでの犯罪を犯したのに両親は鬱病などにもならず、離婚もせず、家庭崩壊が起こらなかったのか?」です。一般的な感性だったら病んでもおかしくない気はします。
Aは両親を悪く言われることを嫌っていましたが、本当に、正直に言って、Aの両親はちょっと「足りない」のではと思いました。この本では想像することしかできませんが、『淳』を読んだらもっと客観的に分かるのでしょうか。
・Aの弟達(特に次男)について
こちらも両親同様ですが、特に次男はAに虐められていたにも関わらず何で施設で面会時に涙を流してAを許した(?)のかなあ…と。私にも3つ上の兄がいて、虐めとまではいきませんがいつも威張ってて上から目線の兄を幼少期から疎ましく思っていました。もし兄がAのような犯罪をしたら絶縁すると思います。ましてや次男は明確に殴られたりしていたのに何で…と。
・結局サイコパスは先天性なのか?
”Aに関しては”先天性だなと思ってしまいます。
両親は少し足りない所があるように感じますが、少し足りない親なんて世の中にたくさんいると思いますしそこから殺人鬼が必ず育つ訳じゃないですし。
冒頭でも言いましたが、多くの猟奇殺人鬼は虐待など幼少期に酷いトラウマを植え付けられていますがAにはそれが見当たりません。スクールカースト底辺ではあったようですが、アポロ君やダフネ君などの友達も居たようですし、完全に独りという訳でもなく、酷い虐めをされた訳でもありません。
Aと同じく家庭環境が物凄く悪い訳でもないのに凶悪犯罪を犯した人だとテッド・バンディを思い出します。彼も結局なぜああなったのかはよく分かりませんでした。となると、やっぱり先天性なのかな…と(後天性なら犯罪を犯して良い訳でももちろんありませんが)。
■少年法について
加害者へのケア、手厚すぎだろって思いました。施設の職員(?)もなぜかAに優しい言葉ばかりかけます。大人だったら即死刑の犯罪を犯した人間に税金と労力をこんなに使うなよ。
次の犯罪者を生まないために加害者の心理を研究するために生かしておくなら分かりますが、この本を読む限りではそういう研究をしている様子はありません。第2部を読む限り、Aは精神的には更生したように感じられますが、前述したように加虐嗜好を無くせたのかは全く分かりません。
<総評>
「甘い」なぁって思いました。Aもですが両親も少年法も。
あと第2部でAはかなり反省しているように見受けられ、謝罪を何度も述べているのに「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して一生懸命考えた答えが「あなた自身が苦しむことになるから」だと。
えぇ…ってなりました。ここまで来て結局自分のことなのかよと。
何か頭が痛くなってしまいましたね……。
彼らはどういった心理で犯罪を犯すのか気になったのです。
ほとんどの犯人は幼少期に虐待を受けたり酷い家庭環境で育っていて同情してしまうこともありました。
しかし、少年Aは違います。至って一般的な家庭で育っています。
虐待を受けている訳でもなく、極貧でもなく、戦争下でもなく、両親の仲も悪くないようです(夫婦間の話はほぼ出てこないのですが)。
家庭環境については、アポロ君の方が悪く感じます(両親が離婚)。
虐待云々については、Aの弟(次男)の方がされていると思います(Aは弟を虐めていた)。
祖母の死が彼を大きく変えたと本人が言っていますが、彼の年齢で祖父母が亡くなる子供なんてごまんといるでしょう。私だって小3の時に祖母を亡くしました。
<第1部について>
他のレビューで言われている通り、自己陶酔を感じます。ああやっぱりこんな人間なんだなあと。ただ風景を愛でる気持ちや、祖母の死や家族に苦労させていることに対する後悔などは一般人とさほど変わらないと思いました。
<第2部について>
社会に出て、人並みに苦しんで後悔している様子が分かりました。Aはかなり真面目に働いているように見えます。施設で得た溶接技術を使った仕事には就かない、卑怯な気がするからという枷を自分で課していたりもします(社会情勢が悪くなってから結局それに頼る事にはなるのですが)。
第2部では、新社会人なら同じ体験をして共感する人が多く居るのではないかと思いました。正直、第2部で私の中のAに対する評価が少し上がりかけましたが、いやいや新社会人や少しコミュニケーションに難ある者が社会で苦労して、今まで周りで親切にしてくれた人に感謝するなんて当たり前だろと思い直しました。何ならAは1回だけ(?)ではありますが、施設に仕事を用意してもらってたりしますし。
■個人的な疑問
・Aの加虐嗜好は結局無くなったのか?まったく書いてありません。
この手の嗜好は一生消えないとよく言われていますが…。
昔、閉鎖される前にAのHPを見たことがありましたが、その時ははっきり言って「うわこいつ何も変わってねぇじゃん…」と思いました。特に不気味な絵やナメクジや自身の裸体の写真を見て。ただ誰かを傷つけている訳でもなくアートと取ることはできますが(ナメクジの解剖などは今もしてそうな気がしますが)。
・Aの両親について。
A視点では優しい両親に感じられます。甘いとも言いますが。
気になったのは「なぜAがあれほどまでの犯罪を犯したのに両親は鬱病などにもならず、離婚もせず、家庭崩壊が起こらなかったのか?」です。一般的な感性だったら病んでもおかしくない気はします。
Aは両親を悪く言われることを嫌っていましたが、本当に、正直に言って、Aの両親はちょっと「足りない」のではと思いました。この本では想像することしかできませんが、『淳』を読んだらもっと客観的に分かるのでしょうか。
・Aの弟達(特に次男)について
こちらも両親同様ですが、特に次男はAに虐められていたにも関わらず何で施設で面会時に涙を流してAを許した(?)のかなあ…と。私にも3つ上の兄がいて、虐めとまではいきませんがいつも威張ってて上から目線の兄を幼少期から疎ましく思っていました。もし兄がAのような犯罪をしたら絶縁すると思います。ましてや次男は明確に殴られたりしていたのに何で…と。
・結局サイコパスは先天性なのか?
”Aに関しては”先天性だなと思ってしまいます。
両親は少し足りない所があるように感じますが、少し足りない親なんて世の中にたくさんいると思いますしそこから殺人鬼が必ず育つ訳じゃないですし。
冒頭でも言いましたが、多くの猟奇殺人鬼は虐待など幼少期に酷いトラウマを植え付けられていますがAにはそれが見当たりません。スクールカースト底辺ではあったようですが、アポロ君やダフネ君などの友達も居たようですし、完全に独りという訳でもなく、酷い虐めをされた訳でもありません。
Aと同じく家庭環境が物凄く悪い訳でもないのに凶悪犯罪を犯した人だとテッド・バンディを思い出します。彼も結局なぜああなったのかはよく分かりませんでした。となると、やっぱり先天性なのかな…と(後天性なら犯罪を犯して良い訳でももちろんありませんが)。
■少年法について
加害者へのケア、手厚すぎだろって思いました。施設の職員(?)もなぜかAに優しい言葉ばかりかけます。大人だったら即死刑の犯罪を犯した人間に税金と労力をこんなに使うなよ。
次の犯罪者を生まないために加害者の心理を研究するために生かしておくなら分かりますが、この本を読む限りではそういう研究をしている様子はありません。第2部を読む限り、Aは精神的には更生したように感じられますが、前述したように加虐嗜好を無くせたのかは全く分かりません。
<総評>
「甘い」なぁって思いました。Aもですが両親も少年法も。
あと第2部でAはかなり反省しているように見受けられ、謝罪を何度も述べているのに「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して一生懸命考えた答えが「あなた自身が苦しむことになるから」だと。
えぇ…ってなりました。ここまで来て結局自分のことなのかよと。
何か頭が痛くなってしまいましたね……。
2023年10月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私はこの本を読むまで加害者を支援する(少年も大人も)という考えは持っていませんでした。しかしこの本から少年が犯罪を犯してしまうのは家庭環境や学校との関係など様々な要因が関わっているのだなということがわかり、それならば私たち大人が支援していかなくてはいけないと思わせてくれました。そのおかげで現在は大学院で少年犯罪の再犯防止の研究、さらにボランティアで問題行動のある少年たちの支援、服役中の受刑者の方との文通など行うようになりました。なのでそういう意味では本を出版していただいたことに感謝しています。
2015年9月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は初版初刷で10万部発行し、さらに追加の2刷(?)で5万部発行したと聞いた。これだけ売れるということは、この本を手に取りたい人がそれだけ居るということだ。賛否両論あるが(=否定の方がはるかに多いが)一度読む価値はあると思う。初刷10万部の際にはアマゾンで購入しようと思ってもプレミアがついて3000円くらいになっていた。追加の5万部発行でやっと定価に落ち着いた。ただし、投稿レビューでは一部を除いてムチャクチャ悪くけなすだけの内容ばかりだ。参考に値しない投稿レビューばかりでガッカリした。そもそも投稿者はちゃんと内容を読んで書いているのか?と思う。うがった見方をすれば、購入者の多くは読書のためではなく、「興味本位」「話題性」で購入しただけじゃないのか?と疑ってしまった。
この本をキチンと読みたければ、ドキュメンタリー「少年A 14歳の肖像」を読んで事件の背景を理解し、加害者側の一方的な思い込みに誘導されないために被害者の親がそれぞれ書いた「淳」と「彩花へ 生きる力をありがとう」を読むことをお勧めする。併せて、加害者の親が心情を綴った「少年A この子を生んで…」まで読めば、この事件がどういう性格の事件だったかを知ることが出来る。結果的にこの「絶歌」は大変興味深い内容が書かれており、犯罪行為の背景を知るための第一次資料としての価値は高いと思う。ある社会学者はラジオで「事実かどうかを検証出来ない内容であり、そういう意味でも出版する価値はない」と語っていたが、人の心象などいずれにしても検証不可能だ。医療少年院で更生プログラムに沿って治療を受け、社会復帰出来ると判断された後に(社会復帰後10年以上が経った時点で)、当時の自己の心象を自分の言葉で再現=文字化しようとしたところに資料としての意味があると思う。
筆者(元少年A)は犯行当時、重度の「性的倒錯サディズム障害」に陥っており、元々の素質である「直観像素質」と「他人の痛みを共感する気質が著しく弱い資質」が犯行に拍車をかけたと説明されている。本文を読み進めると、筆者が特定の事象の細部にこだわり、これを判別する能力に長けた者だと気がつく。また、他人の言動のちょっとした違いを嗅ぎ分け、嘘/本当を見分ける敏感な感覚を持っていることに気がつく。これらの能力をうまく使い分け、周りの大人を騙しながら最終的に筆者は「酒鬼薔薇聖斗」になった。こうゆう種類の人間は他人との関係がうまく築けない場合が多い。しかし、他方で自己顕示欲は強いので、自分の存在を世の中に向かって示そうとする。筆者は犯行当時、もう一つの別人格「翡翠魔孤」も持っていた。たまたま選んだ「酒鬼薔薇」という名称がこれほど有名になるとは筆者も当初は予想していなかっただろう。1997年当時、この「酒鬼薔薇」という名称に世間は怖れ慄いた。臆病な自分が世間に戦慄を与えることが出来たことで一応の達成感を得た。
本書を読むと、これまで会った人との逸話が具体的に書かれている箇所が多く、細部まで描写しているので、相手は「あっ!これは自分のことだ」と分かるだろうと思う。そういう意味では、本書の執筆描写自体が本人の所在を知らせるヒントとなっている。「本を出版するなど自己顕示欲が強く、犯行を反省していない証拠だ」とマスコミ等では決めつけているが、本書をじっくり読むと、そう簡単に切って捨てられない内容だと気がつくだろう。筆者は幼少の頃から極度に臆病で、だからこそ「死」に強く興味を持っている。しかも、だからこそ、その対極にある「生」に執着する。生と死を密接不可分なものとして感じている。事件の核心は「性的倒錯サディズム障害」であるが、(それが治癒した後も)筆者の持つ元々の素質が現在の生活のベースとなっている。筆者は心の奥底で(当人も無意識かも分からないが)自分の所在が世間に明らかになって、この世で暮らせなくなることを望む気持ちがあるのではないかと勘ぐった。
----------------------------
元少年AがHPを開設したことが話題になっている。医療少年院の関係者は入所当初に一般市民から届いた多数の脅迫まがいの激しい言葉(=匿名の手紙や電話で「少年を早く殺せ」と非難)を見て・聞いて、「もし少年を更生させて社会に帰しても、すぐに殺されるんじゃないか」と危惧したそうだ。その激しさは、このアマゾンの多数のレビュー(現在2000件超もある。そのほとんどはブックレビューというより威嚇や怒りの言葉に満ちている)に象徴的に表れている。レビューの中にはこの点を指摘して、「これは一種の魔女狩りだ」と書いている読者もいたくらいだ。
当該事件を特異な事件として有名にした理由の一つに、元少年Aの強い自己顕示欲が挙げられる。被害者の頭部を学校の校門に展示し、神戸新聞社に独特の文体で長文の犯行声明を送りつけるという行為が世間の注目を一気に高めた。「本書の発行はその延長上にあるんだ(=まだ反省していないんだ)、まだ物語は終わっていない(=まだ危ない奴のままなんだ)」と感じた多くの者が多感に反応していると思う。
医療少年院では、少年が犯行に至った精神的病理=「性的サディズム」と、生育が原因の他者の気持ちや他人の命を尊重することの出来ない「性格の歪み」を治すプログラムが組まれた。そういう意味では、更生プログラムは成功し、その点では社会に復帰しても差し支えないと判断された。しかし、医療少年院や刑事司法は、犯罪者や非行少年の人格改造までしようとしているわけではないので(=そもそもそういうことが可能かどうか別として)元々の人格は当然、そのまま残る。元少年Aの人格的な特徴は、「特異な記憶力」、「強い自己顕示欲」、「些細な細部へのこだわり」だ。世間の人は、これらの人格までが消し去られて、全く別の人格に生まれ変わったと誤解しているのではないだろうか。
本書には、上記の人格的特徴が強く表れていて、文体が独特=装飾するための用語が多用されている、他人の名著を記憶してそれを再現した箇所が多いので、本人の心情から離れた甘い叙述表現も多々あり、全体像よりも細部の再現に強度の注意を払っているので、犯罪行為の叙述が虚無的になり自分の行為に対する反省が無いのでは?との嫌悪感を読者に抱かせるなど、である。これらの特徴が、本書を目にした読者に生理的嫌悪感を感じさせる原因になっていると思う。本人が一生懸命に書けば(描けば)書くほど(描くほど)、そうなると思う。
今日では本書の出版をめぐる顛末が週刊誌等(週刊文春や週刊新潮など)で話題となっている。雑誌社は、かつて本書の発売と同時(6月)にその出版の経緯を報じたが、その経緯が事実と異なっているという手紙が雑誌社に届き、筆者(元少年A)の真意を伝えようというものだ。雑誌社はここぞとばかりにこれを報じたのは言うまでもない(=週刊新潮が5ページ、週刊文春はなんと12ページにわたり掲載。)少年は事実を曲げられて伝えられることを恐れて、自分のHPを立ち上げることに踏み切った(9月)と考えられるが、これでは完全に雑誌社(および出版業界)の思うつぼである。
当該の医療少年院関係者だけでなく、少年事件を扱う刑事司法関係者は、この事態を強く危惧していると思う。このまま放っておくと、少年の居場所や現在の名前等を全て突き止められて、悲惨な結末を迎えないとも限らない。一度更生させて社会復帰させた人物が、世間の寒風に突き刺されて無残な最期を迎えてしまうほど刑事政策を虚しくさせる事態はない。法的手続きではなく、世間の偏執的なまでの固定観念:「元少年A=生来の悪者」「更生の見込みはない」「更生の事実は認めない」によって元少年Aが抹殺されてしまうとなると、その社会病理現象はいずれ社会全体の寛容さを失わせ、自らに跳ね返って来るのではないかと憂慮する。
----------------------------
多くの読者およびレビュアーの怒りを掻き立てている論点に「こいつが印税(著作権料)で儲けやがって」というのがある。一般の人は本を書きたくてもベストセラー本なんか書くことは出来ないのに、「この少年Aは自分の殺人体験を書くだけで(しかもナルシシズムの極致のような文章表現を使って自己に酔いながら)簡単に10万部以上を突破してしまった。許せない」というものである。しかし、著作権料などというものは出版契約によって作者に支払われる原稿料であって、作者が売上の過半を得る類のものではない。人気作家でもない限り、せいぜい1割程度が作者に支払われるに過ぎず(つまり出版社側が9割を得る)、何冊もベストセラーを連発しないと、1冊のヒットだけでいわゆる「お金持ち」になるのは無理である。しかも、この作者(元少年A)の場合は、被害者側の提訴による民事訴訟の結果(とっくに裁判は結審して判決が確定している=被害者側がなぜ民事訴訟を起こしたのかは被害者の父親である土師守氏の著作に説明が詳しい。)作者とその両親が総額1億円以上の債務を負っている。すなわち、この少年が例え一定程度の著作権料を得ても、被害者側がその気になれば裁判所に「債権保全」の申請をすれば差し押さえが可能な法状態となっている。つまり、本書の作者(少年)がお金持ちになるのは不可能なのである。
このことは実は一定数のレビュアーが言及している「サムの息子法(Son of Sam Laws)」とも深く関係する。サムの息子法とは米国ニューヨーク州で起きた連続殺人事件の犯人(D.R.Berkowitz)が自分を「サムの息子」(自分が嫌いな犬の名前をこう呼んでいた)と称したところから付けられた名前であるが(NY州法と類似の全米各州の法律を総称してサムの息子法と呼ぶ)、同法が問題としているのはバーコウィッツ本人の収益のみならず彼を使って書籍を出版しようとした業界への警告の意味も含まれている。出版業界、映画、TV、雑誌、犯罪関連グッズのオークション販売など、著名な犯罪行為を利用して商業活動をしようとする誘引を規制する目的を含んでいる。(もちろん、メディアの報道の自由は担保されているが。)
そういう意味では、本書出版の顛末には疑問が残る。週刊文春では出版の経緯を関係者に取材し、その旨を記事にしている。本書の出版元は太田出版であるが、本書の文章執筆には2年間ほどかかったようであり、出版を前提に筆者と接触を重ねていた別の出版社(仲介した出版社)が存在する。その際に原稿執筆に専念するために筆者に生活費も貸している。(しかしこの辺の事実関係には仲介出版社と筆者との間に見解の相違があるようなので、真偽不明である。)本書の出版に関わった出版社は営利のためではなく、本件の重大性に鑑みてこれを広く世の中に問うことに意味を見出して出版に踏み切ったと信じたい。
レビュアーの多くは「こんなもの読みたくない」と言うが、かつて本件についての審議の詳細を記した供述調書が(少年事件なので公開は禁じられているにも関わらず、事件担当の元判事が雑誌社に提供した)文藝春秋に掲載されたことがあった。事件の経緯や殺害方法などが詳細に掲載されていたにも関わらず、雑誌の掲載を批判するよりも「国民の知る権利」の方が強く主張された。既に雑誌に公開されていた上記供述調書や「少年A 14歳の肖像」、「少年A 矯正2500日 全記録」など多数の著書が事件の顛末や矯正教育について詳述していたので、実は本書「絶歌」の前半部分には目新しい事実はほとんどない。むしろ注目すべきは後半部分で、医療少年院を退院後にいかなる生活をしていたのか、その間に何を考えていたのか、という部分である。この部分に関しては(本人しか知らない部分が多々あるので)これまでほとんど世間では知られていなかった。
もちろん、殺された被害者少年の父親である土師守氏は、それが例え事実であるにせよ、少年Aに関する報道や著作が発表されるということは、殺された自分の息子の尊厳を侵すことに繋がり、被害者家族の気持ちを土足で蹂躙する結果となることを怒りを持って自著の中で告発している。加害者の人権ばかりを擁護し、被害者側の人権や尊厳を軽視するこの社会のあり方そのものがおかしいのではないか?と抗議している。この被害者側の感情を一言で要約するなら「そっとしておいて欲しい」ということではないだろうか。本書が世間に公開されて、また息子の名前が連呼されたり、忌まわしいあの事件を様々なメディアが取り上げることに我慢ならないのだろう。
本書を出版した出版社やこれを書いた著者に責任を取らせる方法がないわけではない。被害者側が民事訴訟を起こして「名誉棄損」や「出版差止め」の訴えをする方法もある。それによって叙述内容の修正を求めることも不可能ではない(本書を回収させることは難しいだろうが)。そもそも本人を法廷に呼び出すという方法によって名前や顔を世間にさらすという対抗措置を採ることも考えられなくはない。出版社はそうしたリスクを一切考えなかったということはないはずである。問題は、被害者側がそれを望むかどうかだ。
筆者は本書の中で何度か「壊れてゆく自分」とか「贖罪」という言葉を使う。他人に優しくされてその優しさに対して逆に「激しく動揺する自分を発見」する。犯行を犯している際には感じもしなかったであろうこれらの言葉や感情を今は文章として表現出来る。自分の言葉や感情を客観視出来るところまで更生させた医療少年院職員の努力というものは評価するべきである。医療少年院の関係者がこの少年に「生きて償え」(償えるかどうかは分からないが)「償う努力をしろ」(償うという意味を考えろ)と言った意義は大きい。自分の犯した罪の意味を考え苦悩する姿も(本書の全編がそうだとは言わないが)一定程度は評価してもいいと思う。また、医療少年院を退院した後、世の中にはこうした猟奇的犯罪を犯した者にでも最大限寄り添い、真っ当な人間になるべく「人」として接してくれる人徳な援助者(サポートチームや里親)がいることが描かれている。表には出てこないが、こうした人達によって筆者の今日があることを強く感じさせる。
刑事政策では一般の人を犯罪に無関係な善良な市民とは見ていない、むしろ通常は善良な生活を送っている者が、ある日突然、犯罪者となってしまうことを予想している。これを「潜在的犯罪者」と呼び、社会の安定はこの潜在的犯罪者が犯罪に着手しないことで保たれると考えている。本書の出版には道義的な問題があり、被害者側は許せないと感じていることは事実である。また、猟奇的殺人者と一般の犯罪者を同じ次元で論じることは出来ない。しかし、これが一旦、出版されてしまった以上、これに対する誹謗中傷だけでは何も解決しない。むしろ、刑事政策的には犯罪者の心理や論理について知ることは無意味ではないし、矯正教育後に犯罪少年がどのような人生を送っているのかを知ることにも意義があると考える。
この本をキチンと読みたければ、ドキュメンタリー「少年A 14歳の肖像」を読んで事件の背景を理解し、加害者側の一方的な思い込みに誘導されないために被害者の親がそれぞれ書いた「淳」と「彩花へ 生きる力をありがとう」を読むことをお勧めする。併せて、加害者の親が心情を綴った「少年A この子を生んで…」まで読めば、この事件がどういう性格の事件だったかを知ることが出来る。結果的にこの「絶歌」は大変興味深い内容が書かれており、犯罪行為の背景を知るための第一次資料としての価値は高いと思う。ある社会学者はラジオで「事実かどうかを検証出来ない内容であり、そういう意味でも出版する価値はない」と語っていたが、人の心象などいずれにしても検証不可能だ。医療少年院で更生プログラムに沿って治療を受け、社会復帰出来ると判断された後に(社会復帰後10年以上が経った時点で)、当時の自己の心象を自分の言葉で再現=文字化しようとしたところに資料としての意味があると思う。
筆者(元少年A)は犯行当時、重度の「性的倒錯サディズム障害」に陥っており、元々の素質である「直観像素質」と「他人の痛みを共感する気質が著しく弱い資質」が犯行に拍車をかけたと説明されている。本文を読み進めると、筆者が特定の事象の細部にこだわり、これを判別する能力に長けた者だと気がつく。また、他人の言動のちょっとした違いを嗅ぎ分け、嘘/本当を見分ける敏感な感覚を持っていることに気がつく。これらの能力をうまく使い分け、周りの大人を騙しながら最終的に筆者は「酒鬼薔薇聖斗」になった。こうゆう種類の人間は他人との関係がうまく築けない場合が多い。しかし、他方で自己顕示欲は強いので、自分の存在を世の中に向かって示そうとする。筆者は犯行当時、もう一つの別人格「翡翠魔孤」も持っていた。たまたま選んだ「酒鬼薔薇」という名称がこれほど有名になるとは筆者も当初は予想していなかっただろう。1997年当時、この「酒鬼薔薇」という名称に世間は怖れ慄いた。臆病な自分が世間に戦慄を与えることが出来たことで一応の達成感を得た。
本書を読むと、これまで会った人との逸話が具体的に書かれている箇所が多く、細部まで描写しているので、相手は「あっ!これは自分のことだ」と分かるだろうと思う。そういう意味では、本書の執筆描写自体が本人の所在を知らせるヒントとなっている。「本を出版するなど自己顕示欲が強く、犯行を反省していない証拠だ」とマスコミ等では決めつけているが、本書をじっくり読むと、そう簡単に切って捨てられない内容だと気がつくだろう。筆者は幼少の頃から極度に臆病で、だからこそ「死」に強く興味を持っている。しかも、だからこそ、その対極にある「生」に執着する。生と死を密接不可分なものとして感じている。事件の核心は「性的倒錯サディズム障害」であるが、(それが治癒した後も)筆者の持つ元々の素質が現在の生活のベースとなっている。筆者は心の奥底で(当人も無意識かも分からないが)自分の所在が世間に明らかになって、この世で暮らせなくなることを望む気持ちがあるのではないかと勘ぐった。
----------------------------
元少年AがHPを開設したことが話題になっている。医療少年院の関係者は入所当初に一般市民から届いた多数の脅迫まがいの激しい言葉(=匿名の手紙や電話で「少年を早く殺せ」と非難)を見て・聞いて、「もし少年を更生させて社会に帰しても、すぐに殺されるんじゃないか」と危惧したそうだ。その激しさは、このアマゾンの多数のレビュー(現在2000件超もある。そのほとんどはブックレビューというより威嚇や怒りの言葉に満ちている)に象徴的に表れている。レビューの中にはこの点を指摘して、「これは一種の魔女狩りだ」と書いている読者もいたくらいだ。
当該事件を特異な事件として有名にした理由の一つに、元少年Aの強い自己顕示欲が挙げられる。被害者の頭部を学校の校門に展示し、神戸新聞社に独特の文体で長文の犯行声明を送りつけるという行為が世間の注目を一気に高めた。「本書の発行はその延長上にあるんだ(=まだ反省していないんだ)、まだ物語は終わっていない(=まだ危ない奴のままなんだ)」と感じた多くの者が多感に反応していると思う。
医療少年院では、少年が犯行に至った精神的病理=「性的サディズム」と、生育が原因の他者の気持ちや他人の命を尊重することの出来ない「性格の歪み」を治すプログラムが組まれた。そういう意味では、更生プログラムは成功し、その点では社会に復帰しても差し支えないと判断された。しかし、医療少年院や刑事司法は、犯罪者や非行少年の人格改造までしようとしているわけではないので(=そもそもそういうことが可能かどうか別として)元々の人格は当然、そのまま残る。元少年Aの人格的な特徴は、「特異な記憶力」、「強い自己顕示欲」、「些細な細部へのこだわり」だ。世間の人は、これらの人格までが消し去られて、全く別の人格に生まれ変わったと誤解しているのではないだろうか。
本書には、上記の人格的特徴が強く表れていて、文体が独特=装飾するための用語が多用されている、他人の名著を記憶してそれを再現した箇所が多いので、本人の心情から離れた甘い叙述表現も多々あり、全体像よりも細部の再現に強度の注意を払っているので、犯罪行為の叙述が虚無的になり自分の行為に対する反省が無いのでは?との嫌悪感を読者に抱かせるなど、である。これらの特徴が、本書を目にした読者に生理的嫌悪感を感じさせる原因になっていると思う。本人が一生懸命に書けば(描けば)書くほど(描くほど)、そうなると思う。
今日では本書の出版をめぐる顛末が週刊誌等(週刊文春や週刊新潮など)で話題となっている。雑誌社は、かつて本書の発売と同時(6月)にその出版の経緯を報じたが、その経緯が事実と異なっているという手紙が雑誌社に届き、筆者(元少年A)の真意を伝えようというものだ。雑誌社はここぞとばかりにこれを報じたのは言うまでもない(=週刊新潮が5ページ、週刊文春はなんと12ページにわたり掲載。)少年は事実を曲げられて伝えられることを恐れて、自分のHPを立ち上げることに踏み切った(9月)と考えられるが、これでは完全に雑誌社(および出版業界)の思うつぼである。
当該の医療少年院関係者だけでなく、少年事件を扱う刑事司法関係者は、この事態を強く危惧していると思う。このまま放っておくと、少年の居場所や現在の名前等を全て突き止められて、悲惨な結末を迎えないとも限らない。一度更生させて社会復帰させた人物が、世間の寒風に突き刺されて無残な最期を迎えてしまうほど刑事政策を虚しくさせる事態はない。法的手続きではなく、世間の偏執的なまでの固定観念:「元少年A=生来の悪者」「更生の見込みはない」「更生の事実は認めない」によって元少年Aが抹殺されてしまうとなると、その社会病理現象はいずれ社会全体の寛容さを失わせ、自らに跳ね返って来るのではないかと憂慮する。
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多くの読者およびレビュアーの怒りを掻き立てている論点に「こいつが印税(著作権料)で儲けやがって」というのがある。一般の人は本を書きたくてもベストセラー本なんか書くことは出来ないのに、「この少年Aは自分の殺人体験を書くだけで(しかもナルシシズムの極致のような文章表現を使って自己に酔いながら)簡単に10万部以上を突破してしまった。許せない」というものである。しかし、著作権料などというものは出版契約によって作者に支払われる原稿料であって、作者が売上の過半を得る類のものではない。人気作家でもない限り、せいぜい1割程度が作者に支払われるに過ぎず(つまり出版社側が9割を得る)、何冊もベストセラーを連発しないと、1冊のヒットだけでいわゆる「お金持ち」になるのは無理である。しかも、この作者(元少年A)の場合は、被害者側の提訴による民事訴訟の結果(とっくに裁判は結審して判決が確定している=被害者側がなぜ民事訴訟を起こしたのかは被害者の父親である土師守氏の著作に説明が詳しい。)作者とその両親が総額1億円以上の債務を負っている。すなわち、この少年が例え一定程度の著作権料を得ても、被害者側がその気になれば裁判所に「債権保全」の申請をすれば差し押さえが可能な法状態となっている。つまり、本書の作者(少年)がお金持ちになるのは不可能なのである。
このことは実は一定数のレビュアーが言及している「サムの息子法(Son of Sam Laws)」とも深く関係する。サムの息子法とは米国ニューヨーク州で起きた連続殺人事件の犯人(D.R.Berkowitz)が自分を「サムの息子」(自分が嫌いな犬の名前をこう呼んでいた)と称したところから付けられた名前であるが(NY州法と類似の全米各州の法律を総称してサムの息子法と呼ぶ)、同法が問題としているのはバーコウィッツ本人の収益のみならず彼を使って書籍を出版しようとした業界への警告の意味も含まれている。出版業界、映画、TV、雑誌、犯罪関連グッズのオークション販売など、著名な犯罪行為を利用して商業活動をしようとする誘引を規制する目的を含んでいる。(もちろん、メディアの報道の自由は担保されているが。)
そういう意味では、本書出版の顛末には疑問が残る。週刊文春では出版の経緯を関係者に取材し、その旨を記事にしている。本書の出版元は太田出版であるが、本書の文章執筆には2年間ほどかかったようであり、出版を前提に筆者と接触を重ねていた別の出版社(仲介した出版社)が存在する。その際に原稿執筆に専念するために筆者に生活費も貸している。(しかしこの辺の事実関係には仲介出版社と筆者との間に見解の相違があるようなので、真偽不明である。)本書の出版に関わった出版社は営利のためではなく、本件の重大性に鑑みてこれを広く世の中に問うことに意味を見出して出版に踏み切ったと信じたい。
レビュアーの多くは「こんなもの読みたくない」と言うが、かつて本件についての審議の詳細を記した供述調書が(少年事件なので公開は禁じられているにも関わらず、事件担当の元判事が雑誌社に提供した)文藝春秋に掲載されたことがあった。事件の経緯や殺害方法などが詳細に掲載されていたにも関わらず、雑誌の掲載を批判するよりも「国民の知る権利」の方が強く主張された。既に雑誌に公開されていた上記供述調書や「少年A 14歳の肖像」、「少年A 矯正2500日 全記録」など多数の著書が事件の顛末や矯正教育について詳述していたので、実は本書「絶歌」の前半部分には目新しい事実はほとんどない。むしろ注目すべきは後半部分で、医療少年院を退院後にいかなる生活をしていたのか、その間に何を考えていたのか、という部分である。この部分に関しては(本人しか知らない部分が多々あるので)これまでほとんど世間では知られていなかった。
もちろん、殺された被害者少年の父親である土師守氏は、それが例え事実であるにせよ、少年Aに関する報道や著作が発表されるということは、殺された自分の息子の尊厳を侵すことに繋がり、被害者家族の気持ちを土足で蹂躙する結果となることを怒りを持って自著の中で告発している。加害者の人権ばかりを擁護し、被害者側の人権や尊厳を軽視するこの社会のあり方そのものがおかしいのではないか?と抗議している。この被害者側の感情を一言で要約するなら「そっとしておいて欲しい」ということではないだろうか。本書が世間に公開されて、また息子の名前が連呼されたり、忌まわしいあの事件を様々なメディアが取り上げることに我慢ならないのだろう。
本書を出版した出版社やこれを書いた著者に責任を取らせる方法がないわけではない。被害者側が民事訴訟を起こして「名誉棄損」や「出版差止め」の訴えをする方法もある。それによって叙述内容の修正を求めることも不可能ではない(本書を回収させることは難しいだろうが)。そもそも本人を法廷に呼び出すという方法によって名前や顔を世間にさらすという対抗措置を採ることも考えられなくはない。出版社はそうしたリスクを一切考えなかったということはないはずである。問題は、被害者側がそれを望むかどうかだ。
筆者は本書の中で何度か「壊れてゆく自分」とか「贖罪」という言葉を使う。他人に優しくされてその優しさに対して逆に「激しく動揺する自分を発見」する。犯行を犯している際には感じもしなかったであろうこれらの言葉や感情を今は文章として表現出来る。自分の言葉や感情を客観視出来るところまで更生させた医療少年院職員の努力というものは評価するべきである。医療少年院の関係者がこの少年に「生きて償え」(償えるかどうかは分からないが)「償う努力をしろ」(償うという意味を考えろ)と言った意義は大きい。自分の犯した罪の意味を考え苦悩する姿も(本書の全編がそうだとは言わないが)一定程度は評価してもいいと思う。また、医療少年院を退院した後、世の中にはこうした猟奇的犯罪を犯した者にでも最大限寄り添い、真っ当な人間になるべく「人」として接してくれる人徳な援助者(サポートチームや里親)がいることが描かれている。表には出てこないが、こうした人達によって筆者の今日があることを強く感じさせる。
刑事政策では一般の人を犯罪に無関係な善良な市民とは見ていない、むしろ通常は善良な生活を送っている者が、ある日突然、犯罪者となってしまうことを予想している。これを「潜在的犯罪者」と呼び、社会の安定はこの潜在的犯罪者が犯罪に着手しないことで保たれると考えている。本書の出版には道義的な問題があり、被害者側は許せないと感じていることは事実である。また、猟奇的殺人者と一般の犯罪者を同じ次元で論じることは出来ない。しかし、これが一旦、出版されてしまった以上、これに対する誹謗中傷だけでは何も解決しない。むしろ、刑事政策的には犯罪者の心理や論理について知ることは無意味ではないし、矯正教育後に犯罪少年がどのような人生を送っているのかを知ることにも意義があると考える。
2024年2月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
興味無いなら読まなくていい。サイコパスでは無い
2023年8月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まずは、幼くしてこの世の生を奪われた二人の尊い命を深く思わざるをえません。
そして、この著書、高山文彦「少年A 14歳の肖像」、 草薙厚子「少年A 矯正2500日 全記録」を併読することによって、この極悪怪物と思われている少年の虚像が少し見えてきました。自分のこともすべては見えていませんので、あくまで薄っすらとですが。
なぜこの本をわざわざ書いたのか?
それは、約2億円という慰謝料(出版社の拙速な出版により遺族から受け取り拒否されたようですが)もあるようですが、幼少期からノートに自分の世界を描き、母親から買ってもらった画集、特にダリを愛好した芸術に傾倒するような体質(直観画像素質者含め:精神鑑定より)があったようです。
絵画だけだでなく、「絶歌」には、凝り固まったような美文調の文章がたくさん出てきて驚かされますが、幼少期より文章や絵画にのめり込み、自分の世界を築いてきたかと思います。
少年Aとダリには奇妙ほど一致する点が多かったようですが(高山)、なぜダリは芸術家になり、少年Aは、淳君の首を校門に掲げ恍惚となっていたのか。それは紙一重だったかと思います。すべては紙一重なのだと気づかされます。たまたま私でなくて、少年Aだったのか。
母親の厳しい躾けや体罰や、その他さまざまな、性化学物質やホルモンの分泌含め、事象の連鎖の偶然としか言えません。悪とか善を超えた人間の業とでもいうような。
人間は何でもする、今ウクライナの大地や様々な場所、様々な歴史の中で。
そして、この著書、高山文彦「少年A 14歳の肖像」、 草薙厚子「少年A 矯正2500日 全記録」を併読することによって、この極悪怪物と思われている少年の虚像が少し見えてきました。自分のこともすべては見えていませんので、あくまで薄っすらとですが。
なぜこの本をわざわざ書いたのか?
それは、約2億円という慰謝料(出版社の拙速な出版により遺族から受け取り拒否されたようですが)もあるようですが、幼少期からノートに自分の世界を描き、母親から買ってもらった画集、特にダリを愛好した芸術に傾倒するような体質(直観画像素質者含め:精神鑑定より)があったようです。
絵画だけだでなく、「絶歌」には、凝り固まったような美文調の文章がたくさん出てきて驚かされますが、幼少期より文章や絵画にのめり込み、自分の世界を築いてきたかと思います。
少年Aとダリには奇妙ほど一致する点が多かったようですが(高山)、なぜダリは芸術家になり、少年Aは、淳君の首を校門に掲げ恍惚となっていたのか。それは紙一重だったかと思います。すべては紙一重なのだと気づかされます。たまたま私でなくて、少年Aだったのか。
母親の厳しい躾けや体罰や、その他さまざまな、性化学物質やホルモンの分泌含め、事象の連鎖の偶然としか言えません。悪とか善を超えた人間の業とでもいうような。
人間は何でもする、今ウクライナの大地や様々な場所、様々な歴史の中で。